「いい加減にしろっ!」
目の前の女を殴りつけると、そいつはボロ雑巾のように力なく倒れ込んだ。それでも、この女――柏恵美は意味深な微笑みを浮かべたままだ。
その態度に、この私、祠堂祈里はますます苛立ちを深めた。
「ニヤニヤしてんじゃねえ! キモイんだよ!」
まるで私の行いに対して無抵抗な上に、全く苦しんでいない様子が無性に気にくわない。
「くそっ!」
「くぅっ! ふふふ……」
柏の細腕を踏みつけるが、小さな悲鳴を上げただけで、すぐに元の微笑みに戻ってしまう。
「くはは、倒れている相手に対しても攻撃を止めず、骨を折りやすいであろう腕を踏みつける……随分と容赦がないじゃないか、祠堂くん。実に、実にいいよ」
「何が面白いんだよ!」
尚も苦しむ様子のない柏のわき腹を思い切り蹴り上げる。柏がせき込むが、その目は私に対する恐怖や怯えが一切無い目だった。いや、むしろ歓迎しているかのようにも見える。
「ちょ、ちょっと、イノリ。これじゃ柏の奴全然懲りてないよ」
私の友人の一人である女子が、苦言を呈す。ここは校内でも人気のない、校舎裏だ。今、この場には柏と私、それに私の友人三人がいる。
私たちは柏をいじめるためにここに来たのだ。そう、決して……
「柏ぁ、あんたのせいでこの学校から何人も退学者が出てるんだよ? 申し訳ないと思わないの?」
「そうだよ、あんたはいじめられるしか能がないんだからさぁ。さっさと自殺しなよ」
私の友人たちが、柏を罵倒する。
彼女たちは柏に制裁を加えるという名目で暴力を振るっている。柏のせいで、この学校で停学になったり自主退学をする生徒が続出したというのが理由だ。
確かに、この柏という女はなにかと騒動の中心になっている。一昨年の中学生の自殺にも関わっているらしいし、それ以降、柏をターゲットにした暴力事件がいくつも起きた。その犯人たちが、停学処分を受けているのだ。
いくら被害者とはいえ、続けざまに暴力事件に関われば、中心である柏に原因があると考えるのが自然だ。だから、友人たちは『学校の平和のため』という大義名分で柏をいじめている。
だが、私は違う。
どんな理由があれ、いじめはいじめ。それ以上でも、以下でもない。こんなものは、単なる自己満足に過ぎないのだ。
私はそれを知った上でやっている。決して自分を正当化しているわけではない。仮に、柏が私に反撃をしてきたとしても、ムカつきはするが、理不尽とは思わない。そう、こんなことをして自分だけは被害を受けたくないなどという、虫のいい考えは持っていない。いじめなど、自分の心を黒い優越感で満たすだけの行為。
しかし、この女に対するいじめは違った。
「自殺か……その案は却下だね。私が本当にいじめられるしか能のない女だとしたら、願ったりかなったりだ。私はあらゆる人間に追い詰められ、逃げ場を塞がれ、最終的には『彼』に狩られる。こんなおいしい状況を自ら手放すと思っているのかね?」
この女は、私たちのいじめに苦しむどころか喜んでいる。これでは、私の心に優越感など生じない。本来なら、こんなやつは相手にするべきではないのだ。なのに私は、私は……
「黙れぇ! この『カカシ女』が!」
なんとか、柏から許しを請う言葉や泣き言を引き出そうと、半ば藁にもすがる気持ちでこいつの体を何度も踏みつけた。
「あぐっ! ぐふぅっ! くっ、ははは……このまま、私は一気に殺されてしまうのかな? それも、それもいいじゃないか……」
泥だらけになった制服を払うこともせず、柏は不気味な笑いを続けている。もはや異常とも言える光景に、私の友人たちは言葉を失っていた。
なんでだ? なんで私は、ここまでこいつに拘る?
