柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第二十四話 不幸

公開日時: 2020年12月17日(木) 19:29
更新日時: 2020年12月28日(月) 13:13
文字数:4,572


 俺は全速力で学校に戻っていた。亜流川さんは閂先輩を自分の保身のために利用しようとしている。そんなことは絶対に許されない。全力で走っているのに全く疲れを感じなかった。俺の頭の中にあったのは、先輩のことだけだ。

 閂先輩はやはり、亜流川さんとの間に何かがあったのだ。それも決していい思い出としては残らない何かが。それは亜流川さんの人間性を考えれば明白だ。

 そう考えれば亜流川さんを前にした時の先輩の様子がおかしかったことの理由もわかる。どちらにしろ、このまま亜流川さんが閂先輩に関わり続けるのは絶対にまずい。

 考えを巡らせている間に学校の門に着いた。上履きに履き替えることも忘れ、階段を駆け上がって三年C組の教室へと走る。


「先輩っ!!」


 西日が照らす教室の中に、閂先輩は一人で椅子に座っていた。

 よかった。まだ残っていてくれた。


「おや萱愛氏。どうされたのですか?」


 先輩は俺の方を向いていつもの暗い微笑みを浮かべる。しかし今の俺には、それがとても脆い物のように思えた。

 そうだ。俺は先輩を守るんだ。あの人の手から。

 

「先輩、逃げましょう」


 だから俺は先輩の目の前でその言葉を言った。


「はい?」

「……先日お会いした亜流川さんが、先輩に危害を加えようとしています」


 亜流川さんの名前を出した直後、先輩の顔が曇った。やはり先輩にとって、彼は思い出したくない存在のようだ。


「危害、ですか」

「そうです、だから……」

「き、きひひひ、この私に、あの男から逃げ出せと仰るのですか? きひひひ……」


 先輩は再び笑い出したが、その笑いは亜流川さんに出会ったときの『無理矢理作ったような』ものだ。


「ここで逃げるのは決して卑怯な行いではありません。亜流川さんはとんでもないことをしようとしているんです!」


 俺は先輩を説得しようと、亜流川さんの企みを全て話した。そして先輩は、俺の話を無理に作った笑いを浮かべながら聞いていた。


「きひひ、そうですか。あの男の借金を返せないと私の母が……」

「警察に相談しましょう! いや、もし警察が頼りにならないなら俺が先輩を遠くの場所へ逃がします!」


 『逃がす』とは言ったが、俺に具体的な計画は何もなかった。ただ先輩を救おうと必死になったが故の提案だった。


「萱愛氏は母を見捨てろと、そう仰っているのですか?」


 しかし俺の提案は、無表情になった先輩に却下された。


「そ、それは……」

「それに萱愛氏は一つ勘違いをしておられます……私はあの男のことなどどうとも思っては……おりません。き、きひ、あの男はただの、その他大勢にしか過ぎない存在、そ、それだけ、ですよ……」


 だがそう言った先輩の声は明らかに震えており、この数ヶ月間先輩に関わってきた俺には彼女の様子が明らかに普通でないことがよくわかった。

 それに、今の先輩の言葉で一つ違和感を感じた箇所があった。


「先輩、先ほどから亜流川さんについて、『あの人を嫌ってなどいない』と言ってますよね?」

「きひ、そうでございます……あの男は私にとって、ただの他人ですよ……」

「ですが、俺にはとてもそうとは思えません。閂先輩にとって、亜流川さんは『特殊』な存在のように思え……」


 俺がそこまで言い掛けたとき。


「……!!」

「っ!? せ、先輩!?」


 閂先輩が左目を見開いて俺に掴みかかってきた。その顔は怒りによって眉間に皺が寄せられているが、その目にはうっすらと涙が浮かび、俺に何かを懇願しているかのように思えた。

