柏先輩からの挑戦というか挑発を受けた夜、俺は一晩中彼女のことを考えていた。
柏先輩。あの人は間違っている。自分から誰かに殺されようとするなんて異常だ。
そんな考え方はあってはならない、俺が彼女の間違いを正さなければならない。しかし……
「まずはあの人を守らないといけないな」
そう、柏先輩に怪我を負わせた犯人はまだ見つかっていない。
その人物がまた柏先輩を狙うとすれば、今度は本当に先輩は殺されるかもしれない。俺はその人物も許せない。どんな理由があっても、人を階段から突き落としていいはずがない。
だが、考えても誰が柏先輩を傷つけたのかはわからなかった。唯一考えられるとすれば。
「柳端……なのか?」
俺の周りで、柏先輩に明確な敵意を抱いているのはあいつしかいない。
だが、あいつが犯人とは考えたくなかった。同じクラスの仲間であるわけだし、中学でも暴力とは無縁のヤツだったということもある。
そうだ、柳端のはずがない。仲間であるあいつを疑ってはダメだ。
俺は柳端を容疑者から外すも、他に思い当たる人物はいなかった。
そもそも、俺は柏先輩の交友関係を知らない。この状況では、予想がつくはずもないのだ。
「そうなると、誰かに協力を仰ぐしかないか……」
そして俺は、ある人物に接触することにした。
翌日の放課後。
「御神酒先生」
俺は職員室に行き、御神酒先生に話しかけた。
「……どうした萱愛。将棋部についての説明は昨日話したことが全てだ」
「違います。柏先輩の事について……」
俺がその名前を口に出したとき。
「……!?」
職員室にいる先生たちの視線が一斉にこっちを向いた気がした。
「萱愛、この話題はここでするものではない。応接室に行くぞ」
俺は御神酒先生の言葉に従い、応接室に一緒に入る。
「それで? 柏について知りたいのか?」
「はい、昨日の事故は先生もご存知ですよね?」
「ああ。だがな、私は柏のことなど知らん。あいつがなぜ暴力を受け続けているのかもな」
「で、でも、ここまで先輩が暴力を受けているのであれば教師として対策を講じるべきです!」
俺が御神酒先生にこの相談をしたのは、彼が三年生の担当だということもある。
だが、それ以上に俺はこの人の考えを正したかった。
「柏先輩は助けを求めているはずなんです! このままじゃ本当にあの人は……」
「萱愛。お前は柏から『助けてほしい』と言われたのか?」
「……いえ」
確かに柏先輩は『殺されたい』と言っていた。だけどそれは嘘だ。そんなことがあるはずないんだ。
そして、俺は御神酒先生に本題を切り出した。
「先生! 昨日のことは事故ではありません! 柏先輩は何者かに突き落とされたんです!」
柏先輩はなぜかこのことを警察に言うつもりはないらしい。
きっと、本当は犯人の報復を恐れているんだ。『殺されたい』なんて本気で考えているわけがない。
だったら、俺が先生と一緒にこの事件を解決すれば……
「だからどうした?」
だが、御神酒先生は無表情を崩さなかった。
「……え?」
「例え柏の一件が事件だったとしても、柏本人が私やお前に助けを求めていないのであれば、私は動く気はない。あいつが暴力を受け入れているような言動をしているのは知っている。それがあいつの意志であるなら、私はそれを尊重する」
「なっ!?」
ふざけるな。意志を尊重だと?