さっさと次のターゲットでも探すべきだ。こいつをいじめていても、永遠に優越感など満たされない。だが、それでも私は、こいつへの暴力を続けていた。
まるで、私の中に他人の意志があるかのように。
いつからだ? いつから私はこうなった? まさか一昨年のあの時――
「柏ちゃーん!?」
その時、柏や友人たちとは別の女の声が響いた。
「イ、イノリ! 樫添が来たよ! ここはひとまず……」
見張りをしていた友人たちが、逃げるように促してくる。
樫添保奈美。チビで童顔のくせに、やたら肚の据わった女。確かにあいつは面倒だ。仕方がない、ここは逃げよう。
「柏……今度こそあんたを、」
自分が何かを言おうとしたのを、まるで私は他人事のように聞いていた。
※※※
将棋部の部室を飛び出した俺は、あてもなく校内をさまよっていた。
「あんな、あんな人が教師だなんて……」
御神酒先生。あの人の考えは間違っている。教師なら諦めずに生徒全員に対して平等に接して、全員を救うべきだ。
だが、俺はあまりのショックに逃げ出してしまった。あの人に反論することが出来なかった。
「俺は、無力なのか……?」
自分に疑問を投げかけた直後、今いる場所が人気のない校舎裏だということに気がついた。
「あれ……?」
その時、見覚えのある姿を目にする。包帯を体の至る所に巻いた女子、柏先輩だ。
しかし、今の彼女は全身に真新しい傷がついていた。そして、柏先輩の周りに二人の人物がいた。一人は、座り込む柏先輩に寄り添う形でしゃがんでいる女子だ。小柄で童顔ではあるが、リボンの色が柏先輩と同じなので、三年生のようだ。
そして、その二人の前に俺に背を向ける形で立っているのは……
「無様だな、柏恵美」
――柳端!? 柳端が傷だらけの柏先輩の前に立っている。
そして、今の発言。まさか、まさか、柳端が柏先輩を傷つけた!?
いや、柳端はまだ入学したばかりだ。いじめに関わっているとは考えにくい。でも、この状況は……?
とりあえず、俺は物陰に隠れて様子を見ることにした。
「柳端……あんた、やっぱり柏ちゃんを」
「当たり前だ。樫添、あんたも二年前のことを忘れたわけじゃないだろう?」
二年前?
そう言えば、柏先輩がいじめを受けるようになったのは一昨年からだと言っていた。でも、何で柳端が『二年前』なんてワードを出すんだ?待て、柳端と二年前というワード。何かあったような……
「あのことは……柏ちゃんに全て責任があるわけじゃない!」
「違うな、全てこの女のせいだ。この女さえいなければ、香車は……!」
柳端は、柏先輩にあからさまな敵意を向けている。
そうだ、二年前と言えば、棗が自殺したのも二年前だ。まさか、棗の自殺に柏先輩が関わっているのか?
「くっくっくっ」
その時、柏先輩が楽しそうに笑った。
「いやいや柳端くん。随分といい表情になったじゃないか。まるで視線だけで私を殺しそうだよ。今はまだ、私への憎しみが勝っているようだが、いずれは純粋に私を殺したいと……」
「黙れ! お前はそうやって香車を混乱させたんだ!」
柏先輩が、棗を混乱させた?
まさか、柏先輩が棗の自殺の理由なのか? 今の柳端の言動から考えると……
棗は柏先輩と付き合っていたが、柏先輩に弄ばれた挙げ句に振られたのか?
確証はない。だが、そう考えると柳端が柏先輩を憎んでいる理由にも説明が付く。しかし、柏先輩がそんなことを?
「……覚えておけ、必ず俺がお前を絶望の淵に叩き込んでやる」
「それは楽しみだね。精一杯のお洒落をして、君を迎えよう」
柏先輩に対して、最後まで苛立ちを隠さないまま、柳端はその場を去った。
「柏ちゃん、大丈夫? どうして、どうしてこんなことになったの?」
「ふふふ、私は狩られる運命にある……そういうことだろうねぇ」
「はぐらかさないで! おかしいよこんなの……いくら何でも、ここまで柏ちゃんが暴力を受ける謂われはないでしょ!?」
「私に決定権はないよ。どちらにしろ、黛くんが卒業した今、私を守る者は君だけだ。まあ、頑張りたまえ、樫添くん」
「……」
……状況から見て、柳端が柏先輩に暴力を振るい、あの樫添という先輩が庇っていたようだ。
どういうことだ? いくら何でも異常だ。樫添先輩の言うとおり、柏先輩があそこまで暴力を受ける理由があるとは思えない。どうなっているんだ、この学校は!?
