今の私たちの前には、物々しい雰囲気の建物がある。私もこんな建物を訪れることになるなんて、思ってもなかった。
だけど、必要があるからここを訪れている。今は裁判を待つ身である男、斧寺識霧と面会するために、この『拘置所』という建物に入る必要がある。
「ルリ、さすがの君も緊張しているのかね?」
隣に立つエミが私に声をかけてくる。その表情はいつもの薄笑いではなく、私を気遣ってくれる顔だ。
いけない。エミにこんな顔をさせてはいけない。私はエミを守るためにここにいる。だから、自らに気合いを入れ直すために両手で顔を叩く。
「……大丈夫よ。さ、行きましょう」
「わかった。既に拘置所に時間は伝えてある。私と斧寺くんの関係も伝えているから、手続きを行おう」
面会の手続きは、意外にもスムーズに行われた。エミはともかく、エミの友人でしかない私が面会できるのかとは思ったけど、どうやら関係の遠い私でも、面会するのは問題ないそうだ。
ただ、持ち物は入念にチェックされたし、スマートフォンはもちろん、ノートやペンを持ち込むことすらできなかった。
「それでは、面会時間までこちらでお待ち下さい」
係官の人が廊下のソファーに私たちを座らせて、どこかに連絡を取っていた。その間に、私とエミは目的を再確認する。
「エミ、斧寺識霧さんはどれくらい空木晴天について知っているかわかる?」
「どうだろうね。確かに私が初めて空木医師に会った時、既に面識があるように見えたが、どこで出会ったのかは聞かなかったよ」
「……でも、今の私たちには、少しでも空木晴天についての情報がほしい。アイツがどう動くかわからない以上、こちらが備えておくしかないわ」
「わかっているよ。そのための面会だろう?」
そう、私たちが今日ここに来た目的は、斧寺識霧から空木晴天に関する情報を引き出すことだ。
まずは『死体同盟』のリーダーである空木曇天から情報を聞きだそうと思っていたけど、つい先日に殺し合いのようなやり取りをした相手をすぐには信用できない。だからまずは斧寺さんから話を聞くことにした。
空木晴天という人間は何者なのか。そして、エミに何をしようとしているのか。それを少しでも掴みたい。
「お待たせ致しました。斧寺識霧との面会の用意ができました」
「あ、はい」
「面会時間は30分となっております。延長はできませんので、ご注意下さい」
「……では、行こうか。ルリ」
係官の人に促される形で、私たちは部屋に入る。
部屋の中にはドラマで見るような穴の開いたアクリル板の仕切りと、その向こうに厳重な扉があった。しばらくすると扉が開き、向こうから警察官らしき人と、薄くヒゲを生やした男性が入ってくる。
間違いない。少しやつれているけど、斧寺識霧さんだ。
「それでは現時刻を面会開始時刻とします」
時計を見て係官が宣告した直後、私から話を切り出した。
「お久しぶりです、斧寺さん」
「ああ、久しぶりだね。黛さん……それに、恵美も」
「しばらく見ないうちに少し痩せたのではないかね? 何か差し入れでもできればよかったのだが」
「心配をかけたな。だけど、これは全て俺のやったことの報いだ。お前に甘えるわけにはいかない」
真剣な顔でそう告げる斧寺さんの姿に痛々しさを感じつつも、本来の目的を切り出すことにした。
「斧寺さん。今回私たちが面会に来た理由は、ある人物について教えていただきたいからです」
「ある人物?」
「ええ。エミの診療を担当していた、空木晴天という医者についてです」
「……!!」
その名前を聞いた斧寺さんの目が見開かれた。
「そう、か……晴天くんが戻ってきたのか……」
「聞かせてください。空木晴天とは、どういう人物なのですか? 彼はおそらくエミを危険に晒します。そうなる前に、私は彼女を守りたいんです」
「……」
斧寺さんはしばらく黙っていたけど、私を見て穏やかな顔で言った。
「黛さん、俺は晴天くんをそこまで嫌っちゃいない」
「え?」
「確かに恵美や黛さんからすれば、晴天くんは危険な男に映るのかもしれない。だけど俺は血が繋がらないとはいえ、恵美の親みたいなものだ。娘が元気に生きていくことを望んでいる。そして晴天くんはそれに医者として協力してくれる人だ。俺からすれば、嫌う理由はない」
