柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第二十六話 遅すぎた理解

公開日時: 2022年12月22日(木) 18:48
文字数:6,097


 この世界はなんて素晴らしいんだろう。ボクが最初にそれを実感したのは小学校に入った頃だった。

 道を歩くボクの目に映るのは、道を走る車だったり、風に揺らめく枝だったり、丘の向こうに沈んでいく夕日だったりした。それら全てが、ボクの好奇心を刺激したんだ。


 なぜ車は走るんだろう。なぜ風は吹くんだろう。なぜ世界には昼と夜があるんだろう。


 これら全てに疑問を持った幼いボクは、当然のことながらその理由を知ろうとした。自宅には図鑑がいくつもあったし、近くに図書館もあったので、それら疑問は部分的には解決した。

 しかし成長するにつれて、世界にはまだ図鑑にも本にも答えが書いていない問題がいくつも存在することを知った。例えば、人は死ぬとどうなるのかという問題。ボクたち人間はいずれ必ず死を迎えて、土に還っていく。だけどその先を体験した人間は誰もいない。正確に言えば、真偽が定かではない『体験談』を語っている人間はいたけど、根拠は何もなかった。

 中学受験を考える頃には、ボクの知識欲は更に強まっていった。学校の勉強をただこなすだけでは、知識欲を満たすことはできなかったから、誰に言われることなく自然と遠方の図書館に通い始めていた。両親はそんなボクを見て将来の大成を予感したのか、難関と言われる法条大学の付属中学への受験を勧めてきた。


「晴天はこのままいけば、医者にでもなるんじゃないのかな」


 ある日、父親がボクに向かってそんなことを言ってきた。ボクとしても以前から気になっていた、『人が必ず死ぬ』という問題を解決する方法が知りたかったので、割と乗り気になっていた。


 難なく中学の入試をクリアしたボクは、中学校という場所に淡い期待を寄せていた。ボクが知らないことを知っている人が大勢いるんじゃないのかと。ボクがまだ味わっていない世界があるんじゃないのかと、そう思っていた。

 そして周りはボクのその期待に応えてくれた。近隣の小学校から成績自慢が集まったからか、クラスメイトたちには昆虫採集が高じて新たな発見をしてニュースに取り上げられた子や、パソコンでゲームを自作するような子など、ボクの知らない世界を持っている人たちがたくさんいた。

 嬉しかった。ボクの世界が広がっていく感覚が、心を満たしていくのを感じていた。世界が広がる度に、ボクの考えもまた広がっていく。知識が増えていく度に、ボクの中に可能性が増えていく。困難に立ち向かう手段が増えていく。


 自分の可能性が増えていく感覚、自分の努力によって成果を積み上げていく感覚、それらが全てボクの生きる活力となる。その生きる活力を生み出すものを、ボクは『希望』と呼んでいた。


 だからボクはこの世界が大好きだ。まだ自分の知らないことがある。まだ自分には未知の可能性がある。それらを全て味わい尽くすまで、ボクはずっと生きていたい。そう思っていた。

 だけど……異変を感じ始めたのは付属高校に進学して二年目の頃だった。


「あー……やばいよ……今回のテストすごく悪かった……」

「サッカー部の山崎くんにフラれちゃった……」

「マジでアイツムカつくわ。なんで生きてんだよアイツ」


 高校生になると、クラスメイトたちは不満を口にすることが多くなっていった。その理由は『成績が悪くて親に詰められた』とか『好きな男子が大してかわいくもない女子と付き合ってた』とか『乱暴なクラスメイトにいじめられている』とか、そんなものだったけど、彼ら彼女らはその後にこんなことを言うのだ。


