【6月9日 午後6時40分】
「ヒャハハ、お出ましかい幸四郎。ちょっと見ないうちに、変わったプレイにハマったのかい?」
「お前には関係ない」
沢渡さんの軽口をいつも通りに受け流す声は、いつもと変わらないように聞こえた。
柳端くんは紅蘭に脅されているわけでもなければ、心のスキに付け込まれているわけでもない。『死体同盟』の時のような生きる力を失っている状態じゃないはずだ。
「柳端くん……」
振り返れないけども、声を出すことは出来る。アタシの呼びかけに対して何か言ってくれるんじゃないかと思っていた。
「柳端くん! アタシ……」
「竜樹さん」
だけどアタシのそんな期待はあっさりと打ち砕かれて、話は先に進んでいた。
「あなたの弟から聞きましたよ。兄弟仲が悪い理由は、あなたの方に原因があったんですね」
「……だからどうした? この間も言ったけど、僕のプライベートな問題にいちいち口を出すなよ」
「本来ならそうするべきなんでしょうが、この件はもう、俺にも関わる問題なんですよ」
声が近づいて来たのと同時に、アタシの視界にようやく柳端くんの姿が映る。アタシよりもはるかに背が高いその身体は座った状態から見るといつもより大きく見えた。
「君にも関わる問題ね。紅蘭は今度は君を『兄』に選んだわけだ……まったく、どこまでもバカにしてくれるよなあ、お前はよぉ!」
「バカにしたつもりはないよ。わたしが欲しいのはわたしを守ってくれるお兄ちゃんなんだよ。でも竜樹さんはわたしに迫ってきて、わたしに頼ろうとしてきた。そんなお兄ちゃんは必要ないんだよね」
「お前……!」
「待ってください、竜樹さん。あなたに会わせたい人がいるんですよ」
柳端くんが右手を上げると、誰かが階段を下りる音が聞こえてきた。その後、アタシの前に小柄な男が現れる。
「……波瑠樹か。よくもまあ僕の前に顔を出せたもんだな」
「兄さん……あの、僕は……」
「お前、紅蘭と一緒に僕を騙してたんだよな? 僕はお前が紅蘭に乱暴してるって聞いたから、お前を殴った。もともとお前のことは嫌いだったからな。嬉しかったよ」
「……だ、騙すつもりなんてなかったんです……僕は紅蘭ちゃんの『オーダー』に応えたくて……」
「本当にそればっかりだなお前は」
……なにこれ? これが兄弟の会話だっていうの?
アタシは一人っ子だし、世間一般の男兄弟がどんなものかなんてわかりようがないけど、今のこの二人がその世間一般からズレているのはわかる。この二人の間には、年齢差以上の上下関係がある。
会話を聞く限り、竜樹は弟が悪いことをしたから叱ったのではなく、弟と紅蘭に騙されたことに怒っている。自分が弟を殴ったことなんて棚に上げて、自分が受けた被害だけを訴えている。そして弟の方はそれに罪悪感を抱いている。
こんな関係が、世間一般の男兄弟の関係と一緒であってほしくない。
「兄さん……僕は、あなたの望む弟になります。あなたの『オーダー』に応えます。『スタジオ唐沢』に通うようになって、僕はいろんな姿を演じられるようになったから……だから、僕は……」
「そういうことじゃないんだよ! お前の存在そのものが目障りだって言ってるんだ! お前がいる限り、僕はずっと『お荷物の兄貴』という汚名を晴らせないんだ。わかるか? お前が僕より劣っていないといけないんだよ!」
「それが兄さんの『オーダー』なら、僕はそれに応えます。だから、だから……」
「あー! 本当にお前の全部にイライラする! なあ波瑠樹、お前はなんで僕の弟として生まれちゃったの?」
「……僕が、兄さんの弟でなければいいですか?」
「そりゃそうだろうが! お前より紅蘭の方が僕を兄にしてくれてたんだよ! なあそうだろ紅蘭? お前は僕を兄にしてくれた。僕はお前を守れる強い兄だ。お前はそれを求めてたんだろ? なあ!」
