「夕飛さん、ボクと付き合ってくれませんか?」
レストランの席に着くなり、兄は開口一番そう言った。もちろん、その時の私は『付き合う』という言葉の意味を理解していなかったので何の反応もしなかったが、夕飛さんが顔をこわばらせたのを見て、兄が何かまずいことを言ったということだけは理解した。
「お断りします」
「あれ、フラれちゃいましたね。結構自信あったんだけどなあ」
「アンタ、女心どころかTPOを全く理解してないわね。そういうのはお互いにいい雰囲気になってから言いなさい」
「あはは、これは失礼。それならまだ、『希望』はありますね」
「アンタのその訳のわからないポジティブさだけは認めてあげるわ」
夕飛さんが呆れ顔で兄に皮肉を言うと、事前に注文していた食前酒とジュース、それに前菜がテーブルに運ばれてきた。
「あーあーあー、来ましたね。とりあえずは乾杯しましょうか」
グラスに注がれた酒を眺めながら、兄は爽やかな笑顔を浮かべる。対して私は、この奇妙な会合に何の意味があるのか測りかねていた。夕飛さんも同じ気持ちなのか、兄に対して冷ややかな視線を向ける。
「それでは、ボクたちの暖かな未来を願って、乾杯!」
「……」
「……」
乾杯の音頭を取る兄に対して、誰も言葉をかけなかった。それでも兄は、上機嫌で酒を口にする。
「うん、やっぱりおいしいですね。ここのお酒はかなり評判いいんですけど、目の前に夕飛さんがいると、また格別だなあ」
「確かにおいしいわ。今度は家族だけで来たいくらいに」
「あーあーあー、気に入っていただけてなによりです」
「それで? アンタは私を口説きに来たわけじゃないでしょ?」
「え? どうしてそう思うんです?」
「私みたいなバツイチ子持ちのアラサー女を口説きに来る男がいるとは思えないわ。アンタの本当の目的は、そうね……」
夕飛さんは私に目を向ける。
「弟さんを支配するために、邪魔な私を排除しに来たってところかしら?}
夕飛さんがそう考えるのも無理はなかった。あの場にいた私でさえ、兄がなぜ夕飛さんに好意を抱いたのかわからない。むしろ夕飛さんが私の『希望』とならないように、排除する目的だと言われた方が自然だ。
「何言ってるんですか。ボクは本気であなたと付き合いたいと思ってるんですよ」
だが兄は、一転して真剣な表情で夕飛さんを見た。
「いわゆる一目惚れってやつです。ボクはあなたのことを考えると、夜も眠れません」
「よくもまあ、そんな白々しいことが言えるわね。バカにしてるの?」
「白々しく聞こえたのであれば、ボクの想いがまだ伝わってないってことですね」
再びその顔に爽やかな笑顔を浮かべて、兄はもう一口酒を口に含む。
「私のことが大好きなら、要求も聞いてくれる? もう弟さんに変なことをしないのであれば、アンタと付き合うのも考えてあげてもいいわよ」
「あーあーあー、ボクはどんてんくんに『希望』を持って生きていてほしいだけですよ。それにボクは、夕飛さんにもどんてんくんが『希望』を持てるように協力してほしいんですよ」
「はあ?」
私の頭の上に、隣に座っていた兄の左手が置かれた。
「ボクはどんてんくんには、兄であるボクこそが『希望』であると思ってほしいんですよ」
「そんなの、アンタの身勝手でしょ。現にアンタは弟さんから嫌われてるわけだし」
「あーあーあー、それが良くないんですよね。ですから夕飛さん。あなたがボクに協力してくれれば、すごく嬉しいんですよ。
仮にボクとあなたが交際すれば、どうなると思います?」
頭の上に置かれた手に力が込められ、締め付けられるような痛みが私に走った。
「あ、ぎいいい……!」
痛みに呻く私をよそに、兄は笑いながら話を続ける。
「ボクとあなたが交際すれば、どんてんくんはあなたのことも『希望』だと思ってくれるんですよ。『今は苦しいけど、“もしかしたら”夕飛さんが助けてくれる“かも”しれない。“いつか”夕飛さんが自分のことを好きになってくれる“かも”しれない』って思ってくれます。ああ、そうなったらどんてんくんはボクと夕飛さんという二つの『希望』を手にするんだ。すごいなあ、なんて幸せ者なんだろう」
「アンタ、なにやって……!」
夕飛さんが制止しようとした瞬間に、兄は手を離した。
頭を押さえて痛みを引きずる私をよそに、兄は夕飛さんに語りかける。
「わーかりますか? ボクとあなたが交際すれば、もっとどんてんくんに『希望』を持たせられるんですよ。彼が持つ『希望』はボクであってほしいですけど、あなたがいれば、もっと大きな『希望』になる」
「私に、弟さんを虐待する手伝いをしろって言うの?」
「いやだなあ、そんなこと言うわけないじゃないですか。ボクはどんてんくんのことが大好きなんですよ?」
私が顔を上げると、夕飛さんは不快感を隠そうともせずに兄を睨んでいた。
「どちらにしろ、アンタと付き合うメリットがまるでない以上、交際なんてお断わりね。で、アンタは弟さんを解放する気もない。このままだと児童相談所か警察に通報することになるけど?」
「あーあーあー、それは構いませんよ。だってボクはやましいことなんて何もしてないですし」
「……じゃあ、もう一つの手段を取るしかないわね」
「え?」
夕飛さんは私と兄の背後に視線を向ける。誰かいるのかと思い、振り向こうとした。
「……!!」
だが、振り向くまでもなく、異常事態が起こっていることに気付いた。
なぜなら私の横に座っている兄は、背後にいた人物に首を掴まれていたからだ。
「……えーと、これはどういうことですかね?」
「動いたら、アンタがヤバいかもしれないってことよ。その子はやる時はやるから」
夕飛さんはあっさりとそう告げたが、私には状況が理解できなかった。
兄の首を掴んでいたのは、先ほど『朝飛』と呼ばれていた女子学生……夕飛さんの妹だった。
さっき、エントランスで見た朝飛さんは、見る者に安心感を抱かせる印象だったが、今は違う。
「お姉ちゃん、この人を黙らせればいいの?」
「ええ、朝飛。多少痛い目見せちゃっていいわ」
今の朝飛さんから感じられるのは、私たちが一つ行動を間違えればあっさりと命を奪うという圧倒的な『殺気』だった。
「うーん、どうやらウソじゃないみたいですね」
「わかってるじゃない。それで? 自分の身を危険にさらしても弟さんを虐待したいの?」
何が起こっている? 夕飛さんは何を言っている? 朝飛さんは何をしようとしている?