「もう死にたいよ」


 不思議だった。なんでみんなそんな簡単に『死にたい』なんて口にできるのか。

 ボクがどんなに調べても、『人が死んだらどうなるのか』という疑問を解決している書籍は存在しなかった。正確に言えば、『生物が死ぬと死骸は微生物に分解されて土に還る』とは書いてあったし、それに関する研究論文も数多く存在したけども、『人の意識がどうなるのか』という問題に結論を出している研究はなかった。

 確かにボクも『死んだらどうなるのか』という疑問を解決したいと思ったことはあった。だけど死ぬこととはボクがこの世界から離れなければならないことを意味する。まだボクはこの世界に存在する全ての『希望』を味わっていない。だからこの世界から離れるのはイヤだったし、死にたくはなかった。

 『死にたい』と口にする人たちは、死んだらどうなるのかを知っているのだろうか。死んだ先の世界を知っているから怖くないのだろうか。もし知っているなら教えてほしい。ボクが知らない世界を持っているなら、それをボクにも分けてほしい。

 だからボクは彼らにこう聞いたのだ。


「君たちがもし死ぬつもりがあるなら、どんな光景が見えるのか教えてもらってもいいかな?」


 その質問を投げかけると、彼らは決まってボクを軽蔑するような目を向けてきた。『他人の命をなんだと思ってるんだよ!』とか怒る人もいた。『死にたい』って言っていたのはそっちなのに。

 だけどこれでわかった。本気で『死にたい』なんて思ってる人は存在しないのだろう。ボクだって死にたくないし、みんなだって死にたくない。そりゃそうだ。この『希望』に溢れた世界から離れるなんて考えるだけでも恐ろしい。ずっとこの世界で生きていたい。

 そうだ、ボクにとって最大の『希望』は、ずっと生きていられることなのかもしれない。それがあれば、この世界の全ての『希望』を味わえる。ならボクはそれを目指していこう。医学部を受験して、大学で研究に打ち込んで、『希望』に向かって突き進んでいこう。


 そう、思っていた。


「君の研究テーマは時間がかかりすぎるね」


 だけどボクの『希望』はそれを上回る『絶望』に塗りつぶされた。


「いやね、学生の研究テーマとしては壮大だと思うよ? だけどね、『死』を完全に克服するなんて方法を得るにはたぶん君が一生を費やしてもまだ足りない時間がかかると思うよ? 君だってそんなことわかってるでしょ? ま、学生ならもっと地に足のついたテーマを選びなさいよ」


 大学の医学部の教授はそう言ってボクに背を向けた。まるで夢物語を語る子供を諭すような口調だった。

 つまりボクはもう、この世界の『希望』を味わい尽くせないって言うのか。このボクが。誰よりもこの世界にいたいと願っているこのボクが。

 大学からの帰り道で道行く人たちを見る。みんな下を向いて『死にたい』なんてことを平然と口にする。目の前にある素晴らしい世界を見ようともしないクソどもが、ボクが恐れたものをまるで恐れず、平然と克服している。

 そんな理不尽があってたまるか。この世界に『死』を恐れない人間がいてたまるか。ボクが恐れているものを何も努力していない何も成しえてないお前らが恐れないなんてことがあってたまるか。

 

 理不尽に対する怒りを必死に抑えて、家に帰ると、ボクの部屋の扉が開かれて一人の男の子が入ってきた。


「兄さん、ぼくはなんで生きてるのかな?」


 部屋に入ってくるなり、12歳下の弟であるどんてんくん……空木曇天はそんなことを言い出した。


「……あーあーあー、どんてんくんは、なんで、そんなことを言うのかな?」

「だって、ぼくは兄さんみたいに頭よくないし、兄さんみたいにほめられないし、兄さんみたいに誰かにやさしくなれないし……」


 どんてんくんは俯いて小さな声でそう言った。確かに兄であるボクの目から見ても、どんてんくんが父さんたちから期待されてないのは明らかだった。だけどそんなの、これから彼が頑張ればいいことだ。