「で、ですが! 空木晴天はエミのことを考えてなんていません! いや、むしろ、自分の欲望のためにエミを無理矢理生かそうとしているようにすら見えました!」
「そうかもしれないな。しかし、俺は他人の生き方に口出しはしたくない。だから恵美に生きていてほしいというのは、俺のワガママだ。そのことは黛さん、君が一番わかっているんじゃないのか?」
「……それは」
口ごもってしまったけれど、斧寺さんの言う通りだ。
私はエミを自分のエゴに付き合わせて、生きていくように強制している。エミが一生、自分の願望を叶えられないまま、生きていくことを望んでいる。
自分の欲望のためにエミを生かしているのは、私も斧寺さんも、空木晴天も同じ……
「違うよ、斧寺くん」
だけど私の思考を遮るかのように、エミが口を開いた。
「ルリが私に与えているのは新たな絶望であり、空木晴天が私に与えようとしているのはつまらない希望だ。この二つは全く違うものだよ」
「……確かにお前は言っていたな。『新たな絶望を見つけた』と」
「私はルリによって、自分の願望を踏み潰されるという新たな絶望を得た。ルリにとっては自分のエゴに私を付き合わせているつもりなのかもしれないし、実際そうなのだろう。だが……」
エミは隣に座る私を一度見て、斧寺さんに向き直る。
「私は今、とても充実している。ルリの支配を受けて生きる、今の状態をそう思っている」
そう言ったエミの微笑みは、いつもの薄笑いではなく、どこか優しく温かなものだった。
「ああ、そうだ。私は充実した時間を送っているのだよ。もし、この時間を打ち破るものがあるのだとすれば、ルリの絶望を上回るものであってほしい」
そしてエミは、微笑みを消して真剣な顔で言い放つ。
「少なくとも、空木晴天が与えるつまらない希望であってはならない」
そうだ。わかっていたことだった。
あくまでエミの願望は、『容赦なく殺されること』だ。そして私はその願望を踏み潰し、エミを生かしている。それは、エミにとっては『絶望』に値するものなんだ。
だけど空木晴天の目的は、エミに『希望』を強制的に抱かせること。それはエミにとっての苦痛であっても『絶望』じゃない。
「安心したまえ、ルリ。君のやっていることは、空木晴天と同じではない。同じであるはずがない」
「……そうね。一瞬でも迷った私がどうかしてたわ」
この程度で揺らいでどうする。私はエミと生きることを決めたんだ。
空木晴天がどんな目的でエミを生かそうとしているかなんて関係ない。エミの敵は、私の敵だ。
「そうか。なるほどな。恵美が黛さんを気に入ってる理由が何となくわかった気がする」
斧寺さんは私たちを見てかすかに微笑むと、話を切り出した。
「実はな。俺の自宅に日記が残ってるはずだ」
「日記、ですか?」
「俺が恵美を引き取って、晴天くんと出会う頃まで書いていた日記だ」
「……!!」
空木晴天と出会った頃の日記。じゃあそこには……
「面会じゃ、話せる時間は限られている。恵美が俺の自宅の鍵を持っているから、入ってくれ。黒い本棚の三段目に入っていたはずだ」
「わかりました。ありがとうございます」
そろそろ面会時間も終わりが近づいている。そして斧寺さんは、私をもう一度見た。
「黛さん……恵美を、頼んだよ」
斧寺識霧のその言葉は、とても弱々しいものだった。
拘置所を出た私たちは、すぐさま斧寺さんの自宅に向かうことにした。
電車を乗り継いで、二時間ほどで到着する駅の近くに、アパートがあった。そこの二階の一部屋がそうらしい。
エミが持ってきた合い鍵で、扉を開ける。
「……おじゃまします」
「さてさて、斧寺くんの日記に何が書かれているのか、見てみようではないか」
黒い本棚の三段目には、確かに大学ノートのような本が何冊かあった。どうやらこれが日記らしい。
「ふむ、特に時系列に並べられているわけではなさそうだね」
「ええ。とりあえず開いてみて、それらしい順番に並べてみましょうか」
何冊かある日記の中で、一番古そうなものを見つけて開く。
そして私たちは、斧寺さんの視点で空木晴天の人物像を追っていった……
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