その日の昼休み。俺は所属するクラスである、二年A組の教室で自習をしながらクラスメイトの会話に耳を傾けていた。
「なあ、どう思うよ新しい生徒会長」
「いやあ、アレはないわ。見た目もなんか不気味だし」
「だよなあ、絶対なんかヤバい人だよな」
教室で雑談をしているクラスメイト達の話題は当然のことながら、今朝の閂先輩による『挑発』だった。彼らはお互いの意見の正しさをを確かめるように、次々と閂先輩の異常性を言葉にしていく。
「そもそもあの前髪は何だよ、絶対あの人根暗だよな」
「そうそう、きっと生徒会長になったのも、陰キャ脱出のためだぜ」
「哀れだよなあ」
しかし俺には、どこか彼らの表情に焦りのようなものが浮かんでいるように見えた。その焦りが、彼らに閂先輩を必死に攻撃させているように思えた。
俺は、いやおそらく閂先輩の『挑発』を聞いた全ての生徒は、その焦りの原因を推測できる。
彼女の言うとおり、俺たちは心のどこかで自分を『特別』だと思っていたからだ。
俺たちがいるこのM高校は、公立ではあるがこの辺りでは一番の進学校だ。当然、その進学校に入った生徒たちは、少なからず自分たちは同年代の人間より優れているという思いを抱いているはずであった。
そして閂先輩はそれを見抜き、全校生徒にそれは思いこみだと指摘した。それどころか、表面的には自分たちは『普通』であることを尊重しながらも、心の底では『特別』な存在になりたいという考えを揶揄した。そして閂先輩の指摘は当たっている。まさに今、クラスメイトたちが自分たちの『普通』を確認することで、『特殊』で『特別』な行動をした閂先輩を必死に攻撃しようとしているからだ。
「……」
俺は大勢で一人の人間を攻撃するその姿勢が気に入らなかった。だからと言って、彼らを非難することもしたくなかった。俺にそんなことをする資格などない。
なぜなら俺は……
「萱愛」
声をかけられたことに気づいた俺は、思考を中断する。
「何か用か? 借宿」
俺に声をかけてきたのは、同じクラスの男子、借宿長世だった。細身で背も低く、細い目が俺の顔の少し下あたりを見つめている。
「お前さ、今朝の閂とかいう生徒会長どう思った?」
借宿はニヤついた顔をしながら俺に話しかけてきた。しかしその目は、自信の無さを示すかのように、視線がキョロキョロと動いている。
「……正直言えば、生徒会長に向いているとは思わない。あそこまで他人に攻撃的な発言をするべきではないと思う」
「へえ、萱愛でも攻撃的なのはダメだって思うんだぁ」
「どういう意味だ?」
「え? それ聞いちゃう? 聞いちゃうの? ねえ?」
借宿はわざとらしく大きな声で騒ぎ立てる。それは明らかに周りに自分への同調を求めているポーズだった。だがクラスメイトの誰も、借宿に同調しようとはしない。
「だってお前、『人殺し』じゃん」
業を煮やした借宿は、切り札と言わんばかりにその単語を口にした。それと同時に、クラスメイトが一斉に俺を見て、その事実を思い出したかのように俺に嫌悪の視線を向ける。
「……」
俺はこのクラス、いや学校内で孤立している。その理由は、借宿の言う通り、『人殺し』だからだ。
かつての俺は、理想を追い求めて他人のことを全く見ない人間だった。その結果……
「なあ、そうだよなあ、お前は『人殺し』なんだよなあ。そんなお前に他人を悪く言う権利があると思ってんの?」
借宿はその顔を一層ニヤつかせながら俺に詰め寄る。確かに俺がかつて、ある男を追い詰めて死に追いやってしまったのは紛れもない事実だ。
「あるよ」
だとしても、無関係な他人に一方的に攻撃を受ける謂れはない。
「え?」
「俺が他人に対して意見を言う権利はある。一方で借宿、お前に俺が殺した『あいつ』の言葉を代弁する権利はない」
俺の反撃に腹を立てたのか、借宿は顔を真っ赤にして唾を飛ばしながら叫びだした。
