「柳端!」
包丁を落とした柳端に棗が近づいた直後、彼は血を流してその場に倒れた。まさか、まさか棗が柳端を刺したというのだろうか。まずい、柳端が動けなくなれば私たちはいよいよ……
「残念だよ幸四郎。僕は君と友達でいたかった。君と楽しい時間を過ごしたかった。でも、君は僕のために動いてはくれなかったね」
「ふざけないで!」
危険ではあった。この状況で下手に棗を刺激するのは危険ではあった。でも、あいつの言葉がどうしても聞き捨てならなかった。
「さっきから聞いていれば、あんたは自分の事情を柳端に押し付けてばかりじゃない!自分が楽しみたい、自分の趣味を捨てたくない。そればかり!柳端がどれだけあんたを殺人犯にしたくなかったかわかっているの!? どれだけあんたを助けたかったかわかっているの!? どれだけ……あんたのために動いていたかわかっているの!?」
そう、あいつを認めるわけにはいかない。エミのためにも、そして……
「あんたが柳端を『友達』だと言う資格なんて無い!」
あいつのために動いていた男のためにも。
「……失礼な人ですね。まあいいや、とりあえず気を取り直して始めましょうか、柏さん」
棗は私の言葉を聞きながらも、エミにナイフを向ける。
「……ああ。ところで香車くん、獲物の身ではあるが君にお願いがある」
「なんですか?」
「……せめて、黛くんたちは苦しませないように終わらせてくれないか。私はどんな行いも受け入れられるが、彼女たちには酷だ。私としても、友人たちが苦しむのは心が痛む。だから……」
「いいですよ」
「……そうか、ありがとう」
「そうなると、先に彼女たちですね」
そして、棗が私たちの方に振り返る。
いよいよか、いよいよ『狩る側の存在』が私を狩りに来る。でも、やられるわけにはいかない。
「……困りましたね、これは」
棗が私を見て、薄笑いを浮かべる。
柳端が落とした包丁を握りしめる私を見て、薄笑いを浮かべる。
「黛センパイ!?」
樫添さんが私に近づいてくる。
「樫添さん、下がっていて。私が……決着をつける」
これしかない、私たちが死なないためには私が武器を手に取るしかない。
だが、出来るのだろうか? 私に……
「僕と殺し合いをするわけですね?」
ためらっている場合ではない。やるしかない。私はエミを救いだすと決めたのだから。
「長船さん、入り口から離れないでくださいね。逃げられたらまずいですから。それと、四人を殺した殺人鬼になってもらってもいいですか?」
「……好きにしろ」
長船は今まで繰り広げられていた光景に圧倒されていたようで、消え入りそうな声で棗に応えた。
こいつも何を考えているのかわからないが、今は棗から目を離すわけにはいかない。こいつは人を殺すことにためらいがない。一瞬でも警戒を解いたら殺される。
「黛センパイ、私も……」
「駄目よ、あなたは丸腰。私から離れたら棗はあなたを殺しに行く。私のそばにいて」
「黛くん……」
棗の後ろにいるエミが、再び悲痛な表情を浮かべて私に訴える。
「もう諦めてくれないか? 香車くんは君たちを苦しめずに終わらせてくれることを承諾してくれた。君たちが抵抗をしなければ、苦しまずに済むんだ。もう私たちに助かる希望などないのだよ。それを受け入れれば君は救われる。私は、君たちを……」
「エミ……ありがとう」
エミはこの状況でも、私たちを気遣ってくれる。私の幸せを望んでくれる。
方法は間違っているかもしれないけど、エミは私を救おうとしている。
だから、だから……
「私は諦めないよ。生きてここから帰る。あなたと共に」
包丁を握る手に力が入る。
棗がどう出るかはわからない。でも、こうして包丁を構えている以上、迂闊に手を出せないはず。
膠着状態は続いた。
※※※
困ったなあ。
僕としてはのびのびと『狩り』を愉しみたかったのに。
邪魔が入ったら出会い頭に攻撃するのが一番のチャンスだと思っていたけど、入ってきた瞬間の攻撃は避けられてしまった。
その上、幸四郎を刺す羽目になっちゃったし、この人――黛さんって言ったかな。とにかくこの人に包丁を手にされてしまった。迂闊だったなあ、ちゃんと包丁を拾っておけばよかった。
うーん、まずは武器を持っていない樫添さんって人を先に刺すのがいいと思うけど、彼女は黛さんから離れてくれない。仮に彼女たちがバラバラになったとしても、樫添さんを攻撃しているときに、後ろから刺されないとも限らない。
うーん、困った。長船さんに入り口から離れてもらうわけにはいかないから、僕一人で彼女たち二人を相手しなければならない。