この人は単に面倒事に関わりたくないだけだ。本当の教師なら、このことに黙っていられないはずだ。
「あなたは! 本当に教師なんですか!? 柏先輩が苦しんでいるのに、助けようと思わないんですか!?」
しかし、俺が怒鳴り声をあげても御神酒先生は動じなかった。
「もし柏が本当に苦しんでいて、私や周りに助けを求めているのであれば、私もあいつに手を貸すだろう。しかし、あいつは自分が助かることを放棄している。当然、助かるための努力もしていない。そんな生徒に手を貸す気はない」
「そんなのは言い訳だ! 単に柏先輩が気に入らないだけでしょう!」
こんな、こんな人が! こんな人が教師だと!?だが、今度は御神酒先生が逆に質問してきた。
「なら聞くが、お前は何故柏を助けようとしているんだ?」
「何故って、当たり前でしょう! 困っている、苦しんでいる人がいたら助けるものでしょうが!」
「誰がそう決めたんだ?」
「え!?」
「まるでお前は自分の考えが世間一般の常識のように語っているが、その根拠は何だ?」
根拠だと!? そんなもの……!
「根拠なんていらないでしょう! 困っている人がいたら助ける! これが世間のあるべき姿です!」
「……あきれたな」
御神酒先生が大きくため息をつく。
何でだ。何でこんな教師失格の人にあきれられなければならないんだ。
「萱愛。お前は世の中にいる全ての人間が幸福になることがあると思うか?」
「……そんなの! みんなが努力すればできます!」
「いいや、それは不可能だ。なぜなら、人の幸福の裏には必ず誰かの不幸があるからだ。それが覆らない以上、全員が幸福になることは不可能だ。そしてそれは、『学校』という範囲内でも同じだ。教師は全ての生徒を幸福にはできない」
「だからって! 人を救うのを放棄する理由にはなりません!」
「確かにそうだ。だから、私の教師としての信念は……」
そして、御神酒先生は言葉を放つ。
「『限られた、一部分の生徒だけを絶対に救う』というものだ」
俺が到底受け入れることのできない言葉を。
「バカな! やはり先生は特定の生徒を贔屓しているのですか!?」
「そうとも言えるかもな。教師も人間である以上、受け持つ生徒全員を幸福にすることは出来ない。それは変わらない。ならば私は、幸せになろうと努力する生徒、幸せになれる見込みが高い生徒を優先的に救う。私の教師としての在り方はそんなところだ」
「ふざけるな! なら幸せになれそうもない生徒は見捨てると言うのですか!?」
「そうだ」
「……!」
「そして、我々教師が最も避けなければならない事態は『生徒全員を不幸にしてしまう』ことだ。世の中は理不尽なものでな。生徒全員が幸せになることはないが、生徒全員が不幸になることは有り得る。何か自然災害が起きて、全員が巻き込まれた場合などがそうだ。そうなった場合、教師は助かる見込みのある生徒だけは絶対に助けなければならないものだと思っている」
「違う! 例えそうなっても全員に平等に接するべきだ!」
間違っていない。俺は間違っていない。
全員が幸せになった方がいいに決まっている。この人は間違っている。
「平等だと? 全員に平等に接したとしてもそれに対する生徒の反応は様々だ。そして、さっきも言ったとおり我々教師は生徒全員が不幸になるという事態は絶対に避けなければならない。助かる見込みのない生徒にかまけて、結果的に助けられたであろう生徒まで不幸にしてしまうことはあってはならないのだ。だから、私は努力する生徒は優遇するが、救いようのない生徒は見捨てる。私はそれを変えるつもりはない。だから私は、柏を救わない。救う必要がない」
「俺は……あなたを認めない!」
「お前が自分の考えでそういう結論を出したのであればそれでいい。だが私には、お前は他人に踊らされているように見える。もう一度訊くが、お前は何故柏を助けようとしている?」
