昼休みはまだ始まったばかりなので、午後の授業までは時間がある。柏先輩たちに説明する時間もあるだろう。
「こちらです」
俺は先輩たちを校庭の端にあるプレハブ小屋に案内した。数年前まではストーブ用の灯油を保管していた場所らしいが、学校内の設備更新に伴い石油ストーブは使われなくなったので、近いうちに取り壊すらしい。
「この小屋が弓長くんがどういう人間だったかを証明してくれるとでも言うのかね?」
「ええ。まずはこちらを見てください」
小屋の裏手の壁には、一か所に大きな陥没がある。それを見た樫添先輩は首を傾げた。
「あれ? こんな大きなへこみあったっけ?」
「いや、樫添先輩は初めて見ると思います。これは去年できたものなので」
そう、この陥没は去年作られたもの。そしてこれこそが、弓長くんの過去に大きく関わる痕跡だ。
「まさかこの陥没を、弓長くんが作ったというのかね? 金槌か何かで思い切り叩けば可能ではありそうだが」
「いえ、弓長くんがやったわけではありません。彼は……クラスメイトに殴られそうになっていて、直前で俺が庇った結果、壁がこうなったんです」
「殴られそうになっていた、か。彼は揉め事を起こしていたのかね?」
「そうじゃありません。弓長くんは無抵抗で一方的に殴られるところだったんです。俺はたまたま近くを通りかかったんですけど、見過ごせなくて……助けに入ったんです」
今でも覚えているが、あの時の彼はクラスメイト数人に取り囲まれて苦しむわけでも怒るわけでもなく、ただ殴られていた。さらに取り囲んでいる一人が大きな石を持ち出してきたので、俺が咄嗟に彼を庇ったのだ。
「一方的に殴られてたってことは、弓長くんは怖くて反撃できなかったってことなの?」
「たぶん……そうだったんだと思います」
「『たぶん』、とは?」
「本人に聞いても、はっきりとした理由を教えてくれなかったんです。この出来事がきっかけで俺は弓長くんと知り合って、休み時間や放課後に彼のクラスに会いに行くようになったんですけども、初めは心を開いてくれませんでした。『あなたは僕に何を求めてるんですか?』って疑いの言葉もかけられましたね」
今にして思えば、休み時間の度に彼のクラスに行ったのはやり過ぎだったかもしれない。弓長くんからすればそれまでロクに面識のなかった上級生が何かと自分に会いに来るようになったら、何か裏があると疑うのは当然だろう。
「確かにここまで聞いた限りでは、君が出会った当初の弓長くんは自分の意志を出すのが苦手な男だったようだね」
「そうです。閂先輩には『放っておいた方がいい』とは言われたんですけども、何かできることはないかと思って、彼に唐沢先生を紹介したんです」
「君と唐沢清一郎との関係だが……あの男は君の祖父と知り合いなのだろうね」
「え? は、はい。俺のじいさんが、生前に唐沢先生のいた演劇教室に通ってて……じいさんが亡くなった後は識霧さんや俺のことも気遣ってくれたんですよ。陽泉さんが……父さんが捕まった時も俺のことを元気づけてくれました」
あれ? なんで柏先輩はじいさんと唐沢先生の関係を知ってるんだ? 識霧さんから聞いていたのかな?
「それで、唐沢清一郎の教室に通っていくうちに弓長くんはどうなっていったのだね?」
「『スタジオ唐沢』に通うようになって、彼は次第に明るくなっていきました。『萱愛先輩のお役に立ちたい』って言ってくれて、閂先輩との、その、デートプランの相談にも乗ってくれました」
まあ正直、彼が紹介してくれた『世界の文具展覧会』は閂先輩には不評だった。俺は楽しい場所だと思ったんだけどな……
「確かにあの時、メイジさんに手を出したのはやり過ぎだと思います。でも、本来の彼は俺や黛さんのために親身になってくれて、自分の意志をはっきり示すための努力も重ねられる人なんです。だから俺は……彼を信じています」
そう。弓長くんが黛さんを好きになった理由も、『誰かのために必死になれる姿が綺麗だと感じるから』だった。俺が黛さんの話をした時も、目をキラキラさせて聞いてくれていた。
弓長くんが何かを企んでいるなんて思いたくはない。
「……ふむ、ならば最後に質問しよう。弓長くんはルリに告白したそうだが、君が自発的にルリの話を彼に聞かせたのかね?」
「あ、いや……今年の初めくらいに弓長くんから聞かれたんですよ」
『萱愛先輩、この学校にいた黛瑠璃子って人の話、聞いたことあります?』
「彼はルリの名前を事前に知っていたと?」
「はい。でもそれはおかしくないですよ。まだM高校では黛さんのことが話題に上がることがありますし、校内の誰かから聞いたんだと思います」
「……」
柏先輩は顎に手を当てて考え込んでいるけども、今のが何か引っかかるんだろうか。
「弓長くんが君にルリについて質問して、この半年の間にルリへの好意が膨らんでいった……君はそう考えているのかね?」
「そうです。本当ならもっと早く機会を作ってあげたかったんですけど……四月に父さんの一件があったので……」
弓長くんは俺が父さんの死を克服するまで待ってくれていた。だから俺も、彼の力になれるならなってあげたい。
「俺から話すことはここまでです。先輩が今の話を聞いてどう思うかは自由ですが、俺は彼のことを信用に値する男だと思ってます」
柏先輩は『弓長くんが信用に値するという根拠を示せ』と言っていた。今の話では根拠にはならないかもしれないが、俺が彼に肩入れする理由はわかってくれたはずだ。
「なるほどね、見えてきたよ」
「え? 何がですか?」
「今回の件の裏にある思惑が、一部分だが見えてきた。そう言っているのだよ」
「裏って……柏ちゃんはやっぱりその弓長って子が何か企んでるって言うの?」
「待ってください! 仮に弓長くんが何か企んでいたとしても、彼がメイジさんと手を組んでいる証拠はありません。彼とメイジさんの間に繋がりはないはずです!」
柏先輩の言う『思惑』が何であれ、俺は弓長くんを信用する理由を話した。これ以上彼を疑うなら、柏先輩にも根拠を示してもらいたい。
それができないなら、俺は今回、先輩の敵に回ることになる。
「あの……」
緊迫した空気の中、遠慮がちな小さい声が聞こえてきた。でもこの場には俺たちしかいないはずだ。
後ろを振り向くと、そこにはボブカットで眼鏡をかけた大人しそうな女性が立っていた。
誰だこの人? 私服だし、M高の人じゃなさそうだ。いや待て、どこかで見たような……
「おや、財前くんではないか。なぜここにいるのだね?」
「あ、すみません! いけないとは思ってたんですけど、入ってきちゃったんですよ」
「え?」
「……柏さんのこと、ずっと尾行してましたから」
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