そう考えていると、いつの間にか二人もいなくなっていた。
「はあ……」
ため息をつきながら、通学路を歩く。
今日一日で、考えされられる出来事が複数起こったためか、非常に疲れた。まだ本格的に授業も始まっていないのにこれでは、先が思いやられる。
そうだ、今日はあいつに会いに行こう。半ば突発的にそう考えた俺は、二十分ほど歩いた後に、ある民家のチャイムを鳴らす。
「はーい」
「こんばんは、萱愛です。突然すみません」
「あら、萱愛くん? カギ開いているからいいわよ、どうぞ」
許可が出たので、住人の出迎えを待たずに玄関のドアを開ける。
「いらっしゃい、萱愛くん。……ありがとうね」
「いえ、こちらこそ突然お邪魔してすみません」
四十代にしては少し若く見える女性が俺を出迎える。
この家は、俺が中学生の時に同じ塾に通っていた友人、唐木戸俊輔の家だ。
しかし……唐木戸はすでにこの家にはいない。
「俊輔も、友達が頻繁に会いに来てくれて幸せね……さあ、上がって」
「お邪魔します」
そして、俺は和室に置かれている仏壇に線香をあげ、手を合わせる。
「……」
仏壇の中心には、中学生にしては小柄で下手をすれば女子にも間違えられそうな唐木戸の写真が、遺影として納められていた。
俺はその前で、目を閉じてあいつのことを思い出す。
唐木戸は、中学二年生のころ、俺より後に塾に入った。
俺とは別の中学だったが、不思議と話が合い、仲良くなった。引っ込み思案で消極的ではあったものの、俺の遊びの誘いには快く応じてくれたし、
お互いの家で一緒に勉強したことも何回かある。
あいつは本を読むのが好きで、特に心理学の本が好きだった。よく、人の気持ちを読みとる方法について語ってくれたことを覚えている。正直、難しくてよくわからなかったが。
その反面、勉強がそこまで得意というわけではなかった。俺と一緒にM高を受験したが、あまり手応えを感じていなかったと言っていた。
そしてあいつは、合格発表を待たずして自殺した。
信じられなかった。あいつがそれほど受験に追いつめられていたとは思わなかった。
俺も自分の勉強をしながら、あいつに勉強を教えていた。それでも、あいつの模試の結果は良くはなかった。それがあいつを追いつめていたのかもしれない。
俺は悲しみに暮れながらも、自分とあいつの合否を見に行った。
受かっていたのは、俺だけだった。
どうしてだろう、どうして俺に打ち明けてくれなかったのだろう。俺だったら、あいつの力になってやれたのに。
だからこそ、俺は決意を新たにした。人を助ける人間になろうと。きっと、俺は唐木戸への協力が足りなかったのだ。もっと親身になっていれば良かったのだ。
そして、俺はあらためて決意を思い出すために今日ここに来た。
「おばさん、今日はこれで失礼します」
「そう、またいらしてね」
少し疲れたように見える、唐木戸のお母さんに挨拶したあと、俺は唐木戸の家を出た。
「参ったな、まさか鍵を忘れていたとは……」
家に着いてポケットに手を入れたが、そこにある筈の自宅の鍵が無かった。
少し考えて、教室でポケットの中身をいったん取り出したことを思い出し、学校まで戻る羽目になったのだ。最終下校時刻までまだ時間があったので、教室には入ることが出来た。そして、無事に床に落ちていた鍵を回収し、校舎の入り口に差し掛かる。
「全く、今日は本当につかれ……」
その時、何かが転がり落ちるような音がした。
「えっ?」
結構、大きな音だった。ボールやダンボールといった類のものではない。
何かいやな予感がした俺は、音した方向にあった階段の下辺りを見てみる。
「……うわっ!」
そこにいたのは、人間だった。しかも見覚えがある。
所々汚れた制服と、体中に巻かれた包帯。
柏先輩が、階段の下に倒れていた。
「う……」
先輩は、小さく呻いている。生きてはいるようだ。だが、これは非常事態だ。
俺はすぐに携帯電話を取り出し、ダイヤルした。
「もしもし、119番ですか!?」
一時間後、俺は病室にいた。
倒れていた柏先輩を見つけた後、すぐに救急車を呼んだが、俺は先生たちに事態を伝えるのを忘れていた。おかげで、救急隊員の人が駆け付けたことは、先生たちにとってかなりの驚きだったようだ。
俺は第一発見者ということと、柏先輩の意識がはっきりしていなかったということが理由で、救急車に同乗することになった。発見したときの様子や、先輩の身元などを質問されたが、こちらとしては柏先輩の名前とM高の生徒だということしか知らない。幸い、生徒手帳から住所が分かり、先輩の家には連絡がいったそうだ。さらに幸運なことに、先輩は命に別状はなく、意識がないのも軽いショック状態のようなものらしく、すぐに意識は戻るとのことだった。
そして俺は、医師とともに柏先輩の病室で先輩の意識が戻るのを待っている。
「う……ん?」
柏先輩が呻き声と共に、目を開ける。どうやら意識は戻ったようだ。
「先輩、気が付きましたか」
思わず、医師の許可なく声を掛けてしまった。
「……ここは?」
「病院ですよ。あなたは学校で倒れていたところを、こちらの男子生徒に発見されたのです」
