【7月5日 午後6時00分】
既に日が沈みかけている道を歩いているが、俺は気が気じゃなかった。
「……なんでこんなことになってる?」
俺の隣には綾小路がいるが、紅林は隣にも目の前にもいない。じゃあどこにいるのか。
「柳端せんぱーい、やっぱり力強いっすね」
紅林は俺の背後、正確には背中の上にいる。つまり現在、俺は紅林を「おんぶ」している。
なんだこれは。高校の後輩をおぶって街中を歩くとかどういう羞恥プレイだ。顔が火が出るレベルで熱いし、たぶん顔が茹でダコくらい赤くなってる。
一方で綾小路はこちらを見ないでずっと不機嫌そうに何かを呟いている。まあ、こんな状況のヤツと一緒に歩きたくはないだろう。
「おい紅林、本当に歩けないんだよな? だから俺は仕方なくお前をおぶってるわけだよな?」
「そうっすよー。だって私、あのメガネの人に思いっきり蹴られましたからね。先輩におぶってもらわないと帰れないです」
「……わかった」
「でもすごいっすよね先輩。竜樹さんのアパートからずっと私をおぶってるのに全然平気そうですもん」
平気なわけあるか。小柄とはいえ女子高生背負って数十分歩いてるんだぞ、そろそろ膝に限界が来そうだ。
しかしあれだけ偉そうなことを言った手前、『きついからもう降りろ』とは言えない。それに、コイツが本当に歩けないのなら俺には送り届ける責任がある。
「……ホント、何やってたんすかね、私は」
「まったくだ。高校生にもなっておんぶされて帰るヤツがあるか」
「はは、返す言葉もありません。でも今は幸せっすよ」
俺の肩に紅林の体温が伝わる。
「私はやっと、他人に頼っていいって思えたんですから」
――頼っていい、か。今回の件でその感覚を得たのは俺も同じだ。
俺は誰かに頼るのが下手だった。いつだって誰かに相談しようとはせず、自分一人で問題を乗り越えようとしていた。だから萱愛にも道を踏み外すんじゃないかと心配されたんだ。
だが、今は違う。俺は自分以外の誰かに頼れた。
「綾小路」
「え、なに?」
「俺を信じてくれてありがとう」
「え? は、はい!」
綾小路が俺の言葉を信じてくれるかは賭けだった。コイツが俺を見限っていれば、この場に来ることもなかっただろうし、萱愛を連れて来ることもなかっただろう。
だけど綾小路は俺を信じてくれた。そして俺も綾小路が来てくれると信じることができた。
だから、ありがとう。
「……先輩、せめて私の前で見せつけるのはやめてもらえます?」
「何がだ。というか、お前の家はまだ先なのか?」
「いや、すぐそこですよ。あのマンションです」
紅林の言葉通り、少し先に茶色い外壁のマンションが見えてきた。
マンションの玄関で紅林を降ろして、ようやく俺の背中が解放される。
「ここからはもう歩けるか?」
「はい……あの、さっきの言葉、本当にいいんですか? 相談くらいなら乗ってくれるって」
「いいも何も、お前がそうしたいんだろ? むしろ俺には助言くらいしかできない」
「……そうっすね」
俯いた紅林に対して、何か声をかけようかと思ったその時。
「……ねえちゃん!」
後ろから子供の声が聞こえたかと思うと、次の瞬間には近くの中学の制服を着た男子が俺と紅林の間に割って入っていた。
「ねえちゃん! どこ行ってたんだよ! 心配したんだぞ!」
「す、水蘭。た、ただいま」
「『ただいま』じゃないよ! 最近のねえちゃん、帰りも遅いし様子もおかしいから、父ちゃんも母ちゃんも春蘭もねえちゃんのこと心配してたんだぞ! 一体どこに……」
そこまで言った後、水蘭と呼ばれた男はようやく俺に気づいたように振り返った。
「……アンタか? アンタがねえちゃんを何か悪い遊びに誘ってるのか?」