「ひ、ああ……」
泣き声が聞こえたので後ろを見ると、先ほどエントランスで見た、夕飛さんの二人の子供がいた。槍哉と呼ばれていた子供の方が声を発したらしく、今にも泣きそうな顔をしていた。これほどまでに緊張感のある空間にいれば、無理はない。
「槍哉、静かにしてようね。朝飛さんが、怒っちゃうから」
しかしもう一人の子供――槍哉くんの兄の方は、まるで動じずに弟を宥めていた。この空間において、あんな子供が平静を保っていられるのは、異常でしかなかった。
「なるほど、つまりボクがどんてんくんを諦めないと、朝飛さんがボクを殺すってことですか?」
「そうは言ってないわ。ねえ、朝飛?」
「うん、そんな物騒なことはしないよ。そんなことしちゃったら、お姉ちゃんが悲しむし」
「……つまり朝飛さん自身は、『そんなこと』をしてもいいと思ってるってことですか?」
兄の質問に対し、朝飛さんはあっさりと答えた。
「うん、いいと思ってるよ。お姉ちゃんが悲しむからやらないだけ」
その言葉を聞いて、私も、そしておそらく兄も確信した。
もしここで選択を間違えれば、空木晴天の死は免れない。
相手にそう思わせるほどの迫力が、この朝飛という女性にはあった。当時の私とそこまで変わらない年齢にも関わらず、彼女には大人である兄をも圧倒する空気があった。
兄の顔からも笑顔が消え、体を静止させていた。兄がここまで相手に圧倒されるのを見るのは初めてだった。
「……要求はなんですか?」
兄が夕飛さんに問いかける。ここで要求を呑まなければ、自分が死ぬかもしれないと本気で考えているが故の行動だった。
「最初から言ってるでしょ。弟さんを解放しなさいって。そうすればこの場は誰も傷つかず、これからも誰も傷つかずに過ごせる。私はそう望んでいるわ」
「あーあーあー、そうですか。ボクがどんてんくんに『希望』を与えるのを諦めろと」
「そういうこと。そうしなきゃ、アンタに『希望』は永遠に訪れない」
「そーれは嫌だなあ。そう言われちゃったら、要求を呑むしかないですね」
兄はそう言って、両手を上げる。
「オーケー。わかりました。どんてんくんに『希望』を与えるのは諦めますよ」
「そう。じゃあここで、一筆お願いできるかしら? 『弟を虐待しないことを誓う』なんてのはどう?」
「ええ、ええ、書きますよ。拇印だって押します。ですから、そろそろ手を離してくーれますか? 体が震えて仕方ないんで」
「……朝飛。手を離しなさい」
「うん、わかった」
兄の首から手を離すと、朝飛さんは後ろに下がって子供たちのところに戻った。
「ごめんね、槍哉くん。怖かった? お姉ちゃんもう怒ってないから、大丈夫だよ」
「……うん、うん」
槍哉くんに優しく語り掛ける朝飛さんは、エントランスで見た時の安心感を抱かせる顔に戻っていた。
……一体、この人は何なんだろうか。どちらが本当の朝飛さんなのだろうか。
「さて、これでいいですか?」
気が付くと、兄は言われた通りに夕飛さんに誓約書を渡していた。当時の私にそれが法的にどれだけ有効なものなのか知る由もなかったが、おそらくそんなことは関係ないのだろう。
もしこの誓約を破れば、今度こそ命はないかもしれない。その可能性だけで十分だった。
「うん、確かに受けっとったわ。これに懲りたら二度と変な真似はしないことね」
「あーあーあー、夕飛さん、ひとついいですか?」
「なに?」
そして兄はいつも通りの笑顔を浮かべて、言った。
「記念撮影しませんか?」
「はあ?」
そう言った兄の手には、デジタルカメラが握られていた。
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