どうしようかな。僕が柏さんと彼女たちを『狩る』にはどうすればいいかな。
ああ、そうだ。こうしよう。
「柏さん、ちょっとここから離れますよ」
僕は柏さんを屋上の隅に残したまま、屋上の端をつたうようにグルリと迂回する形で長船さんのいる入り口に歩いて行った。
当然、黛さんたちは柏さんを庇うかのように屋上の隅に向かう。
「……なんのつもり? 私たちにエミを確保させるなんて」
黛さんが僕を睨み付けながら問いかける。だが、その直後に僕の意図を理解したようだ。
「あんた、最低ね」
そう、こうすれば二人は柏さんを庇わなければならないから三人で固まっていなければならない。二人が僕の攻撃を避ければ、助ける目的の柏さんを見捨てることになる。向こうの武器は包丁一本。庇うことで行動が制限されている状態なら、避けるのは簡単だ。
さらに三人がいるのは屋上の隅。逃げることも出来ない。屋上から突き落とすことも出来る。
いやあ、いいなあ。この状況、実にいいなあ。
やはり一方的に攻撃できるのは理想的だ。
「柏さん、今行きますね」
遠回りになってしまったが、ようやく僕は獲物――柏さんを狩ることが出来る。
柏さんを狩った後はしばらく大人しくしよう。そうだなあ、高校に入るくらいにまた『狩り』を始めようかな。
幸四郎がいなくなったのは痛いけど、まあ仕方ないか。僕の邪魔をしたわけだし。逆に良かったかもしれない。幸四郎を気にせずに『狩り』が出来るのだから。
「ああ、来たまえ香車くん。これで……これで終わりだ」
柏さんは全ての希望を捨て去っている。目を瞑り、来るべき時を待っている。
だが、そんな僕たちの間に邪魔が入っている、まずはそっちからだ。
「……棗香車」
黛さんが口を開く。あれ、僕の名前知ってたんだ。じゃあ猶更、邪魔だなあ。
そう思っていると、彼女は包丁を樫添さんに渡した。
「あんたの負けよ。この状況を許したあんたの負け」
「……どういうことですか?」
「樫添さん……」
そして、彼女は――
「頼んだわよ」
後ろに跳んで、屋上から消えた。
※※※
ついに来たのだ、この時が。
黛くんと樫添くんが私を守るようにして香車くんと対峙している。だが、無駄だろう。この状態になったということは、彼女たちは私を庇うために行動を制限される。私がここから動かなければ、彼女たちも動けない。
そして、私たちに逃げ場はない。取っ組み合いで香車くんが黛くんたちに負けるとは思わないし、私を守るために黛くんは避けることも許されない。
今度こそ詰みだ。今度こそ、私は香車くんに殺されるのだ。
逃げることなど出来ない。一方的な蹂躙。それがこれから私の身に降りかかる。
やはり一方的に攻撃されるのは理想的だ。
「……棗香車」
黛くんが口を開く。この状況でも彼女は諦めていないと言った。
それだけが私の心残りだ。彼女には絶望に身を委ねて欲しかった。自分の死を受け入れて欲しかった。
だが、それは叶わなかった。やはり、彼女は獲物には成り得なかったのだ。
「あんたの負けよ。この状況を許したあんたの負け」
「……どういうことですか?」
「……樫添さん」
この期に及んでも彼女はそんなことを言う。
この状況を打開できるというのか? そんなわけがない。
私たちが生き延びることなど……
「頼んだわよ」
その言葉の直後、彼女は屋上から飛び降りた。
「……なに?」
黛くん? 何をしている? ここに来て自殺?
いや違う、彼女は諦めていなかった。私を助けることに拘った。
ならこの行動は、私を助けるための行動。
どういうことだ? 何をしようと……
その意外な行動の意図がわからず、思考を巡らせていた直後、下で黛くんが地面に墜落する音が響き渡った。
――待て、響き渡った?
人間が地面が落ちただけでは、ここまでの音は響かない。私は屋上から、遥か下にある地面を見た。
……そこには。
プレハブの体育倉庫の屋根に倒れている黛くんの姿があった。
――まさか。
まさか、まさか、まさか。
「香車くん! 今すぐにこの屋上から降りるんだ!」
黛くんが落ちた音。
かなりの音だった。辺りに響き渡るくらいに。
校庭には体育の授業を受けている生徒もいた。当然彼らは見るだろう、体育倉庫を。そして、その屋根にいる黛くんを発見する。
体育倉庫から響いた音、その屋根に倒れている人間。
その二つの事実と、屋上を結びつけるのは容易なことだ。
既に騒ぎは起きている。もしかしたら黛くんが屋上から飛び降りる瞬間も目撃されていたかもしれない。
さらに、私は包丁を持った樫添くんに守られている。短時間で私を殺すのは難しい。
ダメだ、ここにいては香車くんは……!
