私たちが夕飛さんと出会った翌日。祝日で学校が休みだった兄は早速、彼女に電話をかけていた。
「もーしもし、空木晴天です。お元気ですか、夕飛さん?」
『私が連絡先を渡したのは、アンタじゃなくて弟さんの方なんだけど』
「つーれないですね。どんてんくんは確かに魅力的ですけど、ボクも魅力では負けてないと思うんですよ」
『そんな魅力に溢れた男がバツイチのおばさんを追いかけまわすなんて、世も末ね』
兄はなぜかスピーカーホンで通話していたので、隣にいた私にも夕飛さんの声が聞こえた。通話口からは他に当時の私よりも幼い子供のような声も聞こえた。子育て中なのだろう。
『聞いての通り、私は子供の世話が忙しくてね』
「あーあーあー、そうなんですか。あなたに似た、かわいいお子さんなんでしょうね」
『……ええ、確かにかわいいわ。アンタに会わせるべきじゃないと思うくらい』
「あっははは。こーれは、厳しいですね。ますます夕飛さんが好きになりましたよ」
夕飛さんが皮肉を言っても、兄は特に気にしていなかった。私から見ても、兄が夕飛さんに抱いている好意は、本物のように思えた。
『で? 言った通り、私は子育て中だから、アンタに構ってる暇はないんだけど』
「あーあーあー、じゃあ用件を伝えますよ。この間の件、考えてくれました?」
『アンタと食事に行かないかって? さっきの言葉、聞いてなかったのかしら?』
「聞いてましたよ。その上で誘ってます」
あからさまに嫌悪感を出している夕飛さんに対して、兄は怯むことなく誘いをかけていた。そこまでして夕飛さんにこだわる理由がなんなのか。私にもわからなかった。
『……もしアンタが弟さんを連れてくるんだったらいいわ。その代わり、私も子供と妹を連れてくることになるけど』
「いーいですね。大所帯なのは好きですよ。是非ともご一緒しましょう」
『それで? 私は基本的に開いてるのは土日しかないわよ』
「ボクも同じですよ。今週末だったらどうでしょう?」
『わかった。それでアンタ、弟さんに変なことしてないでしょうね?』
「へーんなことですか? そうですねえ」
夕飛さんの質問に対して兄は、左手に持っていたロープの先端を持ち上げる。
「ぐうっ!」
私の首にかけられたロープの先端を持ち上げる。
「ぐ、えええ……」
そのことによってロープが首に食い込み、私は苦悶の声を上げることとなった。
その声が夕飛さんにも聞こえたのか、彼女は動揺した。
『っ!? アンタ、何してるの!?』
「あーあーあー、ボクなりのしつけですよ。どんてんくんはボクのレポートを消しちゃいましたからねえ。父親にしつけを頼まれたわけですよ」
『アンタ……!!』
「あーあー、そんなに怒らないでくださいよ。あなただって、子供にしつけはするでしょう? ボクがどんてんくんの『希望』であることをしっかり教え込むのに必要なことなんですよ」
『……警察に通報するわよ』
「別に構いませんよ。ボクは弟を教育しただけですから。何も問題ないでしょう?」
『……』
電話を切ると同時に、兄は持っていたロープを放した。それと同時に、私は床に倒れこんでせき込む。
「ごほっ、ごほっ!」
「あーあーあー、どんてんくん。苦しかったよね? つらかったよね? あー、ごめんねえ」
兄は私を抱きしめながら、背中をさする。ついさっきまで私を虐待した手で慈しむように私を撫でる。そのことが、理解できなかった。
「に、にい、さん」
「ん、なんだい?」
「な、んで、こんな、こと?」
「言ったじゃないか。ボクはどんてんくんの『希望』になりたいんだよ」
「だ、だって」
だって兄さんは、ボクをいじめるじゃないか。
そう言おうとして、兄は私を苦しめることで、ほんの僅かな『希望』に縋らせたいのだということを思い出した。
「いいかい、どんてんくん。君にとっての『希望』はボクだ。君を救えるのはボクだけであってほしいんだ。それ以外の『希望』を君には持ってほしくない。だからこうしているんだよ」
「そ、そんなの……」
