【2年前 9月24日 午前10時55分】
「おや、いらっしゃい。見学希望者かな?」
なんでこんなところに入ったんだろう。私は別に演劇になんて興味ないし、興味があったとしても学校の演劇部に入ればいい話だ。
なんでもいいからこの状況から解放されたかった。私を辞めたかった。その思いが、『スタジオ唐沢』に足を踏み入れさせたのかもしれない。
「さてさて、私はここの教室長の唐沢清一郎です、よろしく」
「……」
教室長と名乗った男性は私に笑顔で接してくるのに、今の私は言葉が出なかった。いきなり押しかけておいて無言で立っている中学生なんて、向こうからしたら迷惑極まりないはずだ。
しかし男性は、奥から椅子を持ち出してきて私の前に置いた。
「ふむ、どうやら何か訳アリのようだね。何も話したくないのなら、とりあえずはここに座って私が一方的に話しているのを聞いてくれるかな?」
予想に反して追い出されることもなく、教室の説明が始まった。
「ここに限らず演劇教室に来る生徒さんというのはね、『今までとは違う自分を表現したい』と願っている人が多いんだよ。生きているとどうしても、自分に求められる『役割』というものが出てくる。そして多くの人はその『役割』に沿って生きることを強いられるんだ」
唐沢先生の言葉に思わずドキリとした。いきなり私の現状を言い当てられたのかと思ったからだ。
「生徒さんの言葉で多いのはね、『人前で堂々と話したい』とか『自分の殻を破りたい』とかだね。確かに私もそういった要望に応えるために指導を行うのが仕事だし、『役割』だ。でもね、私個人の考えとしては、『今までとは違う自分を表現したい』というのはもっと別の動機からくるものだと思うんだ」
気づけば私は唐沢先生の話に聞き入っていた。さっき会ったばかりなのに、まるで私の進むべき道を示してくれる人のように思えた。
「その動機というのは、今の自分に対するどうしようもない『絶望』だよ」
「『絶望』……?」
「そうだよ。自分はどうあっても救われない。自分を救ってくれる人なんてどこにもいない。そうした思いこそが、『今までとは違う自分を表現したい』という言葉の裏にある思いだ」
……自分でも気づいていた。私が誰にも頼れないのは、周りから『頼りがいがあって皆の前に率先して立ってくれる』というイメージが既に確立しているからだ。私が私である限り、そこから抜け出すことはできない。
それこそが、私の『絶望』だ。
「だけど、その『絶望』こそが人を救うと思うんだよ」
「……?」
「仮に君が今までの自分に『絶望』してるのなら、自分を辞めることに未練なんてないだろう? 私が演劇教室を開いているのもね、中途半端な『希望』に縋らなくちゃいけない人たちに最後の一押しをしたいからだ」
そう言うと、唐沢先生は奥の部屋から様々な衣装がかけられたラックとウイッグが乗っている台を運んできた。
「さて、君はどんな役割を望んでいるんだい? 今までの君を助ける人は誰もいなかったのなら、どんな役割なら君は救われると思う?」
どんな役割なら救われるか? そんなの、ひとつしか思いつかない。
私は家では姉として、学校では学級委員として、頼られる役割を与えられ、結果として『絶望』した。
なら、私は……
「『妹』に……弱くて助けたいって思われる『妹』になりたい……」
それが、私が欲しい新たな自分だ。
「なるほど、わかったよ。おーい、クロエちゃーん」
唐沢先生に呼ばれて、カーテンの奥から長身の女性が現れた。
「はい……ひっ!?」
「え?」
「あ、あの! すみません! あの、わた、わたし、楢崎久蕗絵っていいますから! あの! すみませんでした!」
なんだこの人。背が高くて綺麗な女の人だと思ったのに、こっちを見てこうもあからさまに怯えられるとものすごくイライラする。
「さて、クロエちゃん。彼女は『かわいい妹』の役になりたいらしいから、それに相応しい衣装を選んであげて」
「は、はい……『かわいい妹』ですか……じゃあこれとかどうですか?」
そう言ってクロエさんが差し出してきたのは、緑色のパーカーと水色のスカート、それに金髪のウイッグだった。
「なんか……ちょっと子供っぽくないですか?」
「え!? あっ、す、すみません! お気に召さなかったですか!? あ、あの、私、ファッションセンスそんなになくて……」
「いや、私はいいと思うよ。それに今の君の発言こそが、君を苦しめている要因だ。『子供っぽく思われる』のを恐れている心が、君を疲弊させている」
「あ……」
「今までの君を捨てるには、今までの君がいいと思わないものを選ぶ必要があるんだよ」
確かにそうだ。私はクロエさんが選んだ衣装を『子供っぽい』と拒絶したけど、それは本当に私の意志だったんだろうか。私に求められる役割に引っ張られていただけなんじゃないだろうか。
私を辞めたいなら、今まで選ばなかったものを選んでみるのはむしろ自然なことだ。
「……わかりました」
衣装とウイッグを受け取り、更衣室に入った。
【2年前 9月24日 午前11時13分】
「……」
「あ、あの、その、すみません!」
「いえ……いいですよ」
鏡を見ながら固まっている私にクロエさんが謝ってくるけど、別に彼女のせいじゃない。渡された衣装がびっくりするほど似合っていないのは他でもない私のせいだ。
特にウイッグが全く似合っていない。私のキツイ顔には金髪ツインテールというアニメキャラの象徴みたいな髪型は真逆の要素でしかない。こんな姿を知り合いに見られたら「何やってんの?」と言われるのがオチだろう。
「うーん、クロエちゃんね。ちょっと彼女の横に並んでみてくれるかな」
「は、はい……」
唐沢先生の言葉に従い、クロエさんは私の横に屈んだ。
「じゃあさ、クロエちゃんには『不安そうに怯える顔』をしてもらうから、君はそれを真似てみて」
「わかりました」
真似ると言っても、他人の表情を真似るってそんな簡単に出来るんだろうか。
「こんな感じですか?」
クロエさんは俯いて上目遣いになり、右手を首元の前あたりで軽く握り、眉を寄せた表情を浮かべた。確かにこれは私にも『不安そうに怯える顔』に見える。クロエさんのこの顔を見るとなぜかイライラするけど、とりあえず真似てみる。
「俯いて……手を首元に当てて……」
そういえば人前で俯くのは初めてかもしれない。当然、上目遣いなんてのもした記憶がない。私がやったらどんな感じに……
「……あ」
……誰だ、これ。
これが私? 鏡の前で怯えて、媚びるように上目遣いでこちらを見ている女の子が私?