……こんな人に話したくはない。
だけど、俺はこの人に屈したくない。認めたくない。だから、話すことにした。
「俺は……母親からずっと、『困った人を助ける男になれ』と言われてきました」
俺の母は口癖のように言っていた。
「こーちゃん。あなたは人を助け、希望を与える人になるのよ。世の中はみんな助け合って生きているの。困った人がいたら助けなければならないの。それが正しいの。いい? 間違っても……『あの人』のようにはならないでね」
そう、世の中は助け合いだ。みんなを助けて希望を与えるのが絶対に正しい行いなんだ。
だから、『あの人』は間違っていたんだ。
「だから俺は、他人を助けたい! みんなに希望を与えて幸せにしたい! それが正しい行いなんです!」
俺は、間違っていない。
「……萱愛。お前がどんな信念を持っていても、私はそれを認めるつもりでいた。だがお前のその信念……いや、『身勝手』は認められないな」
「み、身勝手!?」
「お前が自分で考え抜いて、その結論に至ったのであれば例え私と意見が衝突しても、お前自身を否定するつもりはなかった。だが、今のお前は他人の教えを盲信し、それを周囲に押しつけ強制するわがままな子供にすぎん」
「何を言っているのですか!? 正しいことを言って何が悪いのですか!?」
「……まあいい。お前が救いようのない生徒であれば私はお前に干渉するつもりはない。好きにすればいいさ。ただ、一つだけ忠告しておいてやろう」
「忠告?」
「半端な覚悟で他人に関われば、傷つくのはお前だけとは限らんぞ」
謎めいた言葉を残して、御神酒先生は応接室から出ていった。
「なんなんだ、あの人は!」
俺は学校を出ると、思わず叫んでしまった。
御神酒先生の思想、態度、言葉、その全てが間違っている。
それなのに、あの人はこの学校で何のお咎めも無しに教師をやっている。それが許せない。
断固として、あの人の考えを認めるわけにはいかなかった。
だけど、
「今は御神酒先生のことは後回しだ。まずは柏先輩について調べないと」
今、俺が考えるべき問題は柏先輩のことだ。その後で御神酒先生について学校に抗議すればいい。
結局、柏先輩の交友関係はまだわかってはいない。
俺が知っているのは、三年の樫添先輩と病院で会った黛という女性だけだ。
あの二人はどちらかというと柏先輩の味方のように見えた。あの人たちなら何か知っているかもしれない。
とりあえず、明日にでも樫添先輩に会いに行ってみよう。
「……見つけたわ」
そんなことを考えていると、突然後ろから声を掛けられた。
「え? ……あ、あなたは」
「昨日は悪かったわね」
そこにいたのは長い黒髪をたなびかせ、水色のワンピースにカーディガンをを着た女性。
たった今、俺の頭の中にいた、黛さんであった、
「S市立大学経済学部一年、黛瑠璃子よ」
「は、はい?」
「私の名前と肩書きは明かしたわ、もしよかったら、あなたの名前も聞かせてもらいたいんだけど」
「はあ、M高一年、萱愛小霧です」
なんだなんだ?
確かに俺は黛さんたちと接触を図ろうとしていた。だけどまさか、向こうから俺に会いに来るとは。
それにしても、S市立大学? M高のすぐ近くにある大学じゃないか。
大学の帰りに偶然俺を見つけただけなのかな?
「萱愛小霧。今からあなたに質問するわ」
そして、黛さんは俺にどんどん近づいてきて、
「あなたの目的はなに?」
俺の首筋にナイフを突きつけた。
「え、あ……」
「質問に答えて」
淡々と言葉を発する黛さんに対し、俺はいきなりナイフを突きつけられてうまく考えがまとまらなかった。
なんだこの人は!? こんないきなり人にナイフを向ける人間がいるのか!? こんな人が柏先輩のお友達なのか!?