竜樹はアタシの後ろにいる紅蘭に向かって話しかけている。それはわかっている。だけどアタシの目の前には、自分より数個も年下の女にみっともなく縋りつく男の姿がある。どこか卑屈な笑顔を浮かべ、必死に相手に気に入られようとする男がいる。
……気持ち悪い。
仮に竜樹が大金持ちだったとして、お小遣いをたくさんくれるのだとしても、アタシはこれとは付き合えない。仮にイケメンだとしても無理だろう。見た目や性格、社会的な立場がいくら恵まれていたとしても、これだけおぞましく、気持ち悪い姿を見せられたら付き合う以前に関わりたくない。
紅蘭だってそのはずだ。以前は竜樹の『妹』になってたけど、この姿を見たから見切りをつけたのなら理解できる。だからアタシと同じく、竜樹を気持ち悪いと思って……
「……え?」
だけど、アタシの後ろにいる紅蘭の顔は、なぜかうっとりとした笑顔を浮かべていた。
なにこれ? 竜樹のことを好きだとかそういう顔じゃない。なんていうか……優越感を抱いているような顔だ。相手が自分より下だと、反撃される心配がないと、安心している時の顔だ。
「なあ紅蘭、もう一度、僕の妹に……」
竜樹が尚もみっともなく頼み込む言葉は、途中で遮られた。
「ぐっ!?」
いつの間にか竜樹の横に走り寄り、その腕をひねり上げていた紅蘭の手によって。
「言ったでしょ? わたしは強いお兄ちゃんが欲しいんだよ。でもあなたはわたしでも簡単に押さえられる。そんなあなたに、わたしのことを守れるの?」
「……なんでだよ! なんでお前は弱くないんだよ! 強いんだったら、なんで僕の妹になったんだよ!」
「その質問に答える必要ある?」
確かに紅蘭は強い。アタシならまだしも、男である竜樹のこともあんなに瞬時に押さえられるなら、そもそも誰かを利用する必要なんてない。なら、なんで紅蘭は柳端くんを……
「やめろ紅蘭。竜樹さんのことは俺がなんとかすると言っただろ」
柳端くんが紅蘭の手を掴み、制止した。紅蘭も素直に従い、竜樹から手を離す。
……あ、そうだ。紅蘭はもうアタシの後ろにいないんだ。ならアタシはもう自由に動ける。
柳端くんのことも、連れ戻せる。
「柳端くん!」
立ち上がって駆け寄ろうとした足は、目の前に突き出された手によって止まった。
柳端くんの、拒絶の意志によって止まった。
「来るな、綾小路」
「……え?」
「俺は今から、紅蘭の兄として動く。紅蘭の兄として、竜樹さんと敵対する」
「なに、言ってるの……?」
アタシの質問には答えず、柳端くんは沢渡さんに視線を向けた。
「生花!」
「ヒャハハハ、こんなに長くアタシを蚊帳の外にしといて、ようやくお呼びかい? アタシとも敵対するって言うのかい?」
「そうじゃない」
柳端くんは沢渡さんの前に立つと、一枚の紙切れを渡した。
「……こいつに伝えておけ。『柳端は必ず戻ってくるから、お前は閂との関係だけを考えていろ』と」
「へえ、アタシを伝言係にしようってのかい? 偉くなったもんだねえ」
「どうとでも言え。おい、紅蘭!」
「はーい、お兄ちゃん。波瑠樹さんも行くよー」
紅蘭は嬉しそうに柳端くんの隣に立つ。その横に波瑠樹と呼ばれた男もついていった。
「ちょ、ちょっと待って柳端くん。なんでこんなことしてるの? なんで君がそんな女のために動くの?」
「……」
「もしかして、脅されてるの? それとも何か事情が……」
「綾小路」
そして柳端くんは、アタシを見て言い放った。
「俺はお前の理想なんかじゃない」
「……!!」
……これって、この言葉の意味って。
「わかったでしょ? 幸四郎お兄ちゃんはもうわたしのお兄ちゃんなんだよ。もうあなたのことは忘れたってこと。じゃあねー」
ビルの中に消えていく三人の姿を見ながら、アタシは柳端くんの真意を悟った。
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