「ちょ、ちょっと水蘭、待って……」
「アンタが誰か知らないけど、ねえちゃんに手を出すなら許さねえぞ!」
……なんだ、ちゃんと頼もしいヤツがいるんじゃないか。
「おい紅林、説明してやれ」
「水蘭、この人はねえちゃんの学校の先輩だから。悪い人じゃないから」
「え? あ、そ、そうなの!?」
水蘭は顔を真っ赤にして深々と頭を下げてきた。
「す、すみませんでした! おれ、てっきりねえちゃんが悪い男に引っかかったんじゃないかって、誤解してて……」
「……お前、姉ちゃんのことは好きか?」
「え? は、はい」
「どういうところが好きなんだ?」
「そ、そりゃあ……ねえちゃんはずっとおれや春蘭の面倒を見てくれたし、泣いた時も励ましてくれたし……あとは……」
「あとは?」
「ねえちゃんがいるから、おれはもっと頑張ろうって思えるんです。だから、おれ……あなたがねえちゃんを悪い道に引き込もうとしてるんじゃないかって思ったら、とっさに声が出ちゃいました」
……全く、どいつもこいつも抱え込んでばかりだな。
「だったら普段からちゃんとそう言ってやれ。話は以上だ」
別に俺が助言しなくても、コイツがもっとしっかりしてれば紅林はもう道を誤ったりしないだろ。
「じゃあ、もう俺たちは帰るぞ。また学校で……」
「その前に、ひとついいっすか?」
「あ?」
「柳端先輩って、確かにお兄ちゃんって感じじゃないです。女の子に優しいわけでもないし、どっちかっていうと冷たいタイプっすよね?」
……なんだ? なんでいきなりこんな貶されてるんだ俺は? いや待て綾小路、なんでお前は納得したように頷いてるんだ?
「でも、なんだかんだで私を突き放さないでくれて、やり方は厳しいけど結果的に助けてくれました。だからその、お兄ちゃんっていうより『アニキ』って感じだと思うんです」
「……いや、おい、お前、まさか……」
「だから、これからは『アニキ』って呼ばせてください!」
目をキラキラさせて俺を見つめる紅林の姿を見て、また背中に重いものがのしかかったような感覚が襲った。
【7月5日 午後6時20分】
紅林を送り届けた帰り道、綾小路が改めて声をかけてきた。
「大丈夫? 柳端くん」
「……ああ、大丈夫だ。特に怪我してるわけでもないしな」
怪我はしてないが、精神的な疲労はどっと来ているのは黙っておく。
「ところで生花はどうした?」
「そういえば、いつの間にかいなくなってたね」
「まあいい、今回のことでアイツにも少し反撃できたし、しばらくは大人しくしてるだろ」
「反撃って、やっぱり沢渡さんを無視したのって……」
「常に『絶頂期』とやらを求めているアイツには、ああいうのが一番効くだろ」
生花からすれば、楽しいことが目の前で起こっているのに蚊帳の外に置かれているのが一番堪える。俺に関わっても楽しいことに参加できないとなれば、アイツも俺に関わろうとして来ないだろう。
「……逆効果なんじゃないかなあ」
「逆効果? どういう意味……」
言葉の意味を聞く前に、スマートフォンに着信が入った。画面に表示された名前を見ると……
「……やはり来たか」
「え?」
「もしもし、柳端だ」
『……ダメですよぉ、柳端くん。ちゃんと帰って来てくれって言ったじゃないですか』
予想した通り、通話口から聞こえた声は画面に表示された発信者と同じ……楢崎久蕗絵のものだった。
「残念だったな楢崎。俺も紅林も弓長波瑠樹も、もう『スタジオ唐沢』には戻らない。アンタや唐沢が柏をつけ狙うのは勝手だが、紅林たちの知らないところでやるんだな」
『ああ、こわい、こわい。柳端くんのそういう怖い声、もっと聞きたいですね』
どんなに威圧的な声を出しても、楢崎は逆に喜んでいるように声を高くしていく。