医師が、柏先輩に状況を説明する。
「……ふむ、失敗したようだね」
「は?」
「いや、なんでもないよ。説明ありがとう」
医師に対しても相変わらずの口調の先輩だったが、どうやらあの口調は素のようだ。
「失礼します」
その時、病室のドアが開き、二人の女性が入ってきた。
一人は樫添先輩。そしてもう一人は、長い黒髪の女性だった。柏先輩のお友達だろうか。
「エミ……どうしてなの?」
黒髪の女性は、目に涙を溜めて柏先輩に問いかける。
「ご友人の方ですね? とりあえず今晩は様子をみて入院となりますので、お着替えを持ってきて頂けますか?」
「はい、どうもありがとうございました……」
「いえいえ、それでは私はこれで。何かあったら、ナースコールを押してください」
黒髪の女性の一礼を受けて、医師は病室から出て行った。
「エミ、説明して」
「説明も何も、階段から落ちただけだ」
「自分で? そんなわけないわよね? 誰にやられたの!?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
意識が戻ってきたばかりの柏先輩に、なぜか怒った様子で詰め寄る女性を静止する。
「柏先輩は意識が戻ったばかりです。説明も何もないですよ。それに、誰かにやられたとは……」
「あなたは……?」
「あ、俺はM高一年の……」
その直後、女性は俺に掴みかかってきた。
「あんたがやったの!?」
いきなり大声を出した女性を、樫添先輩が止める。
「ま、待ってください。黛センパイ。まだ、そうとは決まってないですよ!」
「……そうね、取り乱したわ。ごめんなさい」
どうやら、この黛という人は相当気が立っているらしい。友達が怪我したのだから無理はないが……
「黛くん、萱愛くんは私を助けてくれたのだよ」
「ご、ごめんなさい。私、エミが誰かに突き落とされたとばかり……」
「いえいえ、お友達を思っての行動なら、無理も……」
「え? 萱愛?」
その時、なぜか樫添先輩が俺の名前に反応した。
「え、樫添さん知り合いなの?」
「あ、いや、その……変わった苗字だなと思って」
「はあ……」
確かにあまり無い苗字だから、驚く人はいるだろう。
「それで、エミ。本当に階段から落ちただけなのね?」
「そうだよ。何度も私を守ってくれた君に、嘘をつくと思うのかね?」
「……いいわ、信じる。とりあえず、着替えを持ってくるわね」
「じゃあ、僕はこれで……」
自分の役目は終わったと思った俺は、病室を出ようとする。
その時、柏先輩が俺の服を引っ張った。樫添さんたちは、俺が病室に残ったことに気づかず、出て行ってしまう。
「な、なんですか?」
「声を小さくしてくれないか? 彼女に気づかれてしまう」
どうやら、俺と二人で話がしたいようだ。
「さて、結論から言おう」
柏先輩は、俺の顔を見ながら言った。
「私は自分を突き落とした人物を見た」
この件に、犯人が存在するということを。
「な、なんで」
「言っておくが、私はその存在を君以外に教えるつもりはない」
何を言っているんだこの人は? 階段から突き落とされたというのに、その犯人を庇うというのか?
「け、警察に言うべきです! これは、れっきとした傷害事件……」
「何度も言わせないでくれたまえ。私はこのことを警察に言うつもりはない。もちろん、彼女たちにもね」
「どうしてですか!?」
わけがわからない。ここまでされておいて、なお無抵抗を貫くというのだろうか。
「私は、君を試している……そういうことだよ」
「た、試す?」
「言っただろう? 私は近いうちに暴力を受けると。今がその時だ。そしてこれで終わりではないよ」
「何を言って……」
「今、この事件に犯人がいると知っているのは私と君だけだ。もし、私を守りたいのであれば、君が突き止めてみせたまえ」
「ちょ、ちょっと待ってください! なぜそんなことを!?」
「これは君への挑戦だよ。君が私を守れれば、君の勝ち。私が予定通り『彼』に殺されれば、私の勝ちだ」
どういうことだ? 柏先輩が殺されれば柏先輩の勝ち?
まさかこの人は……
「あなたは本気で……本気で他人に殺されたいと思っているんですか!?」
「冗談で殺されたいと思ったことは無いよ」
「そんなのは……間違っています!」
「そう思うのであれば、君が止めてみたまえ」
この人は、この人は! 自分の命を何だと思っているんだ!
認めない……認められるはずがない!
「さて、『彼』はまだ私の命を狙っている。私が死ぬ前に、『彼』を見つけ出してみたまえ。狩られることを望む私を、君の『信念』で救ってみたまえ!」
ふざけるな。
こんな……こんなバカげた考えに……
「そんなバカげた考えに屈するわけにはいきません!」
見つけ出す、そして叩き直す。人を殺そうとする犯人も、殺されたいと願うこの人も。
「いいでしょう、受けて立ちますよ」
「くふふ……君の活躍を期待しているよ」
そして……俺は被害者が首謀者という、あまりにもバカげた事件に挑むことになった。
第一話 完
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