柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第二十三話 夜に立ち向かう者

公開日時: 2022年12月16日(金) 12:17
文字数:5,227


 結論から言うと、香車くんは既にお姉ちゃんの理解を超えていた。

 初めて会った時からなんとなくわかった。ああ、この子はもう他人を殺してもそれを誰にも悟られずに生きていけるんだって。現に香車くんは私が面倒を見るようになった時点でたぶん人を殺していた。それをお姉ちゃんに全く悟られていなかった。だからもう、香車くんは『夜』を抱えたまま普通に生きるなんて段階じゃない。彼は『夜』そのものだった。

 だから香車くんの『夜』を抑えるなんてことはできなかったし、導くこともできなかった。私が香車くんに教えたのは、他人を安心させる技術だけだ。彼のお母さんや弟を心配させないようにする術だけだ。その術を身に着けた香車くんは、ひとりでにお姉ちゃんや槍哉くんに受け入れられていった。

 それだけで、私は嬉しかった。私はお姉ちゃんから切り捨てられたけど、彼は自分の母親から切り捨てられることはない。香車くんがこのまま大人になれば、きっと私が望む『夜』を解放したまま、家族や大切な人と一緒に過ごす未来があるんだと思っていた。


 だけどその未来は来なかった。黛瑠璃子という女の子が潰したのだ。


 私は香車くんの葬式には参列しなかったし、お姉ちゃんも詳しい事情は教えてくれなかった。だからそれを教えてくれたのは晴天さんだ。もう二度と会うことはないと思っていた、お姉ちゃんに猛アタックしていたあの医学生だ。


「あーあーあー、ボクは思うんですよ朝飛さん。この『希望』に満ち溢れた世界にも、『希望』を見いだせない人がいる。それはとっても不幸なことだなって。ボクはその人たちに、すぐそこに『希望』があるよって教えてあげたいんですよ」


 晴天さんと再会したのは、半年ほど前のことだ。めでたく医師免許を取って精神科医として働いているそうだけど、いくつかの病院を転々としているらしい。お姉ちゃんと一緒に記念撮影した時にこっそり連絡先は交換していたけど、まさか本当に連絡してくるとは思ってなかった。


「いやー、ボクとしては是非とも柏さんに『希望』を与えたいんですよ。それに、興味ありませんか? 棗香車くんを退けたという女の子……黛瑠璃子さんに」

「……あなたは知ってるの? その黛さんとやらが、なんで香車くんの邪魔をしたのか?」

「ええ、知ってはいますよ。でも、あなたにとって『黛さんがなんで邪魔をしたのか』なんてのは重要なことでもないでしょ?」

「……」


 言われてみれば、確かにそうだ。私からしたら、黛さんの理由なんて知ったこっちゃない。

 どんな理由があろうと、その子のせいで私と香車くんの願いは潰された。私たちが抱える『夜』は、その子のせいで解放できなかった。

 前から思っていたことではあるけど、なんで私はここまで我慢しなきゃいけないんだろう。他人を傷つけてはいけない。この社会ではそう決められていると理解はしているし、みんながみんな、好きなように他人を傷つけていけば社会が成り立たないのだという想像はできる。

 だけど私は、自分の中の『夜』を抑えなければならないことに納得はしてなかった。もし父親に火を点けたあの時、お姉ちゃんに見つからなかったら、父親も母親もそのまま燃えていた。それが理想だと今でも思ってるし、何も知らないお姉ちゃんなら私を切り捨てることはなかった。

 上手くやればいいんじゃないのか。バレなければいいんじゃないのか。現に香車くんはお姉ちゃんに悟られずに人を殺していたし、黛さんとやらにバレたから死ぬことになった。

 他人を殺したい存在がいて、他人に殺されたい存在がいたんだから、そこで成り立っていたはずなんだ。なのに黛さんはそこに介入して私たちの願いを潰した。

 そこまで考えると、急に怒りが込み上げてきた。私の『夜』を解放できる相手の存在。私にとっての『希望』とはまさしくそれだ。


 もし私がお姉ちゃんに悲しまれずに『夜』を解放できたら、それは『希望』たり得るのかもしれない。


「ねえ、晴天さん。聞かせてよ」

「なーにをですか?」

「あなたが考える、私の『夜』を解放するための『希望』。そこへ向かう方法があるんでしょ?」


 その時の私は、笑顔を浮かべていた。



 ※※※



 そうだ。私にとっての『希望』をやっと見つけたんだ。私の前に現れてくれた、本当に都合のいい子である黛さんが。

 だけど黛さんは私から離れていった。お姉ちゃんも、私を切り捨てたかったことを白状した。あーあ、なんでこうなっちゃったんだろう。私は好きなことして生きていたかったのに。


