初めてその人を見たときのことは、正直よく覚えていなかった。
中学に通っていた時から、話には聞いていた。『殺されたがり』の思想を持つ、変わり者の高校生のこと。柏恵美のことを。
だけど私がその人と関わるとは思ってはいなかった。部活にも入る予定はなかったし、そもそもM高校に入る予定もなかったから。
だけど私の運命を変える出来事が起こった。
ある日、M高校の近くを通った時のことだった。その日は平日だったが、試験休みで暇だった私はたまたまその辺りを歩いていたのだ。
そして見た。高校の屋上から一人の少年が落ちていくのを。それを見た私は、心に強いショックを受けてその場に倒れた。意識を失っていたのはほんの数分のことだったらしく、目を覚ました後は特に身体の不調などはなかった。
だけどその日から、私の心の中に不思議な感情が芽生えていた。
言葉で表すとするのれあれば、そう、何かを求めているような感情だ。だけどその何かが人なのか物なのか、そもそも形がある物体なのかどうなのかすらわからない状態だった。
しかし私は、アサミの付き合いでM高校に見学に行ったときに求めているものの正体を知った。
M高校の見学会で、在校生の一人として見学者の誘導を行っていたその人は。
柏恵美は、私の目にとても魅力的な『獲物』として映ったからだ。
彼女の一挙手一動作が私の心を魅了した。彼女の全てが、私の求めているものだった。
その姿が、その思想が、その命が、私の心をどうしようもなく震わせるのだ。
だから私は――彼女を手に入れたいと思い始めた。しかし、その考えが社会的に受け入れられるものではないともわかっていた。
だから私は親友のアサミにも相談したが、彼女は私のことを応援してくれなかった。だけどそれはまあいい。
問題は、私の顔がとても柏先輩に見せられるものではなくなってしまったことだ。
菊江くんとの一件で、私の顔には大きな傷が残ってしまった。これでは柏先輩も私のことを見てくれないだろう。しかしそれでも私は柏先輩と一緒にいたい。いや、今になってその思いはより強くなってしまっている。
ならば私はどうするべきか。今の私ではもう、人並みの幸せを掴むのは難しいだろう。そして柏先輩は『殺されること』を人生の目的にしている。ならば私が取るべき行動は一つしかない。
私は……柏先輩と共に死のう。人生の最期の時を、一番好きな人と共有しよう。
私の目的は決まった。問題はどうやってその状況に持って行くかだ。一応いつでも柏先輩を殺せるように、カッターを持ち歩いてはいたものの、先輩との接点がない私にはどうしようもなかった。
だけど意外にも、機会はすぐに訪れた。ホームセンターで切れ味の良さそうな刃物を探していたら、なんと柏先輩の方から声をかけてきてくれたのだ。
ありきたりな言葉になってしまうが、私は運命を感じてしまった。これで、このタイミングで柏先輩が声をかけてきてくれたのは神様が巡り合わせてくれたに違いない。
私は先輩と行動を共にし、彼女を殺すチャンスを窺った。しかしそのチャンスもすぐに訪れた。アサミが柏先輩や樫添さんに戦いを仕掛けていたのだ。
アサミがどうしてあんな行動を起こしたのかは大体予想がつく。彼女のことだ、私が傷を負ったことで罪悪感を抱き、それを清算したいのだろう。しかし私にとっては、彼女の迷いなどどうでもよかった。彼女が私を助けなかったことも、別に恨んではいなかった。どうせアサミにとって、私などその程度の存在だったのだ。
だから今の私にとって重要なのは、あくまでどのように理想的な最期を迎えるかだ。そして今、偶然にもその理想的な状況が整ったのだ。
憧れの柏先輩が私の腕の中にいる。誰もいない浴室の中で、二人きりになっている。
ああ先輩、柏先輩、私と共に死んでくれますね? あなたが求めてやまない人が、ここに来たんですよ? 死にたくないなんて、言いませんよね?
「後小橋川くん、君は私を殺すのかね?」
先輩への思いを心の中で浮かべていると、急に彼女が声をかけてきた。首にカッターを押し当てられていても、彼女はまるで動じていない。だけどどうしてそんなことを聞くのだろう? まさかここに来て迷ったのだろうか?