「ん? それはボクの身勝手なんじゃないかって? そうかなあ。だってボクはどんてんくんのお兄さんだよ? 夕飛さんみたいな赤の他人より、ボクの方が君の『希望』にふさわしいでしょ?」
そう言って、兄は私の首に手を当てる。
「『希望』というのは人を救うものであると思うんだよ。どんてんくんだって、“もしかしたら”ボクが君を助けてくれると思えるから生きていられる。“生きてさえいれば”、幸せになれる“かも”しれない。でも夕飛さんが君を助けられるという『希望』はゼロだ。だってさ……」
そして、私の首を強く掴んだ。
「が、ああああ……」
「ボクがこうしている今のこの瞬間、夕飛さんが助けに来てくれるかい? そんなわけないだろう? だって彼女は自分の子育てで忙しいんだから」
「や、やめぇ……」
「あ、あーあーあー、どんてんくん、苦しかった? ああ、ごめんねえ」
手を放したと同時に私が咳込んだのを見て、兄は再び私を撫でる。
兄は今まで、嘘は言っていなかった。私の『希望』になりたいというのも本当であり、私に生きていて欲しいというのも彼の本心であることは間違いない。
しかしそれは、私の幸せを願っているが故の行動ではなく、自らの欲を満たしたいが故の行動であるというだけの話だった。
そして、その週の土曜日。夕飛さんとの約束の日時がやってきた。
「あーあーあー、たーのしみだなあ。夕飛さんとどんなお話ができるかな。ねえ、どんてんくん。君も楽しみだろう?」
「……」
兄はこの日のためにジャケットを新調し、心底楽しそうに鼻歌を歌っていた。一方の私は、夕飛さんが自分を助けてくれるという『希望』は既に捨てていた。
空木晴天は私の兄で、夕飛さんは赤の他人だ。彼女には何もできない。それだったら、兄が“もしかしたら”私の幸せを心から願うかもしれないという、わずかな『希望』に縋るしかなかった。
兄が私を連れて向かったのは、県内で最も大きい駅近郊にある、シティホテル内のレストランだった。煌びやかな明かりの中において、私の存在はひどく不釣り合いに思えた。
「あ、いたいた。夕飛さーん!」
エントランスに入ると、兄の視線の先にはあの日と同じくスーツを着た夕飛さんと、彼女の息子らしい二人の子供、そしてブレザーを着た女子学生がいた。
兄の姿を確認した夕飛さんは不快そうな表情になり、すぐさま視線を私に向ける。
「曇天くん、また会ったね。お兄さんに何か変なことされてない?」
「だーいじょうぶですよ。どんてんくんは『希望』を持ってすくすくと育ってます」
「アンタには聞いてないわ」
夕飛さんの質問にどう答えようかと考えていると、彼女の息子の一人がいきなり泣き出してしまった。
「ひ、う、うええええん!!」
「あらあら、槍哉、大丈夫?」
夕飛さんが槍哉と呼んだ子供を宥めていると、ブレザーを着た女子学生が彼女に声をかけた。
「お姉ちゃん。二人は私が見ているから、先にレストランに行ってていいよ」
「そう? なら、頼むわよ。朝飛」
朝飛と呼ばれた女子学生は、槍哉くんの前でかがみこんで、頭を撫でた。
「知らない人がいきなり来ちゃって怖かったね。お姉ちゃんと遊んでようね」
「う、うん……」
「さ、私たちは行くわよ」
夕飛さんは子供の世話を任せてこの場を離れようとしたが、兄はなぜか朝飛さんに目を向けていた。
「えーと、あの子はどなたですか?」
「……朝飛は私の妹よ。母親が違うから歳は結構離れてるけど」
「あーあーあー! そうなんですか。いやあ、お互いに歳の離れた弟妹がいるなんて奇遇ですねえ」
「勝手に親近感を抱かないで頂戴。早く行くわよ」
夕飛さんは兄と朝飛さんを関わらせたくなかったのか、さっさと兄と私を連れてエレベーターに乗り込んだ。
しかし私も気になった。あの朝飛という女性はどこか……
当時の私は言葉に出来なかったが、今の私が言葉にするならば、こうだ。
朝飛さんは、初対面であるにも関わらず、不自然なほどに私に安心感を抱かせるような人だった。
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