「……私の中にあったのが『夜』じゃなければ、お姉ちゃんに切り捨てられなかったのに」


 気づけば口に出してしまっていた。私がずっと押し込めていた本音。本当は『夜』を消してしまいたかったという本心を。

 父親に火を点けた時は、本当に心から喜びを感じた。だけどその喜びは、お姉ちゃんと共有できるものじゃなかった。それが……悲しかった。


「朝飛……アンタは身勝手だよ。アンタの中にある『夜』も、アンタの身勝手さの象徴みたいなものなの」


 お姉ちゃんに指摘されるまでもなく、わかっていた。もし、私の中にあるのが『夜』だけであったら、私はこんなに苦しまなかった。周りの人間、それこそお姉ちゃんも含めたみんなを衝動のままに消してしまおうとしたかもしれない。

 だけど私の『夜』は、元々はお姉ちゃんと一緒に過ごしたいという願いから生まれたものだ。私の中では、『夜』とお姉ちゃんの両方が、決して捨てられないほど大きなものだった。

 だから私はこんなに苦しまなければならなかった。『夜』がある限り、お姉ちゃんにとって私は負担になる。かといって、『夜』を捨てることもできない。


 私の中にある二つの願いは、全く逆の方角に向いていたのだ。


「アンタは私と過ごすために……私を独り占めするために、父さんを殺そうとした」

「そうだよお姉ちゃん。あの人がちゃんとしてれば、お姉ちゃんのお母さんも死ななかった。そうすれば私も生まれなかった。お姉ちゃんだって私みたいな面倒な妹を持つことなかったし、香車くんたちも死ななかったかもね」

「そんなこと言うからアンタは身勝手なのよ。自分の欲望をぶつけることしかしない。『自分がいなければお姉ちゃんが幸せに暮らせる』っていうこっちの気も知らないようなことしか言えない」

「こっちの気も知らないってなに? お姉ちゃんは私を切り捨てたかったんでしょ? だったら私なんていなければいいってのがお姉ちゃんの気持ちなんじゃないの?」

「全く、本当に子供だよアンタは。私の気持ちなんて汲みとりゃしないし、物事を表面でしか見れない」


 お姉ちゃんは私を見下ろしたまま、両目を細めた。


「アンタが父さんに殺されそうだったってこともどうせ知らなかったんでしょ」


 ……は?

 私が、父親に殺されそうだった?


「父さんはあの時からアンタのことを完全に敵と見なしてたよ。まあそりゃそうだよ。自分を殺そうとする娘なんて危なっかしくて仕方ないもの。だから父さんはアンタを事故に見せかけて殺そうとしてた。だから私はアンタから目を離すわけにいかなかったの」

「なら、お姉ちゃんが学校の先生に何度も連絡と取ってたのも……?」

「アンタの身を守るためだよ。家にいる間なら守れるけど、学校にいる間に何かあるかもしれないからね」

「なんで、そんな……デタラメだよ! そんなの、信じられない!」

「信じろってのも難しいだろうね。だけど私は、アンタを守ってた。父さんが変なことをしないように、警察官との繋がりだって持ったわ」

「じゃ、じゃあ、お姉ちゃんが、あの人と結婚したのって……」

「もともとは父さんへの牽制のつもりだったけどね、付き合ってくうちに悪くないかなって思ったのよ。ま、娘のダンナが警官なら、あの人も下手なことはできないでしょ」


 そんな……お姉ちゃんが、ずっと私を守ってた?

 お姉ちゃんがいなかったら、とっくに私は殺されてた?

 じゃあ、なに? 私は『夜』を解放するどころか、無残に殺される側だったっていうの?


「これでわかった? アンタは本当に身勝手だよ。私がこんなにアンタのために動いてたって、そんなの知ったこっちゃないんだもの」

「私のために動いてたなんて……さっき、私を切り捨てたかったって言ってたじゃない!」

「そりゃ心のどこかではそう思ってたよ。でもね……」


 その時、私の背中に暖かいものが触れた。

 お姉ちゃんが、私を抱きしめていた。


「アンタなら乗り越えられるとも思ってた。アンタに“夜を乗り越える者”って願いを込めて『朝飛アサヒ』という名前をつけたのは私だから……」

「え……?」


 夜を……乗り越える者?