「どんてんくん。この世界には『希望』がたくさんあるんだよ。君がこれからたくさん勉強したり、たくさんの本を読んだり、いろんな場所に行けば、君の悩みなんてすぐ吹き飛んじゃうよ」

「兄さん、ぼくの悩みってそんなに小さなことなの?」

「うん? そりゃそうだよ。父さんに褒められなかったからなんなの? 君がこれからどんどん頑張れば……」


「そんなの無理だよ。ぼくはもうすごくがんばったのに、それでもおとうさんはぼくを見てくれないんだよ」


 ああ、そういえば、どんてんくんは私立小学校に入ったけど成績が良くないから、自分の息子とは認められないとか父さんが言ってたかな? そんなの、どんてんくんの実力が足りなかったから……


「兄さん、ぼくもう生きてたくないよ。死にたいよ」


 ……あ?


「あーあーあーあーあー……あああ、あああ! どんてんくん!?」

「ひっ!?」


 気づけばボクは、どんてんくんの右肩を左手で強く掴んでいた。


「なにを、言ってるのかなあ君は!? よく聞こえなかったなあ!? もう一度、もう一度ボクの前で、今のセリフ言えるかなあ!?」

「あ、ひ、に、兄さん?」

「え? どんてんくん? 聞こえないよどんてんくん! もう一度、大きな声で、言ってみなよ! 今のクソみたいなセリフをさあ!」

「あ、ご、ごめんなさい! 何も、何も言ってない!」

「……そう、だよね。どんてんくんはいい子だもんねえ。あーあーあー……本当に、いい弟だよ……」


 ふざけるな、ふざけるな。ボクの弟がそんなことを言うわけがない。そんなことを言っていいわけがない。

 どんてんくんはボクより努力していない。ボクより優れているわけじゃない。その証拠に、家族も周りもみんなどんてんくんではなくボクに期待を寄せている。ボクのこれからに『希望』を抱いている。

 なのになんで、よりによってその弟が、こんなに簡単に『死にたい』なんて言えるんだ。みんな死にたくないはずなんだ。みんな『死』を恐れているはずなんだ。そのために『希望』を求めているはずなんだ。

 ボクを超えていくなんて許さない。なんでお前が『死』を克服しているんだ。ボクがこんなに恐れているものを、なんで何の努力も積み重ねていないお前が恐れないんだ。


 お前がボクを超えているなんてはずがない。ボクが恐れた『死』を恐れていないはずがないんだ。


 そうだ……ボクがみんなに『希望』を与えてやる。みんなに『死』を恐れさせてやる。そうなれば、どんてんくんにも二度と『死にたい』なんて言わせずに済む。


 だからボクは精神科医を志した。この世界に『希望』が溢れていることを知らしめるために。『死』を克服している人間などいないことを証明するために。

 なのに、ボクの前に現れてしまった。


「私が求めてやまないもの……それは『絶望』だ」


 実習で訪れていたとある病院で、そんなことを言い出す女の子がいたのだ。

 聞き違いだと思った。『絶望』を、ボクが恐れたものを、よりによって求めているなんて人間がいるはずがないと思った。だからボクはその女の子の保護者である斧寺識霧という男に接触し、その女の子の動向を掴んだ。

 そしてその数年後、医者となったボクの前に現れたそいつは……柏恵美は何の迷いもなくボクに言い放った。


「私にとっての『幸せ』は、私の求める『絶望』を手に入れた時だよ」


 幸せ? そんなものが幸せだって?

