「おや、見学希望者かい? いらっしゃい。どうぞご覧になってください」
唐沢先生が優しい笑顔でメイジを出迎えてるけど、私からしてみれば緊急事態もいいところだ。
なんでアイツがここに? 大学や自宅の近くで出くわす可能性は考えてたけど、こんな場所にピンポイントでたどり着けるはずがない。だけど現実に、メイジはここに来ている。それも私たちが訪れたタイミングで。
「ああ、すみません。この教室にもちょっとは興味あるんですけども、オレが来たのは別の用事なんですよ」
「どういうことかな?」
「オレの元カノがここにいるって聞いたもんで。あ、いるじゃん」
「っ!」
室内だから、簡単に見つかってしまうのは仕方ない。ただ、今の私からしてみれば再びメイジから逃げられない状況になってしまったことで、こんな場所に来るんじゃなかったと後悔してしまう。
アイツの顔は私を嘲る。実際にメイジが私を嘲けているかどうかに関係なく、私自身がそう考えてしまう。
黛瑠璃子とは、こんな男に縋っていた弱くて愚かな女なのだと突き付けられている。
だとしても、まずエミをここから逃がさないとならない。アイツがエミに危害を加えるなんてことはあってはならない。
「エミ! 早くここから……え?」
隣にいるはずのエミは、なぜか閂に守られるように壁際に追いやられていた。
「ふむ。どうやら彼女が私のことを守ってくれるようだが……ルリ、君が要請したのかね?」
「ひひっ、いえいえ……これは私自身の判断ですよ……ご覧の通り柏先輩の身はこちらで守りますので……黛先輩は存分にあの男に立ち向かってください……」
どういうこと? 閂が何の裏もなしにエミを守るとは思えない。だけどそれを考えてる暇はない。とにかくメイジを追い払わないと。
「あ、あの、黛さん。あの人ってこの間の人、ですよね?」
財前が身体を震わせているけど、メイジはそれに構わず私に近寄ってきていた。
「よう、瑠璃子。また会ったな」
「……アンタ、演劇になんて興味あったの?」
「うん? まあちょっとはな。少なくともアニメの声優には興味あるぜ」
「じゃあ、偶然ここに来たってこと?」
「まあな。この近く歩いてたら、ここにお前が入っていくのが見えたんだよ」
嘘だ。いくらなんでも私たちがこのビルに入るタイミングで都合よく近くを通りかかるわけがない。メイジは明らかに狙いすましてここに来ている。じゃあなんぜそんなことが可能なのか? 考えられる可能性はひとつだ。
何者かが、メイジに私の居場所を教えている。
そうだ、それしかない。メイジには協力者がいて、そいつは私の居場所を把握している。私がここにいることをメイジに教えているヤツがいる。そうじゃないとメイジがここに来れるはずがない。
「それでだ、瑠璃子。今度はお前、演技の練習始めんのか?」
「だったら何よ。アンタには関係ないでしょ」
「確かにオレには関係ねえけど、この前会った…弓長くんって言ったっけ? あいつがお前と付き合おうとしてるのはちょっと困るな」
メイジは気づいてないみたいだけど、弓長くんは教室の端でこちらの様子を見ていた。メイジの発言を受けた彼は、表情を引き締めて両手を目の前に掲げ、勢いよく叩いた。
その直後、彼の顔があの時のように、『狩る側の存在』が持つ残酷な空気を纏った。
「……君は、この間の男だよね? 別れたクセに、まだ黛さんに付きまとってるのかい?」
「ん? なんだアンタ? あれ? もしかして弓長くんか?」
「そうだよ。それで、黛さんから『オーダー』をもらったからさ……」
その直後、弓長くんの手がメイジの首にかかっていた。
「二度と立てないようにこらしめてやるよ」
「っ!?」
「弓長くん!?」
首を掴まれたメイジだけじゃない、萱愛も彼の行動に驚いている。まさか、弓長くんは本当にメイジを二度と立てないくらいの目に遭わせるつもりなんだろうか。