 ……初めて見る、先輩の怒り。今まで何回か見た、右目を見開いて相手に圧力をかけっている先輩の姿とはまるで違う。そう、なんというか余裕の無い姿だった。

 そして先輩は俺に掴みかかったはいいが、何と言葉を発していいかわからないようで、しばらくそのまま沈黙していた。先輩にとっても、自分がここまで怒りを露わにすることはあまりない経験のようだ。


「……」

「……」


 俺も言葉をかけることが出来ず。二人とも沈黙しながら数分が過ぎた。しかし窓の外から差し込む西日が少しずつ薄らいでいったとき、先輩が口を開いた。


「……私は、あの男を嫌っても、恨んでもおりません」

「……」

「そうするわけには、いかないのですよ……」


 先輩の声は、いつもよりも小さく、そして弱々しいものだった。俺の胸に顔を埋めて、必死に見られないようにしている。俺は先輩の言葉を黙って聞いていた。


「……」


 そしてしばらくすると、先輩は俺から離れ、再び椅子に座った。その顔にはもう、笑いは浮かんではいない。


「……私の父は、私が小学校に入学する前に亡くなりました」


 突然語られた、先輩の過去。俺の態度は正解だったらしい。


「父が歩行者赤信号を無視して道路に出たことによる事故でした。生命保険や賠償金は支払われたことで当面の生活は何とかなりましたが、父が亡くなったことには変わりません。ですので母は一人で私を育てることになり、大変な苦労をすることになりました」


 それはそうだろう。これから娘を小学校に上がる娘を育てながら、家計を支えるために仕事も手を抜けないのだから。その苦労は俺なんかじゃ想像も出来ないほどのはずだ。


「私が小学校に入学するのとほぼ同時に、母は今まで働いていたパートの仕事を辞め、正社員の仕事に就きました。もちろん私を養うためでございます。そのため私は学校が終わってもすぐには下校せず、学童保育で母が迎えに来るまで待っておりました」


 学童保育。保護者が仕事などで家を空けている学童を一時的に預かる施設。確かにお母さんが仕事で家にいないのであれば、それを利用するのが無難だろう。


「ですが、学童保育もいつでも開いているわけではございません。さらに私の母は祝日や日曜にも勤務がある仕事をしておりましたので、私を学童保育に預けられない日もあったのです……」


 ……先輩は当時、まだ小学校に入学したばかりだった。母親としては、そんな年齢の娘を家に一人で残していくのは不安ではあるだろう。


「そんな時に名乗り出たのは……あの男でした」

「!! ……まさか!?」


「そう、私の叔父で母の弟である、亜流川志信です」


 ……亜流川さんが、幼い先輩の面倒を見ていたというのか。


「父の死で父方の祖父母とは絶縁状態の上、母の両親は既に亡くなっておりました。だからあの男は母に頼れる人間がいないことを知っていたのです。そして父の死で我が家に保険金や賠償金が入ったことも。ヤツはそこに付け込んで、『学童保育に預けられない時は俺が面倒を見る。その代わり少し金を恵んでくれ』と言いました」

「そんな……あの人が幼い子供の面倒をちゃんと見るはずがない!!」

「はい、その通りでございます。ですが心優しい母は実の弟の申し出を断ることが出来ませんでした。学童保育が無い日限定なら、あの男でも小学生の面倒を見るくらいは出来るだろうと希望的観測を抱いてしまったのです」


 確かに閂先輩のお母さんにとっては、亜流川さんは娘以外では唯一の家族だったのだろう。頼りたくなるのも無理はない。だけど、そうだとしてもあの人に子供を預けるのは危険すぎる。


「……萱愛氏のご想像通り、あの男は私の面倒を見るつもりは全くありませんでした。私の家に来ても、携帯ゲームで遊んでいただけだったのを覚えています。おそらくは、『ただ座っているだけで金が入る楽なバイトを見つけた』程度にしか思っていなかったのでしょう」