「私が自分に向かってくる『夜』に立ち向かう者なら、アンタは自分を呑み込もうとする『夜』を乗り越える者なのよ。私たちの名前にはそれぞれそういう願いがあった。私はアンタに……『夜』を乗り越えてほしかった。アンタが産まれた時からずっと、そう思ってた」

「なんで……? だって、私、お姉ちゃんを裏切ってたんだよ? ずっと、お姉ちゃんが何も知らないままでいればいいって……そう思ってたのに……」

「だけどアンタは、私を切り捨てようとはしなかった。『夜』を解放するのに一番の障害である私を、決して見捨てなかった。さっき私に殺意を向けたのも、私に恐怖を与えて動けないようにするためで、殺そうとはしなかった。それはアンタが、私を家族として受け入れていたからでしょ。なら、それで十分だよ」

「そんなの! わからないじゃない! 私がいつ、お姉ちゃんを、切り捨てるかなんてわからないじゃない!」

「そうだね。だけど私は“夜に立ち向かう者”なのよ。アンタの暗い部分くらい受け止めてあげる。だから……」


 お姉ちゃんの腕が、私を強く抱きしめる。その体温が、私に伝わってくる。


「一緒に生きていこう、朝飛……」


 ……そうだ。あの時もお姉ちゃんはこう言ってくれた。

 違う、あの時だけじゃない。お姉ちゃんは私が産まれた時からずっと、守ってくれていた。自分の中にある『夜』に負けないための名前をつけてくれて、私がどんなに残酷な行いをしても見捨てることなく、一緒に生きていこうって、ずっと言ってくれてた。


 ずっと、今日に至るまでずっと、私はお姉ちゃんに生かされていた。


 私は所詮その程度の存在だったんだ。自分の中の欲望を他人にぶつけることしかしない、ただの子供だった。お姉ちゃんに勝てるはずもない。


「おねえ……ちゃん……」


 もう私の身体はお姉ちゃんに捕まっている。黛さんを殺すことも、柏さんを殺すことも、誰も殺すことなんてできはしない。


「おねえちゃん! ごめん……ごめんなさい……! わたし……ううっ……ずっと……」


 両目から涙を流しながら泣きわめく私に、お姉ちゃんはやさしく声をかけてくれた。


「全く、本当に世話の焼ける妹だよ。だけど少しは、大人になったみたいだね」


 やっぱり無理だったんだ。私は『夜』を捨てることなんてできなかった。『夜』に身を任せて解放することもできなかった。だけど、それでいいんだ。


 私の『夜』は、もう明けている。



 ※※※



「お母さん! しっかりして! お母さん!」


「……来てくれたのね、夕飛……ありがとう……でも、もうこれで最後かな……」


「そんなこと言わないで! やだよ! お母さんがいなくなるなんてやだ! お父さんはなんでここにいないの!? お母さんが危ないのに!」


「……いいのよ、私は最後に夕飛の顔を見れれば幸せだから……」


「おかしいよ……なんでお母さんがこんなに苦しまないといけないの? なんでお父さんは助けてくれないの? あの人がちゃんとお母さんの傍にいたなら、こんなことにならなかったのに……! なんでアイツはこんなひどいことをして、のうのうと生きているの……!?」


「ダメよ、夕飛……『夜』に呑まれてはダメ……あなたは“夜に立ち向かう者”なんだから……」


「“夜に立ち向かう者”?」


「この世界のあらゆる暗い悲劇に……『夜』に立ち向かっていける子……あなたはそういう子……だからあなたは夕飛なの……」


「……私は、夕飛……」


「大丈夫よ……あなたはもう十分に強い……だから私がいなくても生きていけるし……お父さんを恨まずに幸せになれるわ……だって私のために、家族のために、ここに来てくれて……家族のために涙を流せるやさしい子なのだから……」


「お母さん……ねえ、私、約束するよ」


「約束……?」


「私にこれから新しい家族ができた時、その子が私を家族として受け入れてくれるのなら、絶対にその子を見捨てない。私だけは見捨てない。どんな子だったとしても、たとえ怪物だったとしても、必ず家族として守ってみせる。お母さんが私にそうしてくれたように、『夜』に立ち向かってみせる!」


「……いい子ね、夕飛……」





 お母さん。


 やっぱり私、お母さんが言うほどには強くなかった。旦那には捨てられるし、自分の子供たちを助けられなかったし、何度も『夜』に呑まれそうになった。


 だけど、最後の家族は……『夜』を乗り越えてくれたよ。

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