【7月29日 午後2時20分】
「こう、し、ろう……ああ、こうしろうだ……アタシの前に、幸四郎がいる……」
「何やってるんだよお前は!」
俺の名前を呟きながら壁に押し付けてくる女は、間違いなく生花だ。顔も声も生花のものだ。普段なら頭に乗せているメガネをかけて髪を黒く染めているが、コイツは沢渡生花だ。
その一方で、目の前にある不安に染まった表情は沢渡生花であれば浮かべるはずのないものだった。コイツはいつだって今のこの瞬間を楽しみ、先のことなんて考えず、『絶頂期』を求め続けていた。
なのに今のコイツは……
「幸四郎……いなく、ならないで……この先も……アタシの前に……いて……」
「何言ってるんだよ……」
「いやだ、いやだ……取られたくない……幸四郎を、失いたくない……」
本当にコイツが生花だというのか。今の楽しみよりも、何かを失って生きる恐怖に心を囚われている女が生花だというのか。
「唐沢ぁ!」
だから俺は、叫んでしまった。
「そんなに大きく叫ばなくたって普通に呼んでくれればいいよ。なんだい?」
「何をした……! コイツに何をした!」
「自分の『役割』に気づかせてあげただけだよ」
「役割だと……!?」
「その子のことはよく知らないけどねえ、柳端くんを強く求めている子だってのはわかったよ。そうだろ、クロエちゃん?」
「は、はい……この間初めて会った時も、私が柳端くんに会いに来たって言ったら、すぐに蹴りかかってきましたよ。うん、怖かったなあ……」
そうだ、一ヶ月前の一件で俺が紅林を自宅まで送り届けた直後に、楢崎は俺に電話をかけてきた。つまり楢崎は俺たちが紅林を介抱している間に生花と接触していたんだ。
「こ、う、しろう……ねえ、幸四郎……なんで、なんで、アタシじゃないの……? なんで佳代嬢や恵美嬢や、棗のことしか考えてないの……?」
「おい! しっかりしろ生花!」
「いなくならないで……ここにいて……でないとアタシ……」
震えた声で何かを呟いているが、その手は強い力で俺の身体を押さえつけている。振りほどけないほどじゃないだろうが、無理に突き飛ばせばお互いに無傷では済まなそうだ。
「さて、柳端くん。さっきも言った通り、私はもう君に用はない。別に帰ってもらって構わないんだけどね、彼女は帰ってもらいたくないようだね」
「くそっ! おい生花! 一緒にここを出るぞ!」
「ここを出たら……幸四郎はまた佳代嬢のところに行くの……?」
「なに!?」
「いやだ、いやだ、アタシ……幸四郎とここにいたい……ずっと、ずっと、この先もずっと……」
「生花……?」
どうしても受け入れられない。あの生花が、『この先もずっと一緒にいたい』なんて誰かに縋りつくようなことを言うわけがない。だが現実には、生花は俺を押さえつけて放そうとしない。この状態のコイツをここから連れ出すのは無理だ。なら……
「おい樫添! 黛に連絡しろ! とにかくアイツに連絡を入れて今の状況を……!」
「か、し、ぞ、え……?」
なぜか俺の言葉に反応した生花は、次の瞬間には俺の前から消えていた。
「あぐっ!」
代わりに届いたのは、生花に首を絞められた樫添が苦しそうに呻く声だった。
「あ、が、ア、アンタ……!!」
「なんで、なんで、幸四郎はアンタの名前を呼ぶの……? なんで幸四郎はアタシを見てくれないの……? アンタのせいで……? アンタがここにいるから……?」
「おい、何してる!」
くそ、どういうことだ? なんで生花が樫添を襲ってるんだ。考えてる暇はない、あのままだと樫添がやばい。
「生花! やめろ!」
「あ、あ、こうしろう……やめたら、アタシの前にいてくれる……?」
「……! わかった、樫添から手を放せば俺はここに留まる。だからやめてくれ」
「……うん、やめる」
言葉通り手を放した生花は俺に擦り寄ってきた。
「ねえ、幸四郎。アタシの髪、好き? 幸四郎って、派手な女は嫌いだろうから、黒に戻したから、さ、だから、ここに、いてくれるよね?」
「……」
「ねえ、ねえ、いてくれるよね。でないとアタシ、怖いよ……幸四郎がいないままこの先も生きるなんて怖いよ……」
――生花の変貌以上に、自分の中に浮かんだ感情に驚いている。
俺とコイツは正反対の人間だと思っていたはずだ。コイツのことは一生理解できないし、俺の人生に関わってくるのを迷惑だと思っていたはずだ。
なのに、なのに……!
なんで俺は変わり果てた生花を見て、涙が出そうになっているんだ。
ああ、わかってる。俺は責任を感じているんだ。生花だっていつか『絶頂期』を求める生き方から離れて、俺が考える『人並みの幸せ』を求めるんじゃないかって思っていた。俺と全く関係のないところで、幸せに生きていればいいと思っていた。だから俺は紅林に肩入れしているように見せて、あえて生花を突き放したんだ。
だけどそれは間違いだったんだ。生花にとって『絶頂期』というものは俺の想像以上に大きかった。俺や香車、それに柏を巡る事件に関わる中で、生花はもう『絶頂期』を求める以外の生き方を考えられなくなっていたんだ。
生花はもう、俺たちに関わっていないと生きていられないんだ。
「……唐沢」
「なんだい?」
「俺と生花はここに留まる。柏もなんとかしてここに連れてくる。それができたら生花を元に戻してくれ……解放してくれ……」
「ちょっと、アンタ何言ってるの!?」
「樫添……お願いだ……この場は俺の指示に従ってくれ……そうでないとコイツは……!!」
「うーん、そう言ってくれるのは嬉しいんだけどね、君が呼んだって柏さんも黛さんも来ないでしょ。ここは樫添さんから連絡してくれないと」
「っ!?」
唐沢の言葉に反応した樫添だったが、その身体は楢崎によって即座に押さえられた。
「ダメですよ。逃げるんじゃなくて向かってきてくれないと」
「あ、ぐっ! この……!」
「ああ、こわい、こわい。そうやって私に敵意を向けてくれるなら、ちゃんと不安になれます」
「あうっ!」
抵抗もむなしく、樫添は腕をひねり上げられて難なく無力化されてしまった。
「さて、樫添さん。柳端くんは私たちに協力してくれるみたいだけど、君はどうするのかな?」
「くっ……アンタたちなんかに誰が……!!」
「樫添! 頼む……!!」
「柳端……」
俺の懇願を受けた樫添は、目を閉じた後に息を吐いた。
「……わかった。でも柏ちゃんと黛センパイの二人を呼ぶのが条件。それならアンタたち全員叩き潰してくれるだろうし」
「うん、ありがとうね樫添さん」
「柳端。言っておくけど全部終わったら何発か殴らせて」
「……」
樫添の恨み言には何も答えず、俺は未だに震える生花から目を離せなかった。
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