 そんな人が小学校低学年の女の子の面倒を見れるはずがない。じゃあ、まさか……


「まさか、その時に……」

「ええ、あの男が母のいない間に私の面倒を見るようになって一か月ほど経った頃のある日です。ヤツも退屈を覚え始めたのでしょう。次第にストレス解消とばかりに私に暴力を振るい始めました」

「……!!」


 何て人だ……

 自分より遥かに小さく、弱い存在に、平然と暴力を振るったというのか。


「当然、暴力を振るわれた私は泣き叫びました……し、しかし、それがあの男の怒りや嗜虐心のどちらかを刺激したのでしょう……さ、更なる暴力を振るわれました……そして……」


 先輩の声と体が震えてきている。大丈夫だろうか。


「せ、先輩……」

「……大丈夫、です。そしてあの男は……」


 そして先輩は、左目を閉じて顔を左に傾ける。そうすることで、先輩の髪の隙間から右目が覗き、それが俺を凝視している。

 だが俺は、その時やっと気づいた。



「私の、右目を、殴りつけたのです」



 ――先輩の右目の色が、左目より少し薄いことに。


「……その、右目は」

「ええ、殆ど視力がありません」

「……」


 これが、これが閂先輩と亜流川さんの間に在った出来事。


「右目を殴られた私の様子がおかしいことに気づいたあの男は、自分がやったとバレたら金を貰えなくなると判断したのでしょう。すぐに私を病院に連れて行き、医者に『転んだ拍子に右目をテーブルの角にぶつけた』と説明しました。駆け付けた母は泣き叫び、当然あの男に詰め寄ったようですが、ヤツは知らぬ存ぜぬを通したそうです。警察にも検挙するのは難しいと言われたと……」

「そんな、ことが……」

「いかがですか?」

「え?」


「とても、『ありふれた不幸』だとは思いませんか?」


「……」


 先輩の言う通り、確かに彼女に起こったことは悲劇以外の何物でもない。

 だけどテレビでニュースを見れば、今のような悲劇やそれ以上に悲惨な事件はいくつも報道されている。だからと言って先輩の身に起きたことが不幸ではないと言うつもりはないが。

 

「そうなのですよ……このような『ありふれた不幸』が、あのような小者によって私の身に降りかかってしまったのです……私に一生消えない障害を負わせた存在が、あのようなつまらない存在だった……」


 ――今ならわかる気がする。先輩がなぜ、『特殊』を求めるようになったのか。


「私はあのようなつまらない男を憎むわけにはいかないのです。なぜならそうしてしまえば、あの男が私にとって『特殊』な存在になってしまうのですから……私の人生は断じて! あのような男に振り回されるためにあるわけでは無いのです!」


 ――先輩は。


「だから私は、『特殊』な存在に関わり続けたいのです。私の人生を有意義なものにするために」


 閂先輩は『特殊』な存在に関わることで、亜流川さんの存在を自分の中から消してしまいたいのだ。


 おそらく先輩は今も、亜流川さんに対して恐怖心を抱いている。そしてそれを自分でも気づいている。だけどそれを認めるわけにはいかない。そうすれば、自分の人生が亜流川さんによって振り回されてしまうから。

 

 だから先輩は亜流川さんを『嫌っていない』のだ。


「……きひ、ひ、おわかりになりましたか、萱愛氏? 私はあの男に怯えて逃げ回るわけにはいかないのですよ……」


 先輩は再び笑顔を浮かべるが、やはりそれは無理して作ったようなものだった。

 だけど……俺はどうすればいい? このまま逃げたとしても、俺は先輩を救えない。先輩は亜流川さんの存在におびえ続けることになるからだ。

 何か、別の方法は……


「……って、あれ!?」


 だが気づけば先輩は教室から姿を消していた。俺が考えている間に、どうやら先に帰ってしまったらしい。


「……先輩」


 俺は周りの人を救いたい。そしてその中には当然、閂先輩も含まれている。

 だから諦めたくない。俺は先輩を助けたい。



 

 だが俺の決意を嘲笑うかのように、事態はこの後急展開を迎えることになった。

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