「て、てめえ……実力行使ってことかよ!」
メイジは苦しみながらも、弓長くんの腕を殴りつけて手を引き剥がそうとしている。どうしよう。メイジを追い払ってほしいとは言ったけども、明らかにこれはもう暴力沙汰になってる。だけど弓長くんを止めたらメイジが私やエミに危害を加えるかもしれない。どうすれば……
「弓長くん、やめてくれ! なんでこんなことをしてるんだ!?」
だけど、そんな私の葛藤は萱愛からしたら知る由もない。アイツが弓長くんを止めようとするのは当然のことだ。
「僕は黛さんのために、コイツをこらしめるって決めたんだよ萱愛先輩。その僕を止めようって言うなら、アンタもこらしめる必要があるのかな?」
「弓長くん? 何言ってるんだよ……? 君は、そんな男じゃなかったはずだ! 俺は……やっと君が自分の意志を出して、黛さんが好きだって言ってくれて……本当に嬉しかったんだ! それなのに、なんでこんな……!」
「黛さんの『オーダー』があるなら、僕はアンタとも敵対するよ」
「そんな……」
萱愛の顔は本気で驚いているように見えた。そもそもコイツは本音を隠すタイプでもないから、今の弓長くんがコイツの知ってる彼じゃないのは確かなんだろう。
私の『オーダー』があるなら、弓長くんは萱愛とも敵対する。なら、私の『オーダー』次第なら彼も止められるかもしれない。仮にメイジがこちらに手を出してきたとしても、その時は萱愛が閂を守るために動くだろう。それなら。
「弓長くん、メイジから手を放して。そこまでしろって言った覚えはないわ」
私の言葉を聞いた弓長くんは、こちらを一瞬見た後にメイジから手を放してくれた。
「……えーと、黛さん。今の僕は気に入らないのかなあ?」
「今の弓長くんは私が一番嫌いなヤツに似てるから、気に入らないわ」
「そうですか。わかりました」
再び顔の前で両手を叩いた弓長くんは、純朴な少年の顔に戻った。
「黛さん、すみません! あなたの期待に沿えませんでした!」
深々と頭を下げてくるけど、さっきまでの行いを見るとうさん臭く思えてしまう。けど彼の対処は後だ。
「ったく、瑠璃子よぉ。お前随分危ないヤツに好かれたもんだなあ」
まずはメイジをどうにか追い払うか逃げるかしないといけない。弓長くんに頼れない以上、結局は私がコイツに立ち向かうしかない。
決意を固めろ。足を踏み出せ。今の私が守らないといけないのは、自分だけじゃないんだ。
「これ以上、アンタの好きに……!」
「はい、ストップストップ。事情はわからないけど、みんな落ち着いてくれよ」
どうにか固めた決意は、唐沢先生のよく通る声で緩んでしまった。
「困るねえ、ここは私の教室なんだ。ケンカに来たなら帰ってくれるかい?」
「ケンカに来たつもりはないっすよ。それに、先に手を出してきたのはあっちの弓長くんですよ? アイツがここの生徒だって言うんなら、むしろ文句を言う権利があるのはオレの方じゃないですか?」
「確かに先に手を出したのは波瑠樹だ。ただねえ、私も波瑠樹が何の理由もなしにケンカを売る子とは思ってないんだよ。見たところ君は黛さんの知り合いの上に彼女からそんなによく思われてなさそうだ。それなら波瑠樹が君に手を出した理由も大体想像つくよ」
「……それが想像つくんなら、オレがここに来た理由も想像ついてないんすか?」
「それは知らないよ。私は人の心を読めるわけじゃないし」
……なんだろう? 一瞬だけど、メイジの言葉に違和感を抱いた。いや違う、敵意を感じたんだ。
弓長くんに対してじゃない。今のアイツと対峙しているのは唐沢先生だ。その唐沢先生に対しての敵意があった。
「とにかくさあ、出て行ってくれるかな? ここは私の教室なわけだし、警察に通報すれば危ないのは君の方だよ?」
「はいはい、わかりましたよ。ま、別にここじゃなくても瑠璃子に思い知らせることは出来るしなあ」