「お、おい、棗! どうするんだよ!」
長船くんが慌てて香車くんに駆け寄る。何をやっている! 早く香車くんを連れて屋上を出ないか!
だが、香車くんはその場を動こうとしなかった。
「……あーあ、ここまでか」
彼はため息を吐きながら、ナイフを投げ捨てる。
「きょ、香車くん?」
「……柏さん、今回は失敗です。また考えましょう」
「だ、だから早くこの屋上から……」
「無理ですよ。ここまでの騒ぎになったら、僕が見つからずにここから出るのは無理です」
待て、待ってくれ。
君は『狩る側』だ。君が諦めてしまうのか? 私に絶望を与えてくれないのか?
「柏さん」
そう考えていると、香車くんはいつの間にか、私がいる場所とは反対側の隅にいた。
そして――
「またね」
後ろに倒れこむようにして、頭から落下していった。
「……香車くん?」
今度は大した音はしなかったが、代わりに生徒たちの悲鳴が響き渡った。
待て、待て、待て。
「香車くん? 香車くん!?」
待ってくれ、君は……『狩る側』の君が……
「香車くん!!!」
私を置いていくというのか!?
「ま……んぞくか……」
小さな声が私の耳に届く。見ると、倒れている柳端くんが私を睨み付けていた。
「満足かよ、柏恵美……これが、これがあんたの望みが生んだ結末だ!」
望み?
その言葉で私はたどり着いた。香車くんの狙いに。彼は言ったのだ。
『またね』
それを信じるのであれば……
そうか、そうか、そうか。
そうだね、香車くん。
――また会おう。
※※※
一週間後。
私は警察からの事情聴取を受けた後、病院に向かった。
「エミ……エミ、良かったよぉ……」
私の姿を見るなり、黛くんは涙を流した。
屋上から落下したというのに、彼女は右足の骨を折っただけで済んだようだ。無茶をする。しかし、同時に安堵もした。
彼女が死なずに済んで良かったと、心から思った。
屋上での一件は、黛くんと樫添くんの証言により、香車くんが主犯だとして扱われた。
柳端くんはまだ証言が出来る状態ではないが、おそらく彼は私が主犯だと主張するかもしれない。
しかし、黛くんと樫添くんの証言とナイフにも包丁にも私の指紋が残っていない以上、その主張を貫くのは難しいだろう。
そして、長船くんは香車くんに手を貸したことを認め、退学となった。こうして、私たち四人は被害者として扱われた。
「エミ……もう大丈夫だよね? エミはもう棗には殺されないないよね?」
黛くんが私に問いかける。
そう……もう香車くんに殺されることは不可能だ。諦めるしかない。
「ああ……もうそれは不可能だよ」
「……良かった。本当に、あなたが生きていて良かった」
そう言って、彼女は再び涙を流した。それを見た私の心に、黒い影のような感情が生じる。
これはなんだろう、罪悪感だろうか。
数日後。
私は学校で授業を受けていた。そして、黛くんのことを考える。
私は彼女が死なずに済んで良かったと、心から思った。そしてそれは、彼女が私に抱いている感情に近いのだろう。だからこそ、私は彼女に罪悪感を抱く。
――彼女を裏切ってしまうことに。
香車くんは知っていたのだろう。十年前、私に起こった出来事を。斧寺刑事の死が、私を完成させたことを。
斧寺刑事の望みは、私を絶望で救うこと。そして、香車くんは知っていた。人の死が、他人に影響を与えることを知っていた。だからこそ、大勢の人間の前で自分を殺したのだ。
私は斧寺刑事の死を見たことで、彼の意志を受け継いだことで完成した。ならば、香車くんの死を見た者はどうなるだろう。彼らは人の死を見た。そのことで、自分の奥底に眠る欲望を自覚したりしないだろうか。
他人を『狩ってみたい』と思わないだろうか。
その答えは、今現在私が体験している。感じる。幾多の視線を感じる。
私を『獲物』と見定める視線を感じる。
すごい、これはまさに理想的だ。私は狙われていることだけしか知らされない。
誰が私を狙っているのかは全くわからない。
私の周りには、幾多の『香車くん』がいる。だが、それが誰かはわからない。私はわからないまま攻撃を受ける。
ああ、これこそが香車くんの狙いだったのだ。自分を分散させて、私をより狩りやすくすることが狙いだったのだ。そして、私が助かる可能性は限りなく低い。当然だ。誰に殺されるのかわからないのだから。
だが、はっきりしていることはある。
「香車くん」
私は決して『香車くん』からは、
「殺したくなったら、いつでもおいで?」
――逃げられない。
第八話 完
これにて、「柏恵美の理想的な殺され方」の第一部は終了です。
次回から第1.5部「黛瑠璃子の望まない日常」が始まります。
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