【7月30日 午前10時38分】
エレベーターが三階に止まると同時に、私は白樺の背中に隠れながら外の様子を伺った。
「出口付近には楢崎はいないみたいね」
「……アンタ、仮にエレベーターの扉が開いたと同時に襲撃されたらどうするつもりだったんだ?」
「え? そのためにアンタを盾にしてるんでしょ」
「……」
何かを言いたそうに見えたけど、構っている暇はない。白樺はあくまで楢崎クロエに対する交渉材料だ。
「黛センパイ」
階段を上がってきた樫添さんが小声で私を呼ぶ。とりあえず分断される危機はなくなったか。
「唐沢のアジトは右奥の部屋です。おそらくは柏ちゃんもそこに……」
「ええ。事前の打ち合わせ通り白樺を使って楢崎の動きを止められればそれでよし、できなきゃ強引にでもエミを連れ戻すわ」
そうは言ったものの、今のエミは私たちの知るエミじゃない。強引に連れ去る難易度は高いだろう。下手をすれば私たちの方がエミを連れ去ろうとしている犯罪者と扱われる可能性すらある。
だけどそんなことを考えている暇はない。それを考えるのはエミを助け出した後だ。
「じゃあ……いくよ!」
小さく合図した後に思い切り部屋の扉を開いて、中を見渡した。
「……ダメですよ」
その声が聞こえた瞬間、私の身体は半ば自動的に動き、後ろの廊下の壁まで跳んでいた。
「くっ!!」
何をされたわけでもない。だけどもし、あと一瞬動くのが遅かったら身体がねじ切られていたかもしれない。そう思ってしまうほどの危機感が私の身体を支配している。
間違いない。声のトーンも、相手の敵意を要求するような言葉も、アイツのものだ。
「ダメ、ダメ、ダメですよ、黛さん。入った瞬間、私めがけて襲い掛かってくれないと」
怯えたような表情と震えた声とは裏腹に、昨日私をあっさりと地面に転がした女、楢崎久蕗絵が私の前にいる。
「……昨日ぶりね、楢崎クロエ。一度だけ聞くけど、エミはどこ?」
「エミちゃんなら唐沢先生や木之内くんと一緒に出て行っちゃいましたよ。今は私一人です」
部屋の中を見回しても、確かに他に人がいる様子はない。仮にアイツの言葉が真実なら、エミと唐沢は共に行動していることになる。
だとするとまずい。今のエミが斧寺霧人を失った状態である以上、唐沢からしたらもうエミはいつでも殺せる相手……
いや、そうじゃない。まだ唐沢の目的である『斧寺霧人の復活』は達成されていない。
そうだ、そもそも唐沢がどうやって斧寺霧人を復活させる気なのかは知らないけど、エミを殺すことで斧寺霧人が完全に消滅してしまう可能性がある以上、アイツも迂闊に手を出せないはずだ。
「クロエ!」
「あれ、パパも来てたんですね」
「……唐沢はどうした? 俺が恵美の居場所を教えれば、お前を解放するって言ってただろう?」
「解放も何も、私は別に唐沢先生に捕まっているわけじゃないですよ。それにパパはずっと私を嫌っていたじゃないですか。パパはそれでいいんです」
「違う! お前が俺に嫌われていたいのは、俺がお前を愛してやれなかったからだ! お前は唐沢に騙されてるだけなんだ!」
白樺の言葉を受けて、楢崎の顔がわずかに曇った。
「俺がお前を真っ当に愛してやれていれば、お前がここまで歪むことなんてなかったんだよ! なあクロエ、もう一度俺に父親をやらせてくれ……」
「ダメですよ」
拒否の言葉と共に、白樺の口が強制的に塞がれた。
「ぐがっ!?」
「私は歪んでなんていません。私はずっと私のままです。パパは私を理解しなくても好きにならなくてもいい。でも、理解した気になるのはダメです」
「ク、クロエ……ぐむっ!」
「自分が愛してやれなかったとか、唐沢先生に騙されているとか、自分が理解できる理由をでっちあげて安心しようとするなんてダメです。そうでしょ、パパ?」
「ぐ、ぐむう……!!」
楢崎の言葉に少しの違和感を覚えたけど、今はそんなのどうでもいい。この場にエミがいないのなら、私が取るべき行動はひとつ。
「樫添さん! 行くよ!」
「はい!」
白樺を見捨ててさっさとこの場を離れる。これしかない!
「ぐ、ううう!?」
「あれ、こっちに来ないんですか黛さん?」
楢崎の言葉を無視して私たちは上階に向かった。
【7月30日 午前10時47分】
「樫添さん! そっちは!?」
「ダメ、いません!」
このビルは五階建てだけど、四階と五階にはエミはいなかった。そうなると……
「既にビルを出たか……もしくは一階?」
沢渡や楢崎がまだこのビルにいる以上、唐沢たちもまだ残っている可能性はある。
「樫添さん! 朝飛さんに連絡して一階を探させて!」
「わかりました!」
樫添さんが電話をかけると、相手は呼び出しに応じてくれた。
「朝飛さん、今から一階に戻ります! 柏ちゃんはそっちにいるみたいです!」
通話を終えると、樫添さんは少し不安そうな顔でこちらを見る。
「朝飛さん、沢渡のことはどうしたんでしょうか」
「……わからないけど、ある程度痛めつけただけで済ましてくれたと思う。たぶん」
私たちの頭には数ヶ月前の冷たい無表情がまだこびりついている。
「とにかく一階に戻りましょう。私はエレベーターで下りるから、樫添さんは階段で降りて。ただ、楢崎が待ち受けているようなら無理せずに引き返して」
「わかりました」
お互い一階で合流する手筈で、私たちは再び二手に分かれた。
【7月30日 午前10時50分】
エレベーターが一階に到着して扉が開くのを見届けた後、ゆっくりと外を窺う。待ち伏せされている様子がないのを確認した後、目の前に人が倒れているのが見えた。
あれは……沢渡? 気を失っているみたいだけど、朝飛さんがやったんだろうか。とにかく近づかないでおこう。
「あ、ぐっ!」
その時、背後から女性の悲鳴が聞こえた。エレベーターの横にある部屋からだ。
「樫添さんは……まだ来ないか」
合流してからの方が安全だけど、そんな暇はない。今のがエミの声だとしたら、迷っている時間が惜しい。
「エミ!」
扉を開けて私の目に飛び込んできたものは。
「ま、まゆずみ、さん……」
壁にもたれかかって苦しそうに呻く朝飛さん、そして……
「……おや」
床に散らばった資料を踏みつけるように立っている若い男の姿だった。
「アンタ……確か昨日、『死体同盟』に来た男?」
そうだ、確か木之内櫓と名乗っていた、妙に話が噛み合わない男だ。
だけどなんだろう、昨日会った時と同じ顔だし同じ姿をしているのに、なぜか別の人間に見える。
しかしその違和感の理由はすぐにわかった。
「なるほど、柏恵美の支配者というだけあって、随分と行動が早いではないかね。喜ばしいことだよ、黛くん」
私が守るべき相手から発せられるべき言葉を、よりによってコイツが発していたからだ。
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