そうだ。コイツが私にしたことを忘れてなんていない。私の心を弄んで、私の心を抉って、私がやっと手に入れた居場所すら奪おうとしている。
メイジの目的が何であろうと、私を苦しめようとしているのは確実なんだ。
「ああ、瑠璃子ぉ。オレがなんでここにいるのか気になってるか? まあだいたい想像つくだろ?」
教室を出る寸前、メイジは私に向き直って、笑いながら言った。
「“腹黒”なヤツには気をつけろよ」
その言葉は、私の猜疑心を煽るには十分だった。
十分後。
「黛さん、申し訳ありません! まさか弓長くんがあんなことをするなんて……あの人、黛さんの彼氏だった人なんですよね?」
『スタジオ唐沢』のあるビルから出た直後、萱愛は頭を下げて大声で謝罪してきた。弓長くんは唐沢先生と話をするとかで教室に残っている。
「……いいのよ。アンタは知らないだろうけど、アイツは最低だから」
「だとしても、すみませんでした! 彼も黛さんを守りたいという気持ちが先走ったんだとは思いますけど、まさかあんなことを……」
やはり萱愛にとっても弓長くんの行動は想定外だったみたいだ。顔を上げたと思うと、両手で頬を叩いてビルを見上げている。
「俺、もう一度弓長くんと話し合ってきます!」
言い終わる前に階段を駆け上がっていった。なんかアイツ、弓長くん絡みになると以前の面倒くさい部分が増してきてない?
「おやおや、萱愛氏……私を置いていかないでくださいよ……ひひっ、あなたの行く場所には私もいるということをお忘れなく……ひひひ……」
閂もその後を追っていった。これで面倒くさいヤツらがいなくなったわけだし、今後の対策を考えるか。
「そういえば、あのメイジって人は何で黛さんがここにいるって知ってたんでしょうか?」
「私もそれが気になったよ。まさかルリが自ら教えているわけもあるまい」
財前とエミの意見は私と一致していた。一番気になることはそれだけど、結論は既に出ている。
「アイツに協力している誰かが、私の情報を漏らしているってことね」
つまり当面の目的は、その協力者の正体を突き止めることだ。
「ところでルリ。君はなぜ、あのメイジという男を恐れているのだね?」
「え? いや、この間そのことについては話したでしょ」
「そうなのだが……君が恐れるにしてはあまりにもやり方が杜撰すぎるだろう。何しろ我々に協力者の存在を悟らせてしまっているのだからね」
「あ……」
言われてみれば確かにそうだ。アイツがここに現れたこと自体が、手の内を晒していると言っても過言じゃない。
じゃあなんでそんなことをしているのか。考えられるとしたら……
「私の近くに、“腹黒”な裏切り者がいるって疑わせたいってこと?」
確かにメイジは『“腹黒”なヤツには気をつけろ』と言っていた。それはおそらく、私の近くに裏切り者がいると知らしめて、疑心暗鬼に陥れたいということだ。
つまりアイツは、やはり私を苦しめて楽しむためにここに来たんだ。
「私が……エミを疑うとでも思ったの?」
アイツが私とエミの関係まで把握しているかはわからないけど、少なくともエミがその“腹黒”であるはずがない。それなのにアイツは私にエミを疑わせようとした。私がどんな思いで、どんな戦いを経てエミの支配者となったのかも知らずに、その関係を踏みにじろうとした。
だったら、メイジは私の敵で確定だ。
「エミ」
「なんだね?」
「樫添さんの予定ってわかる?」
「ふむ、来週には課題も試験もひと段落すると言っていたよ」
「なら来週は樫添さんと一緒にいて。そこから数日でアイツのことは片づけるわ」
今の私がどんな顔をしているのかはわからない。でも、目の前にいるエミは悦びの笑顔を浮かべて、財前は怯えたように顔を引きつらせている。
それを見れば、私は自分の強さを確信できた。
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