「も、目的と言われても俺はみんなを幸せにしたいというか」
「質問を変えるわ。エミに関わる目的はなに?」
「柏先輩です、か?」
柏先輩に関わる目的、それが何かは決まっている。
「俺は! 柏先輩を助けたいんです!」
「……なんで?」
「柏先輩が苦しんでいるからです! 彼女はいじめを受けている自分を正当化するために、『自分は誰かに殺されたい』と思い込んで現実逃避をしています! だから、俺がその間違いを正してあげようと思ったからです!」
ウソは言っていない。俺の心からの言葉。
もしかしたら黛さんも柏先輩の間違いを正そうと必死なのかもしれない。
それで柏先輩に近づいた俺が彼女に危害を加える人間だと勘違いしてこんな強引な手段に出たんだ。
でも大丈夫だ。俺と黛さんの考えは同じはずだ。
「……」
その証拠に、黛さんはナイフを下してくれた。
よく見たら、それはペーパーナイフのようだった。どうやら本気で俺を傷つける気は無かったようだ。
「黛さん、俺は柏先輩の味方です。一緒にあの人を助けましょう!」
柏先輩を助ける。俺たちは、その目的で動く。
皆で力を合わせてあの人を……
「言っておくけど」
だが、黛さんが口を開いた。
「私はエミの命を救いたい。でも、それは私の我儘。エミが間違っているかなんてどうてもいいわ」
「え?」
「私はエミの願いを、踏みにじって、蹴り飛ばして、唾を吐きかける。それでエミに憎まれようとも構わない。ただ、エミがこれから先も願いを叶えられず、平和に生きざるを得ないことを望んでいる。私はそんな最低の女。だから、私はエミを助けるんじゃない。自分の我儘に付き合わせるだけ」
「な、何を言っているんですか?」
「私はエミの味方ではないと言っているのよ」
な、なんだ? どういうことだ?
昨日、病院で会った時はこの人は間違いなく柏先輩を心配していた。それなのに、味方ではない? ならこの人も柏先輩を?
「どういうことですか? さっき、柏先輩を助けたいって言ったじゃないですか!?」
「そうよ。私はエミを守りたい。だけどエミがそれを望んでいない以上、私はエミと敵対することになる。だから、私はエミの味方じゃない」
だ、だめだ。黛さんの言っていることがわからない。
柏先輩を守りたい。その考えを持った黛さんが先輩と敵対するっていうのか?
「ですが! 柏先輩の命を救えるなら、それは柏先輩のためになるはずです!」
「いいえ。エミは本気で、誰かに殺されたいと思っている。彼女は私やあなたに助けられることなんて望んでいない」
「それが間違った思想だと言っているんです! そんな考えがあっていい訳がないでしょう!」
俺が叫ぶと、黛さんは大きくため息を吐いた。
その様子は、どこか御神酒先生に似ていた。
「……まあいいわ。利用できるものは利用したいし」
「はい?」
「何でもない。とにかく、樫添さんの言うとおり、あなたはエミを助けるために動いているようね」
「そ、そうです! 俺は柏先輩を救いたいんです!」
樫添先輩から俺のことを聞いたのか。まあ確かに、昨日から俺は柏先輩に関わり続けていたからな。
どこかで噂が立ったんだろう。
「とりあえず、私の連絡先を教えるわ」
「え? なんでですか?」
「エミを救うためにあなたに協力するからよ。それとも、女子大生の連絡先は受け取れない?」
「い、いや、歓迎です! 一緒にあの人を救いましょう!」
「……ええ」
お互いに連絡先を教えあう。
「あの、ところで黛さんは柏先輩を突き落とした犯人に心当たりはあるんですか?」
「いいえ、そもそも今までエミに暴力を振るっていた人間はエミとの繋がりがあったり無かったりと共通点が少ないの。学校内の人間ではあるんだろうけど、正直言って心当たりはないわ」
学校内の人間。まあ、学校で事件が起きているんだからそう考えるのが普通か。
その時、俺はふと枝垂先輩の言葉を思い出す。
『それに、また一人危険人物があぶり出されつつあるんだ。祠堂祈里っていう……』
祠堂祈里。
学校内にいるとされる『危険人物』。
まさかその人物が柏先輩を……?
「黛さん。一人だけ、可能性のある人物がいます」
「え?」
「明日、その人物に接触してみます。何か手がかりがつかめるかもしれません」
「わかったわ。何かわかったら連絡して頂戴」
そして、その日は黛さんと別れた。
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