「はーじめまして。ボクは空木晴天。お医者さんをしています。君が柏恵美ちゃんだね?」
「……残念だが、私は君と話したくはないのだよ」
「ははは、嫌われちゃったみたいだねー。でーもね、ボクは君とお話したいんだよね。なにせ君のお父さんはボクを頼ってきたわけだからね」
晴天くんが友好的に接しても、恵美はそっぽを向いて早くこの場から帰りたそうに体をゆすっていた。
こんな恵美は初めて見た。誰に対しても嫌悪の感情を向けることなく、マイナスの感情を見せることのなかった恵美が、これほどまでに晴天くんをあからさまに嫌うなんて思ってなかった。
だが、いずれにしても恵美が初めてはっきりとした感情を見せた。これは彼女を理解するきっかけになるかもしれない。
「斧寺くん、せっかく連れてきてくれたのに申し訳ないのだが、帰ってもいいかな? 私はこの場に一秒もいたくないのだが」
「それは無理だ。ちょっと我慢してくれるか?」
「……君がそう言うなら、仕方ないね」
「あーあーあー、じゃあ恵美ちゃん。いくつか質問をしていこうかな」
そう言って、晴天くんは背中を丸めて恵美に視線を合わせる。
「まず最初に、君はこの先、何歳まで生きていたいかな?」
……なんだ、この質問は?
別に俺は医療に詳しいわけじゃない。精神科に通ったこともないから、医者がこういう質問をするものなのかどうかもわからない。
だが、今の質問は普通の医者がするようなものではない気がした。
「なぜそんなことを聞くのかね? まあいい、答えよう。私は何歳まで生きていたかで人生の価値を決めるつもりはない。私にとって重要なのは容赦ない『絶望』に浸れるかだ。極端なことを言えば、私の求める『絶望』を手に入れられればその直後に死んだとしても構わないよ」
恵美の答えは、俺と最初に出会った時とほぼ同じ言葉だった。この子にとって重要なのはやはり『絶望』なんだ。親父と同じ、容赦ない『絶望』を求めている。
「うーん、なるほどねー。君はそう考えるんだ」
しかし晴天くんは恵美の答えにあまり興味がないかのように肩をすくませた。
「じゃあ、次の質問だ。恵美ちゃんにとって、『幸せ』と感じるのはどういう時かな?」
「私にとっての『幸せ』は、私の求める『絶望』を手に入れた時だよ」
「うーん、そうかなあ。ボクは違うと思うけどなあ」
晴天くんは爽やかな微笑みを浮かべて、恵美の顔を覗き込んだ。
「君は『絶望』とやらを求めるのが幸せだって言ってるけど、ボクはそれが正常な状態とは思えないよ。君には『希望』を持って、生きていてもらいたいなあ」
――だんだんとわかってきた。なぜ恵美が晴天くんに対して嫌悪の感情を向けるのかを。
晴天くんは、恵美を真っ向から否定する人間だからだ。
今まで俺は恵美の考え方に戸惑うことはあっても否定することはなかった。おそらくそれは学校の教師も、生徒たちもそうだったんだろう。だから恵美は誰にも嫌悪の感情を向けることはなかった。
しかし晴天くんは違う。彼は恵美の『絶望を手に入れたい』という願望そのものをまやかしだと否定した。それは恵美の根幹を否定することに他ならない。
「ねえ、恵美ちゃん。ボクはこう思うんだよ。君は今、何か悩みを抱えてて、それから逃げるために『絶望』を求めてるって自分にウソをついているんじゃないかな。ボクが今まで見てきた患者さんにもそういう人が……」
「くだらないね」
だが恵美は、そんな晴天くんの言葉を遮り、つまらなそうにため息をついた。
「斧寺くんに連れてこられたから、どんな人間と会えるのかと思ったが、実につまらない男だ。あれこれ言っているが、要するに君は私の望みが個人的に気に食わないだけなのではないかね?」
「ん? そうだよ」
「……!!」
晴天くんがあまりにもあっさりと答えたことで、さすがの恵美も目を丸くした。
「ボクの個人的な考えとしてはね、この世の中には『希望』が満ちていると思うんだよ。だってそうだろう? 大抵の困難は個人的な努力で乗り越えられるし、現にボクはそうしてきた。こうやって、小さいころからの夢だったお医者さんにもなれたわけだしね。そんな世の中にこうして生きているのに、なんで『絶望』を求める必要があるんだい?」