 なんでお前がそんなことを言える。なんで『絶望』を手に入れたいなんて言える。ボクは『希望』に溢れたこの世界でずっと生きていたいんだ。なのに『死』という『絶望』に突き当たったボクがどんなに苦しんだと思ってる。

 お前が『死』への恐怖を克服しているはずがない。ボクを超えているはずがない。そうであっていいはずがない。


 お前さえ『希望』に縋り付けば、ボクを超えている人間なんて存在しないと証明できる。


 柏恵美を打ち負かせば、ボクの『希望』は揺るぎないんだ。



 ※※※



 ここは……どこだろう。

 頭の後ろにやわらかい物が当たっているのはわかる。だけどそれ以外の感覚がほとんどない。目を開けてみるけど、目の前がぼやけてて上手く見えない。


「……兄さん」


 どんてんくんの声がした。ああ、そういえば視界の左端にどんてんくんみたいな顔が見える。寝ているボクを覗き込んでるみたいだ。

 声をかけようとして……上手く声が出ないことに気づいた。


「兄さん、気がつきましたか?」


 返事をしようとしても、上手く言葉にならない。起き上がろうとしても、体が動かない。というか、体の感覚がない。腕や足がどこにあるのかがわからない。

 え? 何が起こってる? ボクは今、どうなってる?


「空木晴天さんの意識が戻ったようです。目が開いています!」


 誰かの声がした。知らない声だ。


「落ち着いて聞いてください、兄さん。あなたは今、病院のベッドに横たわってます」


 病院? ああそうだ。ボクは確か、柏さんに『希望』を与えようとして……黛さんに催涙スプレーか何かを噴射されて……


「ですがあなたは、柏様を襲おうとした際に目が見えない状態で無理に動いたせいで転倒して……運悪く後頭部を強く打ったそうです」


 は? 後頭部を打った?

 待て、じゃあまさか。


「なので……頸椎を損傷したあなたは……もう身体を上手く動かすことができません」


 そんな、なんで。

 だってボクの意識はある。どんてんくんの声だって聞こえてる。そんな、身体だけ上手く動かないなんてことがあるはずが……


「……柏様と黛さんが救急車を呼んでくださったことで、あなたは一命をとりとめました。夕飛さんや朝飛さんたちも無事です」


 違う、ボクはそんなことを聞きたいんじゃない。

 ボクは治るのか? ボクはこれからどうなるんだ? ボクは……


「兄さん、これからあなたはおそらく歩くことも立つことも出来ないと思います。これも全て、私の責任です。私が兄さんの苦しみに……あなたの『絶望』にもっと早く気づいてあげられたなら……私があの時『死にたい』なんて言わなければ……」


 歩くことも、立つこともできない? じゃあボクはこれからずっと、横たわったままで生きているっていうの?


「あなたがこうなったのも、全て私のせいです。これから先、私がずっとあなたを支えます。それがあなたをここまで追い込んでしまった、私の贖罪です」


 何を言ってるんだどんてんくん。ボクの話を聞いてくれ。ボクの気持ちを読み取ってくれ。


「ご安心ください。私が……僕がいる限り……兄さんは生きていられます。生きていられるようにお世話します。生きてさえいれば……『希望』を抱いて生きてさえいれば……また兄弟で仲良く暮らせる“かも”しれませんので……」


 違う、どんてんくん。無理だよ。自分でわかる。こんな状態でまた元通りの身体になんてならない。無理だ。

 だけどその意思を彼に伝えることができない。どんてんくんは『希望』を持ってしまっている。まだボクと一緒に仲良く暮らせるという『希望』を持ってしまっている。

 イヤだ、イヤだよ。このまま生きてたって何も『希望』なんてない。歩くことも立つこともできなくて、『希望』を抱きようがない。

 だけど死ぬこともできない。体が動かないんだから自分で死を選ぶこともできない。


 ああ、そうだったんだ。これが『死にたい』って気持ちだったんだ。生きていて何も『希望』を見出せなくて、もう死ぬしか選択肢がない状態。

 だけどボクにはその選択肢すらない。


「一緒に生きていきましょう、兄さん」


 涙目で微笑みを浮かべたどんてんくんの顔を見たら、いつかの夕飛さんの言葉が頭に響いた。





「『生きてさえいればいい』なんてのは、他人の痛みを理解しないヤツの言うことよ」

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