その女が自分の名前を名乗ったところで、喫茶店の店内は特にざわめくこともなく、普段通りの光景を作り上げている。当然だ。ただ自分の名前を名乗っただけなのだから。
しかしこの私、樫添保奈美只一人だけは、女が言った言葉に間抜けにも面食らってしまった。当然だ。女が名乗った名前が、絶対にあり得ないものだったのだから。
『黛瑠璃子』。
それは、私の一つ上のセンパイであり、よき友人でもある女性の名前。そして、たった一人の大切な人を、何者を敵に回しても、それこそ大切な人自身を敵に回しても守ると誓っている誇り高き女性の名前。
珍しい名前とはいえ、同姓同名の可能性も無くはない。だけど目の前の女は、明らかに何らかの目的で自分の名前を偽っている。
『黛瑠璃子』を、騙っている。
どうにもそれに腹が立った。友人の名前を騙られるのならば腹が立って当然かもしれないが、それ以上にその名前を易々と名乗ることに腹が立った。お前は柏ちゃんを守るために、黛センパイがどれだけの戦いを潜り抜けてきたかを知っているのか。そんな覚悟を持った人間の名前を、易々と名乗って許されるのかと。
そう考えて、やっとこの女に感じる違和感の正体を悟った。この女の髪型も服装も、黛センパイに似せたものだ。本来のこいつは絶対にしないであろうファッションだ。だからこいつの雰囲気と外見にどこか滑稽なチグハグさがあるのだ。そしてこの女はおそらく、それを意図してやっている。黛センパイを扱き下ろすために。
だけどここで怒りをぶつけるわけにはいかなかった。そもそもこの女の目的もまだわからないのだ。下手に動くとまずい。
怒りを感じつつも、心は冷静に。先に動かずとも、迎え撃つ準備は万全に。この局面では、それが必要となる。
「あれ、ノーリアクション? 『黛センパイ』が話しかけてるんだからさ、無視するのはひどいんじゃないかな、『樫添さん』?」
『黛瑠璃子』は席に座ったまま肩をすくめて人を食ったように笑う。しかしその両手はテーブルの下に隠れていてこちらからは見えない。何か武器を隠し持っている可能性は無くはない。だから私は手元にある熱々のドリンクが入ったマグカップを手から離さない。いざとなればこれを『黛瑠璃子』にかけて、怯んだ隙に逃走できる。
「……アンタが何を企んでいるかは知らないけど、『黛瑠璃子の未来の姿』なんて世迷い言に付き合う気はないの」
この女がどういう意図で『黛瑠璃子』と名乗っているのかはわからない。だけど既に私と黛センパイの名前を出している以上、コイツが何らかの方法で私たちのことを調べているのは明らかだった。
「世迷い言じゃないさ。私は『黛瑠璃子』の結末。身の程知らずに大切な人を守り続けようとした愚か者のなれの果て。いずれ『黛瑠璃子』も私と同じ結末を迎える。だから私は『黛瑠璃子』で間違いない」
「……何を言ってるかわからない」
感じたことを、そのまま発した言葉だった。『黛瑠璃子』の結末? この女は何を言ってるんだ? このままだとセンパイはいずれこうなるとでも言うのか?