「何を言ってるんですか? 私はあなたをずっと求めていました。そのことは話しているはずですけど?」
私がこう言っても、柏先輩はどこか浮かない顔をしている。
「ふむ、それはいいだろう。だが私が心配しているのは、君が私を殺した後のことだ」
「殺した後?」
「私にとっては君に殺されること、それ自体は問題ない。しかし君が私を殺した後にどうなるのかが気になるのだよ」
「それを心配してどうするんですか? あなたはここで死ぬんですよ? 私に殺されるんですよ?」
「そうなのだろうね。だが私を殺す者がこれからも生きるつもりがないとしたらそれは問題なのだ」
「……どういうことですか?」
彼女の意図が読めずに首を傾げてしまう。私のことを気にしているのだとすればそれは嬉しいことではあるが、彼女と考えが一致しないのは少し不愉快だった。
「君は言っていたね? 『このまま生きているよりは死んだ方がマシ』だと。その言葉が真実だとすると、君は私を殺した後に死ぬつもりだ。違うかね?」
「……」
「そうだとしたら私としては困る。君には私を殺した後も生きていてもらいたい」
「そんな決定権はあなたにはないですよ」
「そうだろうね。しかし私とて理想的な殺され方というものがある。そして何より……」
そしてここに来て初めて、柏先輩は私の目を見た。
「私は殺される側であり、殺す側ではない。君が私を殺したことで死ぬという事態は避けたいのだよ」
……どうしてだろう。私は今までずっと柏先輩を殺して自分のものにすることを夢見て来たはずだ。それなのにどうして……
今、目の前にいる先輩が、こんなにも気持ち悪く思えてしまうのだろうか。
「わけのわからないことを……!」
「それを理解できないのであれば、やはり君は私を殺すべきではない」
「黙ってよ! 私はあなたを殺した後に死ぬ! もうそれしかないんです!」
「そう、そこなのだ。その考えを私は受け入れられない」
柏先輩は眉をひそめて不機嫌そうな表情を作る。
「君は私を殺したいのではない。私を殺すことで自分が死ぬ理由を作りたいだけだ。そんな人間には私は殺せないし、殺されたくもない」
「……!」
違う……
私は、私は……!
「……どちらにしても! あなたはここで死ぬんです! 私と一緒に!」
「いいや無理だ。君も先ほどの『レプリカ』と同様、こんなにも獲物に時間を与えてしまった」
「え?」
その言葉と同時に――
私の顔に何かが降りかかった。
「熱っ!?」
私の顔に降りかかった何かは、私を怯ますには十分すぎるほどの高熱を帯びていた。だから私は思わず、その場から逃れてしまう。
何だ!? 何が起こった!? 私は浴室の壁にもたれ掛かりながら先ほどまでいた湯船の横を見る。
そこには湯気を立てながら熱湯を放っているシャワーが床に転がっていた。
「近頃のシャワーは便利なものだ。蛇口をひねらなくてもボタンを一つ押すだけでお湯が出てきてくれる」
そう言った柏先輩は、いつのまにか私が持っていたはずのカッターを握りしめていた。どうやら熱さに怯んだ時に落としていたらしい。
「後小橋川くん。君は私が床に転がっていたシャワーを君の顔に向けていたことにも気づかなかった。だから獲物にこのような反撃をも許してしまう。そんな者に私としても殺されたくはないのだよ」
「くっ……!」
目の前の柏先輩はカッターの刃をじっと見つめている。ああ、どうやら私は失敗したようだ。柏先輩は私を受け入れてはくれなかった。
だけどこれで良かったのかもしれない。柏先輩に殺されるならそれで……
「よもや、私が君を殺すとでも思っているのかね?」
「……!」
心中を見抜かれてドキリとした私の首に、柏先輩がカッターの柄を押しつけてくる。
その目は恐ろしいほど私を射抜いた。
「言っただろう? 私は殺される側であり、殺す側ではない。君のような人間に死という安らぎを与えるとでも思っているのかね?」
「あ……!」
そうだ、そうなんだ。この人はどこまで行っても殺される側の獲物。そうだということは噂には聞いていたはずなのに。そんなことは最初からわかっていたはずなのに。
結局のところ、私は最初からこの人のことをちっとも理解していなかったんだ。
「君は私を殺せない、そして私も君を殺せない。だったらもう、この話はこれで終わりだ」
そう言うと柏先輩は立ち上がり、私を冷ややかに見下ろしながら、言った。
「私に理想的な死を与えられない者になど、用はない」
……そしてこの時、私の恋は最初から叶うはずのないものだったということを思い知った。
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