学年が変わり、俺たちが高校三年生になってから早くも一ヶ月が経とうとしていた。そうなれば望む望まざるに関わらず、俺たちも目指す進路に進むための努力に打ち込まなければならない。
進学校であるM高校の生徒は、大半が四年制大学への進学を希望していた。それはこの俺、柳端幸四郎も例外ではない。そして……
「柳端、ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
俺と共にM高校に通う、萱愛小霧も進学を希望していた。
俺と萱愛は同じ中学に通っていたが、こうして交流が深まったのは、高校に入ってからだ。柏や閂を巡るいくつもの戦いを経て、俺たちは自然と会話を交わすようになった。今では将来に関する相談をすることも珍しくはない。
「どうした萱愛。そういえばお前、この間柏に会いに行くとか言ってたが、また変なことされてないだろうな?」
「いや、大丈夫だ。それとは別件で、相談したいことがあるんだ」
「……? わかった、場所を移すか」
萱愛の真剣な様子を察した俺は、人気のない場所を探し、あまり使われていない視聴覚室に入った。
「それで、どうしたんだ?」
「実は……もしかしたら、お前や閂先輩と離れなければならないかもしれない」
「は?」
言っている意味がよくわからなかった。まず、萱愛が俺や閂と離れなければならないというのは、どういう状態を指すのか。そして、なぜこいつはそんなことを言っているのか。
少し考えてみて、まず思い当たるのは物理的に距離を取らなければならないということ。すなわち……
「お前、この時期に転校でもするのか? いや、そこは家庭の事情だろうから俺がとやかく言うことじゃないが……」
「いや違う、転校するわけじゃない。俺の母親は遠くに転勤するような仕事はしていない」
「じゃあどういうことだ? そもそも、俺と離れなければならないというのはどういう意味だ?」
「……」
質問をぶつけたが、萱愛は苦しそうに俯いたまま答えない。こいつの性格から言って、冗談でこんなことを言っているとは思い難いが、こういう時に曖昧な態度を見せるヤツでもない。
そんなことを考えていると、萱愛は顔を上げた。
「俺は、お前のことが大好きだ」
そして突然、本題とズレたことを言い出した。
「お前だけじゃない。柏先輩や黛さん、樫添先輩、御神酒先生。そして……閂先輩のおかげで俺は救われた。だから俺は、これまで自分を助けてくれた人たちを大切に思っている」
「……」
「だからこそ、なんだ。俺は柳端や閂先輩と離れなければならない」
俺は考える。なぜ萱愛がこんなことを言い出したのか。
簡単なことだ。萱愛小霧という男の身に、何らかの大きな危険が迫っている。
だから萱愛は俺や閂を巻き込むまいと、あえて突き放すようなことを言っている。これまでの事件を経て、普通の人間のすぐ隣にどうしようもない危険が潜んでいると知ったのは、俺だけじゃないということだ。
だとしても、俺は萱愛に対してこう答える。
「萱愛、そのお願いは聞けないな」
「……すまない、突然こんなことを言っても受け入れられないのはわかる。でも!」
「俺は既にお前に十分巻き込まれている」
「え?」
「いや、どちらかというと、俺がお前を巻き込んだ回数の方が多いか? とにかくだ、俺たちはもう当たり前の日常なんてものが何らかの不幸であっさり崩れ去ることを知っている。俺は香車を失い、お前は唐木戸ってヤツを失った。そうだろう?」
「そう、だな……」
「だがそれでも、俺たちはまだ生きている。心に大きな空白を抱きながらも、まだ生きている。それはなぜか? 新たな日常を手に入れたからだ」
「新たな日常?」
「お前は唐木戸を失ったが、閂という大切な存在を得た。だが閂がいる日常も、何らかの不幸で崩れ去るかもしれない。お前が恐れているのはそれだろう?」