「『黛瑠璃子』は柏恵美に執着している。それこそ、自分の人生をかけてもいいと思っているくらいに。だからあの女はいずれその執着に押しつぶされる。その後に待っているのは、惨めな余生さ」
惨めな余生。その言葉を聞いて、『死ぬまでにはまだ時間がある』と言った、あの娘のことを思い出すが、今は関係ない。
それより重要なのは、この女が出した新たな名前、『柏恵美』。当然といえば当然だが、やはりこの女は柏ちゃんのことも既に知っている。ならばこの女の目的も、柏ちゃん絡みである可能性は高い。まさかまた、柏ちゃんを殺そうとする者が現れたというのか。
「さて、あのM高校の卒業生である聡明な樫添保奈美さんであれば、既に私の目的を何通りか推測しているんだろうね。例えば、『この女は柏恵美を殺そうとしている』とかね」
「……」
心中を当てられても、動揺は表に出さない。この数年で身につけた特技だ。しかし相手もこの揺さぶりにさほど効果は期待していなかったようで、さっさと話を進める。
「あー、やめやめ。駆け引きなんて私には合わないや。さっさと目的を言うわ」
またも肩をすくめた後にため息を付きながら頭を掻いた『黛瑠璃子』は、ようやく真剣な顔をして、私を見る。
「私の目的は一つ。『黛瑠璃子』になること……だよ」
「……一応聞いておくけど、アンタは女の子が好きとかそういうの?」
「それは『私』にそういう気があるって、『普段から』思っているということなの? 『樫添さん』」
「…………」
駆け引きが性に合わないという割には、中々皮肉めいた返しをしてくる。それが私を余計に腹立たせた。
「『黛瑠璃子』になるって? アンタが何者かはしらないけど、なりたいって言うくらいならあの人のことは知っているんでしょ? あの人の柏ちゃんを守ることへの執念は尋常じゃない。いや、それ以前に、人は他人にはなれないの。そんなこともわからないの?」
「『私』が『黛瑠璃子』になれないのなら、『黛瑠璃子』を『私』にするまで。そうなれば最初に言った通り、『私』は『黛瑠璃子の未来の姿』。そういうことになる」
「そんなの、屁理屈でしょ」
「屁理屈でもいいさ。『私』と『黛瑠璃子』が、同一の境遇になるのならね」
「……」
ここまでの会話で、一つわかったことがある。
こいつは今までの相手とは違い、柏ちゃんではなく黛センパイに注目している。
柏恵美と黛瑠璃子。この二人を知っている人間であれば、どちらが特異な存在であるかと聞かれたら、十人中十人は『柏恵美』と答えるだろう。それほどまでに彼女の思想も目的も雰囲気も異質だし、私も黛センパイも彼女の特異性に惹かれている部分は少なからずある。
だからこそ、今目の前にいる女の狙いがわからなかった。滅多にお目にかかれない変人である柏恵美よりも、元々は普通の少女であった黛瑠璃子に拘る理由が。そのことが私の思考が結論にたどり着くことを邪魔している。
このままでは相手の思うツボ。そう考えた私は次の一手を打った。
「アンタが『黛瑠璃子』になるとしたら、一つ聞きたい」
「なに?」
「アンタと黛センパイの共通点は、なに?」
コイツの狙いが何であれ、どうにかして情報は引き出しておきたい。黛センパイに拘りがあるのであれば、コイツと彼女には何らかの共通点があるはず。それが明らかになれば、対策が立てられるかもしれない。
「それは言えないね」
「言えない?」
「言わなくてもいずれ思い知るからさ。樫添さんも、『黛瑠璃子』も、私との共通点をさ」
「どういうこと?」
しかし私の質問は『黛瑠璃子』が両手を掲げたことで遮られた。
「さて、突然ですがここで提案です。私はこの通り武器も持っていません。今のところはあなたに危害を加えるつもりもありません。それを踏まえて言います」
そして私に手を差し伸べた。
「柏恵美を見捨てろ」
厳しい口調とは裏腹に、私を見るその目はひどく穏やかで、それがまたこの女のチグハグさを際だたせた。
「……何言ってるの?」
「言葉の通りさ。樫添保奈美さん、アンタは『黛瑠璃子』ほど柏サンに執着しているわけじゃない。『黛瑠璃子』ほど、命がけで柏サンを守ろうとはしていない」
「……!」
――それは、私が最近感じていたことだった。自分が柏ちゃんと黛センパイに関わっている理由、その不透明さを。
「アンタも感じているんじゃないかな? 『殺されたがり』の柏恵美を守る必要なんてあるのかって。柏サンに魅入られた『黛瑠璃子』はともかく、アンタはまだ戻ってこられる。自分だってそれを感じて……」
「やめて!!」
思わず出した大声は、店内の注目を集めるには十分の声量だった。
「……だとしても私は、柏ちゃんを守る」
「どうして?」
「私を救ってくれた、大切な友達だから」
そう、柏ちゃんはかつて私を救った。それは紛れもない事実。
それだけで、十分のはずだ。
「足りないね」
「え?」
「人を守るには、そんなんじゃ足りない。もっと大きな、それこそ自分の全てを掛ける必要がある」
『黛瑠璃子』はそう言って立ち上がった。
「今日はこれで失礼するよ。ああ、私に会ったことを秘密にしておく必要はないよ。直ぐに『黛瑠璃子』にも挨拶にいくからさ」
「待って」
「ん?」
「アンタは、どうしてこんなことを?」
『こんなこと』が何を指しているのかは自分でもわからなかったが、私の質問に『黛瑠璃子』は答えた。
「……八つ当たり?」
振り返ったその顔には、黒髪の下から茶髪が少し覗いていた。
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