「……どうやら君は、本当に私の嫌いなタイプの男のようだね」
「あーあーあー、君に嫌われてもね、ボクは君を生かすために尽力するんだよね。医者ってそういうものだし。でもね、君は生かすためには君のその願望を叩き潰して、『希望』を持っている状態になる必要があるんだよね」
「つまり君にとって、私が幸せかどうかは二の次なわけだ」
「え? そんなことはないよ。だって君の幸せは、『希望』を持って生きていることなんだから」
「本当につまらない男だ。単純に『君の願いが気に食わないから、嫌がらせをしたい』と言えないのかね?」
「それを言っちゃったら、ボクは医者じゃないだろう?」
……どうやら、この空木晴天という男は決して褒められた人間性なわけではなさそうだ。
しかし、恵美がこの先も生きていられるように診療をしてくれるのは間違いない。医者として、恵美の診療を担当してくれるのは間違いない。
なにより、恵美のはっきりとした感情を初めて引き出した人間だ。このまま関わらすのもいいかもしれない。
「なあ、恵美」
「なんだね?」
「しばらく、この病院に通院してくれないか?」
「……斧寺くん、それは本気で言っているのかね?」
「ああ、本気だ。この先生に関わることで、お前がこの先も生きていけるなら、俺にとってそれは望ましいことだ。それに……」
そう、それに……
「お前の求める『絶望』を、俺はまだ掴めていない」
そうだ、俺はまだ恵美がどうすれば救われるのかをわかっていない。もしかしたら、晴天くんに関わることで、恵美の考え方が見えてくるかもしれない。
「君がそこまで言うなら仕方ないね」
納得しないような顔をしたが、恵美は俺に従ってくれた。
――それから。
恵美はしばらく、晴天くんのいる神栖記念病院に通院することとなった。中学に上がってもしばらくは通院を続けていたが、高校に上がる直前になぜか晴天くんが病院を去ってしまった。
晴天くんがなぜ病院を辞めたのかは知らない。しかし恵美はもう彼に会わなくて済んだことで、せいせいした様子だった。
そして恵美は高校三年生になった時、こう言った。
「斧寺くん、思いもよらない形だが、私は望む『絶望』を見つけられたようだ」
その『絶望』を与えたのが、一人の平凡な少女だと知ったのは、しばらく後の話だった……
※※※
斧寺識霧の日記を読み終えた私たちは、状況を整理する。
「どうやら、斧寺くんは私の精神状態を把握するために、空木晴天に会わせたようだね」
「ええ。エミはこの時のことは覚えてるの?」
「覚えてはいるよ。初めて会った時から、つまらない男だとは思っていたさ」
エミの口ぶりからして、彼女の中では空木晴天への印象は初めから同じようだった。
「でも、新たにわかったことがあるわ。空木晴天は、エミが斧寺さんに引き取られた時点で、目を付けていたってことよ」
「確かにそのようだね。あの時、彼があの場にいたなんてことは私も知らなかったよ」
「空木晴天が斧寺さんに接触したのは偶然、だと思う?」
「わからないね。ここからもっと彼のことを知るためには、もう一人の関係者に話を聞く必要があるだろう」
「……『死体同盟』の、空木曇天ね」
確かにこの日記でわかったことは、空木晴天が前からエミに目をつけていたことと、彼女の願望を真っ向から否定して押しつぶしたいということくらいだった。アイツの人間性を知るためには、もっと深い関係者に話を聞く必要がある。
だけど私の頭には、もう一つの疑問があった。それは、日記の中にあった、『エミの中に斧寺霧人なる人物の意識が混ざっている』という記述だ。
もし、もしエミの中から、その『斧寺霧人の意識』を取り除くことができるのだとしたら……
そこまで考えて、今はそんなことを考えている場合じゃないと、頭を振った。
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