弱くて怯えて、全身で『助けてください』と訴えているのが私?
その瞬間、今まで似合っていないと思っていた衣装が、急にピタリとハマった感覚があった。『弱くて助けたいと思える妹』という役が、急速に私の表面を包んでいった。
「いいじゃないか。うん、似合ってるよ」
「似合って……る?」
「ここに入ってきた時の君とは全然違う。今の君を見たら、大抵の人は『助けたい』と思うだろうね」
「あ、あ……」
『助けたい』と思われる。それこそが私が求めていた役割だ。
「さて、なら少し試してみようか。君だって試したいだろう? 新しい自分を」
「試す……?」
「君がどれだけ『助けたい』と思われるか、試してみないかって言ってるんだよ」
……そうだ、私は試したい。今の私が、本当に助けてもらえるのかを。
【2年前 9月24日 午後3時40分】
「え、く、紅林、さん……?」
私は学校が終わった時間を見計らい、今日の朝の騒動で私に怒鳴ってきた男子にSNSでメッセージを送り、学校近くの公園に呼び出した。『暴力事件を起こしたことを謝りたい』と送ったら簡単に来てくれた。
予想通り、相手は私の姿を見て驚いている。それはそうだろう。普段の私とは違いすぎる。
「えっと、あの、どうしたのそれ?」
そう言いながらも、男子は私の姿を見て心配と動揺が入り混じった表情を浮かべている。こんな顔で見られたのは初めてかもしれない。今まで他人が向けてくる表情は、怯えだったり不安だったり、そういった感情が入っているのががほとんどだった。
「ごめんね、あの、君にしか、こんなこと言えないんだけど……」
柄沢先生に教わったように上目遣いを意識して、普段よりも遥かに声量を抑えてボソボソと話してみる。すると男子は視線を泳がせて顔を赤らめながらも、私に近寄ってきた。
「な、なんだい? 俺にしか言えないことって?」
「……実は私、あの子たちにいじめられてて……」
「え?」
『あの子たち』が今朝私の悪口を言っていた女子二人だとは言ってない。だけど相手の中ではもう繋がってしまったようだ。
「……ごめんね、ごめん。君にそんなこと言ったらショックだよね……あの子たちのこと、守りたいんだよね……?」
「い、いや! 違う! 知らなかったんだ! 俺、紅林さんがあの子たちにいじめられてるなんて……じゃあ、朝のことも?」
『今朝の事件はいじめに反撃しただけだったのか?』と聞きたいんだろうけど、はっきりとは言わない。その代わりに身体を震わせて顔を俯かせる。
そしてその後、再度上目遣いで男子を見つめて、こう言った。
「……たすけて」
その瞬間、彼は私の『お兄ちゃん』になった。
「……わかった。俺、許せねえよ。紅林さんがそんな辛い思いをしてたのに気づかなかった自分も許せねえし、それをいいことに君をいじめたアイツらも許せねえ」
「……うん、うん、ごめん……」
「謝るなよ! 明日には紅林さんが学校に来れるようにしてやるから!」
そう言って、男子は公園を飛び出していった。
【2年前 9月25日 午後4時20分】
その翌日。私は上機嫌で再び『スタジオ唐沢』を訪れていた。
「おっ、君か。どうだった、新しい自分は?」
「……」
唐沢先生の質問に対して、自然と顔が緩んでいく。
「最高です」
ああそうだ、最高だ。
今日の朝、少し遅めに学校に着くと、教室では私を虐げていた女子二人が病院に運ばれたという話でもちきりだった。そしてソイツらを病院送りにしたのは、私の『お兄ちゃん』であるという噂も流れていた。
そしてその噂の中には、私の名前は一回も上がらなかった。
ああ、これだ。これだったんだ。私が欲しかった『強さ』ってこれだったんだ。
私自身が頑張らなくたっていい。私以外の誰かを動かして、私のために動いてくれるように働きかければいい。そうすれば私は何一つ動かなくても救われる。全く傷つくこともなく救われる。
仮にあの二人に私が背後にいたと気づかれたとしても、アイツら二人だけなら私は簡単に返り討ちに出来る。私にはその『強さ』もある。
私には他人に頼られる『強さ』があり、わたしには他人に守られる『弱さ』がある。
「そういえば、君の名前をまだ聞いてなかったね」
名前か。確かにまだ名乗ってなかった。でも、唐沢先生は私を辞める手段を教えてくれた。新しい『わたし』には紅林鈴蘭という名前は似合わない。
カバンの中に入っていたウイッグを取り出して、鏡を見ながら自分の姿を確認する。この姿に似合う名前は……
「わたしのことは、『紅蘭』って呼んでください。唐沢先生」
そうだ、わたしは紅蘭。弱くてかわいらしくて守ってあげたくなる、みんなの『妹』だ。
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