私たちは今、とあるマンションの前にいる。まだ損傷の少ないタイルが整然と並べられている外壁とオートロックのドアが設置された玄関はそれだけで内部の高級感を私たちに想像させる。しかし上を見ると、数カ所のベランダには布団カバーや衣類などの洗濯物が干されており、例え高級マンションといえども中に住むのは私たちとさして変わらない人間なのだということを教えてくれる。
だがこのマンションが高級であろうと無かろうと、私の隣に立つ女性にはさほど重要な物事ではないらしい。その証拠にその女性は先ほどから携帯電話に注目して、マンションの外観を見ようともしていない。
「……とりあえず、その男から何か手がかりがあるといいんだけど」
その女性――黛瑠璃子は、メールに記載された文章を見ながら誰に聞かせるでもなくぽつりと呟いた。
昨日、『レプリカ』からの脅迫を受けた私たちはまず今後のことを相談した。
「……状況は不利と言わざるを得ないわね。『レプリカ』は私の家まで調べている。それに対して、私たちはヤツの情報をまるで掴めていない。おそらく樫添さんの前に現れたときも変装した姿でしょうしね」
「くく、全く情報のない存在に狙われる……これが『レプリカ』でなければ、心地よい気分でどうやって殺されるのかを予想したりもするのだろうね」
柏ちゃんが名残惜しそうに呟くが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
「でもセンパイ。『レプリカ』はM高の生徒である可能性が高いです。そうでなければそもそも私たちのことを知る機会がないですし」
「確かにそうね。萱愛、私たちのことはM高では有名なのよね?」
「は、はい。ですが特定の誰かが柏先輩たちに強い思い入れがあるという話は聞いたことはないですね」
「そう……」
そこまで聞くと黛センパイは少し考え込んだ後に私たちを見回す。
「……とりあえず、私たち四人は全員M高の関係者なわけだし、知り合いに片っ端から連絡を取って『レプリカ』の手がかりを掴むしかなさそうね」
「そうですね」
「あ、あの……」
しかし、黛センパイの提案に萱愛は申し訳なさそうに手を上げた。
「……ああ、アンタはまだあの学校で評判よくないんだったわね」
「申し訳ありませんが、俺がM高の生徒に聞き込みをしても答えてくれないと思います」
実は萱愛は一年前のとある出来事がきっかけで、M高のほとんどの生徒から嫌悪の感情を向けられている。そんな彼が生徒たちに聞き込みをしたとしても、相手が答えてくれる可能性はかなり低いだろう。
「そういう意味では、私もあまり聞き込みには向いてはいないだろう。高校時代も今も、君たち以外で私に関わってきた者たちは皆、嫌悪や好奇の視線を向けてきたのだからね」
「それはあなたの行動に問題があるんじゃないの、柏ちゃん?」
「まあ、私としては大歓迎だったのだがね、くふふ……」
「……もういいの」
とにかく柏ちゃんと萱愛は、『レプリカ』を追う役目には向かないようだ。
「どちらにしろ、『レプリカ』が狙っているのが私である以上、エミには私から離れてもらうつもりだったから丁度いいわ。萱愛、エミのことは任せていい?」
「わかりました。柏先輩は俺が守ります!」
「おやおや、萱愛くんが私の監視役か。この柏恵美、君に命を預けようではないか」
「萱愛……本当に頼んだわよ」
「ま、任せてください!」
黛センパイに凄まれて動揺する萱愛に少しの不安を感じながらも、その日は解散して翌日から『レプリカ』の手がかりを探すことになった。
そして翌日。
私と黛センパイはまず自分たちの後輩から話を聞き出すべく、携帯電話の連絡先の中からM高の関係者に片っ端から連絡を取ることになった。しかし……
「樫添さん……私、連絡先に殆ど人が連絡されてない……」
「……そうなんですか」
私にそう言った黛センパイの顔は、この世の終わりかの如く絶望に染まった顔だった。
「あ、はは、いいのよ……私にはエミも樫添さんもいるもの……私にだって友達いるし……」