その様子は容易にどこかの誰かさんを連想させる。自分に迫る『絶望』を喜び、絶対的な力に命を奪われたいと願う誰かさんを。
俺が『スタジオ唐沢』に入り込んでいた目的は唐沢の真意を探ることと、紅林を助け出してやることの他にもうひとつ、俺にとって最大の目的があった。そのために俺は『スタジオ唐沢』にいる間に、楢崎と連絡先を交換したんだ。
「だったら俺の声を聞かせる代わりに質問に答えてもらおうか」
『なんでしょうか?』
「香車とアンタの関係はなんだ?」
『……なんのことですか?』
「とぼけるな。アンタは生前の香車と連絡を取っていたはずだ」
楢崎久蕗絵という名前を聞いた時から、俺の中に引っかかるものがあった。だがその違和感の理由は、過去の記憶を辿ってみることではっきりした。
四年前、俺と香車が柏と出会い、廃工場での事件を経て香車は入院した。その後、俺は入院中に香車の携帯電話を盗み見て、アイツが柏と連絡を取っていると知り、柏を香車から引き離すために動いたわけだが……
あの時、香車の通話履歴には柏恵美の他にもう一つの名前があったのだ。『楢崎久蕗絵』という名前が。
楢崎が単なる香車の知り合いである可能性もあるが、コイツの考え方はどこか柏に似ている。だからハッキリさせなければならない。
楢崎久蕗絵と棗香車の間に何があったのか。
「なんでアンタが香車と連絡を取っていた? アンタは何者なんだ?」
『……』
「答えられないか? それとも俺に戻ってきて欲しいからわざと黙っているのか?」
『……ああー……いいですねえ。こわい、こわい、そうやって安心できない声を聞かせてください』
「答える気がないなら、話はここまでだ」
『そうですか。でも、その敵意はちゃんと私に向けてくださいね。間違っても……』
その時、楢崎の声が小さく、低くなる。
『私のエミちゃんには向けないで』
おそらくは、この声に含まれるものが楢崎の奥に潜む感情だ。
「やはりアンタは柏の関係者か。だったらアンタの正体は柏に聞いた方が話が早そうだな」
『無駄だと思いますよ? エミちゃんは私のことなんて覚えてないでしょうし。でも、私はエミちゃんのことをずっと覚えてます。ただ一人、私を安心させてくれる人ですから』
「あんな女のことを気に入ってるとは、アンタも物好きだな」
『ダメですよ、勘違いしちゃ。気に入ってるはずないじゃないですか』
「あ?」
『私を安心させる人なんて、存在しちゃダメですよ』
……どうやら、コイツはこれまで出会ってきた女の中でも、特に異常な部類に入る女のようだ。それこそ、柏に匹敵するほどに。
『まあいいです、紅蘭ちゃんもいなくなっちゃいましたし、私たちはまた次の手を考えますよ』
「『私たち』? 唐沢のことか?」
『いいえ、さっきものすごく怖い女の子を見つけたから声をかけたんですよ。あれ、えーと、名前はなんていったかな……メガネかけててピンク色で……』
「……おい!? まさか、生花が……!?」
『あ、充電切れちゃう。それじゃあ、また』
「おい!」
呼びかけもむなしく、通話は切られてしまった。
「柳端くん? どうしたの?」
「……生花が『スタジオ唐沢』の連中と手を組んだかもしれない」
「はあ? あの人、また柳端くんを困らせようとしてるの?」
「そうかもしれないが……」
しかし俺は生花が自らの意志でアイツらと手を組んだとは思えなかった。どちらにしろ、この先は俺も『スタジオ唐沢』と敵対する形になるかもしれない。
楢崎と香車の関係。そして柏との関係。
その正体次第では、この先の戦いは避けられないだろう。
柳端幸四郎の女難編 完
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