「そうだ、だから俺は!」
「だから、失って悲しむ前に自分から手放すのか?」
「……!」
俺の言葉に対し、言葉を詰まらせる萱愛。どうやら俺の予想は当たっていたようだ。
「お前の身にどんな危険が迫っているのかは知らない。だが、せっかく掴んだ手を自分から離すな。お前にはまだ……大切なヤツがいる」
そう、萱愛には、まだ閂がいるのだ。俺はそれが……それが……泣きたいほどに羨ましい。
「柳端、俺だって……俺だって閂先輩やお前とは離れたくない。だけど、今回ばかりは! 今回ばかりは……」
萱愛は目の端から涙を流し始める。こいつがここまで言うのであれば、今回の問題はおそらく相当根深いものなのだろう。
そうなると、俺だけで対処するのは難しい。だから話を切り出した。
「この話は閂は知っているのか?」
「……いいや、まだだ」
「とりあえず、閂には話しておけ。どうせあの女のことだ。お前に何を言われようと離れる気なんてないだろう」
「わかった……」
ひとまず話を切り上げ、俺たちは教室に戻った。
放課後。
「柳端、閂先輩がちょうど今、こっちに来るって言ってるんだが……」
萱愛の携帯電話には、閂からのメールが届いていた。内容は、『萱愛氏、M高校、待ってなさい』というものだった。
「……よくこれで閂がM高校に来るって内容だとわかるな」
「え? だってそう書いてあるだろ?」
「……」
どうやら俺の知らない間に、萱愛と閂の仲はずいぶん深まったらしい。
「まあ、さっきの話をするいい機会だ。俺も一緒に待ってていいか?」
「わかった」
校門の前で閂を待つことにした俺たちだったが、十数分後にヤツは現れた。
「ひひひ、萱愛氏……私、閂香奈芽が、ただいま参りましたよ……ひひ」
現れた閂は、相変わらず不気味な笑い声を発しながら長い前髪で右目を隠していた。どうやらヘアピンで前髪を留めるのは、萱愛の前でだけらしい。
しかし、こいつのこのファッションは私服なのだろうか。やたらフリルのついた黒いワンピースに、黒と白のボーダーのニーソックスという、やたら目立つ服装だった。萱愛には悪いが、やはり俺は閂をそこまで好きになれそうにはない。
「ひひ、それで萱愛氏。さきほどのメールのお返事に、何かお話があるとのことでしたが……?」
「じ、実は……」
萱愛は緊張した面持ちで、閂に先ほどの意思を伝えようとする。
だが、その時だった。
「……小霧くん?」
俺たちのすぐ横。学校の横に伸びる歩道にいた一人の男が、俺たちをじっと見ていた。長身で筋肉質な体格をした、若々しさが残る中年の男だ。
当然のことながら、俺はこんな知り合いなんていない。だが、男の視線を辿ると、俺の隣にいる人物をまっすぐ捉えていた。
そう、こいつが見ていたのは……
「こ、小霧くん、だよね?」
男は萱愛の名前を呟き、みるみるうちに表情を明るくしていく。まるで子供が大好きなおやつを与えられた時のような、無邪気とも言っていいような笑顔を浮かべている。
だが、それに対し、萱愛の表情はみるみるうちにこわばっていった。
「よ、うぜん、さん……」
萱愛の目が見開かれ、体が小刻みに震えている。男と目を合わすこともできずに、歯をガチガチと鳴らしている。
「ああっ、小霧くん! やっと……やっと会えた!」
男は大きな声で喜びを叫びながら、手を広げて萱愛に近づいていく。そして萱愛は、男が近づいてくるのを見て、ますます震えていく。
こんな異常な光景を見せられれば、誰だって気づくだろう。もちろん俺も気づいた。どうしようもない危険が、萱愛に迫っていることに気づいた。
――そして萱愛に迫っている危険とは、間違いなく目の前のこの男だと確信した。
次回更新は金曜日を予定しています。
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