「センパイ、取り敢えずこの話は止めましょう。私には何人か後輩で知り合いがいますからそこから当たってみましょう」
「ごめんなさい樫添さん……こんな、社交性ゼロの女でごめんなさい……」
「……」
ダメだ、このままセンパイを放っておいたら『レプリカ』と戦うどころじゃない。心が折れてしまっている。
「センパイ、携帯電話の連絡先が多いことってそんなにすごいことでしょうか?」
「え?」
「連絡先なんて、一回会っただけの相手とも交換することはできます。ですけど、その相手と親密になることは相手と真摯に向き合わないと出来ません。センパイは私たちと真摯に向き合ってくれたから今こうして付き合いを続けている。私も、そして柏ちゃんもそう思っています」
「樫添さん……」
「だからセンパイが劣等感を抱くことなんてないですよ」
「……ありがとう」
私の言葉で、センパイはどうにか立ち直ったようだ。よかった……
だけど私自身は、自分の言った言葉に少しながらの疑問を感じていた。確かに黛センパイは私たちに真摯に向き合ってくれている。それは事実だ。
でも私はどうだろう。柏ちゃんや黛センパイに真摯に向き合っているのだろうか。一歩引いた位置から見ているのではないだろうか。
こんな私が、柏ちゃんたちの友達でいいのだろうか。
私にもかつて『親友』と呼べる存在がいた。その『親友』ほど柏ちゃんたちが私にとって大きい存在だと胸を張って言えるのだろうか。
その疑問を拭うことはまだ出来ない。だけど信じるしかない。私も柏ちゃんを守ると決めているのだから。
そして私たちは今、連絡を取った後輩が住むマンションの前にいる。『黛センパイがストーカーに悩まされている』という体で相談をしたら、直接会って話をしてくれることになったのだ。
「お、遅くなってすみません、樫添先輩」
その声と共に、マンションから一人の少年が出てくる。休日だからか長い髪をヘアピンで止めて整え、部屋着であろうパーカーを着た彼は、私を見るなり一目散に頭を下げた。
「突然ごめんね、菊江くん。この間はお疲れさまでした」
「いえいえ、俺のほうこそこの間突然呼び出してすみませんでした」
少年――菊江教理は、相変わらずの大きな声でハキハキと喋った後、もう一度頭を下げた。
「いいの。それより、M高校に黛センパイに恨みを持つ人間がいるかどうかを聞きたいんだけど」
「はい。えっと……そちらが黛先輩ですね?」
「そうよ。何か文句ある?」
「い、いえ……話で聞くより落ち着いた人だなあって思って……」
そう言いながら菊江くんはチラチラとセンパイに視線を送る。やはりM高の中ではセンパイは有名人らしく、物珍しいものでも見るかのような態度だ。少し腹立たしかったので、さっさと話を進めることにした。
「それで、菊江くんはセンパイを恨む人間に心当たりはあるの?」
「それなんですけどね、少し前にうちの学校を退学した生徒がいるんですよ」
「退学?」
M高は進学校ではあるものの、ここ最近あらゆる事件が多発しているせいであらぬ噂が立つことが多くなっている。やれ自殺した生徒が幽霊になって生徒に取り憑いているだの、少し前に変死した教師が実は幽霊に殺されただの。
……実はそれらの事件の背景には柏ちゃんや私たちが関わっていることはあまり大きな声では言えないが。
とにかく在校生としてはいくら進学校といえども、評判の悪い学校にいたくないという気持ちもあるのだろう。退学を申し出る生徒がいたとしてもおかしくはない。
「それで、その退学した生徒がセンパイに恨みを持っているって言うの?」
「そこまではわかりません。ですが、その生徒なんですけどね……」
「……!! 危ない!!」
「え!?」
黛センパイが突如私の体を抱くような形で、私を庇いながら跳躍した直後。
バチャッ!!
「きゃああっ!!」
先ほどまで私たちがいた場所に、何かが落ちてきて水っぽい音を放ちながら潰れた。
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