「何偉そうなこと言ってんだお前!? ふざけんなよ、お前にそんな権利ねえよ『人殺し』にそんな権利ねえよ黙ってサンドバッグになってろよマジでムカつくなお前」
次々に言葉を繰り出してくるその姿は、戦場で恐怖に陥った兵士が闇雲にナイフを振り回して弱い自分を守っているように見えた。そして俺たちの会話を聞いていたクラスメイトが、ヒソヒソと話し始める。
「おいおい言われちゃったよ、借宿のヤツ」
「あいつ運動も勉強も大して出来ないくせに他人を見下すんだよな。そんなんだから友達いないのに」
「それでいて何もしないのにプライドだけは高いんだよな……」
「どうせ萱愛相手なら優位に立てると思ったんだろ?」
クラスメイトの話が聞こえて自分が劣勢だと悟った借宿は、俺をジロリを見る。
「お前、クラス全員から嫌われてるからな」
そして捨て台詞としか思えない言葉を発して教室から出て行った。
借宿が出て行ったことで、クラス内は再び落ち着いた空気に戻り、俺も自習に戻ろうと思っていた。
「ひひひ……こちらは二年A組の教室で合っていますかねえ……」
だがその空気は、突如聞こえた小さく高い声によって再び打ち破られた。俺も、そしてこのクラスの他の生徒たちも、この声と口調に聞き覚えがある。
「皆様こんにちは。ひひひ……」
教室の入り口に、今朝全校生徒に『挑発』をした閂香奈芽その人が、顔を突きだして教室内を覗き込むように立っていた。猫背のせいでその小さな体が余計に小さく見えるが、露わになっている左目がこちらを見定めるようにギョロギョロと動き、その存在感を大きくしている。
「ひひひ……私と致しましても質問に答えてくださらないと困ってしまうのですが……ひひひ」
「は、はい、そうですけど……何かご用ですか?」
彼女の近くにいた一人の女子が、おそるおそる質問する。
「ああ、これは私としたことが用件をお伝えするのを忘れていました。失敬失敬、ひひひ……」
「あ、あの……」
「ひひ、このクラスにいる萱愛という方にご用があるのですが……いらっしゃいますか?」
「え?」
話題の人物からいきなり指名されたことで、思わず声を上げてしまう。
「おや、そちらのお方ですかね、ひひひ……」
「……はい。萱愛は俺です」
閂先輩がこちらに気づいたので、俺も席を立って彼女に近づく。
「これはこれは、初めまして……ひひひ。三年の閂と申します……」
「は、はい。知ってます」
「ひひひ……実はですね、あなたに提案があってここを訪れたのですよ……」
「提案?」
言うまでもなく、閂先輩と俺は初対面だ。だからその提案とやらも、全く予想がつかない。とりあえずは先輩の言葉を聞くことにした。
「萱愛氏。あなたは現在このクラス、いや学校中から孤立していますね……?」
そして彼女は、まるで遠慮のない言葉を浴びせてきた。それを受けて俺の心が微かに悲鳴を上げた気がした。
「……はっきり言いますね」
「ですが私であれば、あなたのその現状を変えられるかもしれません……ひひひ。今は話せませんが、私はその方法を思いついているのですよ……」
「……」
「如何ですか? ひひ、この提案に乗ってみる気は……」
普通に考えれば、明らかに怪しい誘いだ。いくら魅力的な提案だったとしても、初対面の、しかも不気味な笑いを見せる上級生の提案に乗るわけがない。
「お断りします」
「……ほう?」
俺の返答を受けて閂先輩は一瞬その薄笑いを消し、こちらを見定めるように目を細めて視線を向けたが、すぐにまた先ほどまでの薄笑いを浮かべた。
「ひひ……理由をお聞かせ願いたいのですが……」
理由。それは閂先輩がとても怪しい人だから、
……ではない。
そう、例えこの提案をもちかけたのが閂先輩でなかったとしても、俺はそれに乗る気はさらさらなかった。なぜなら俺は……
「俺は……望んでこの状況に身を置いているからです」
この罪を一生背負うと決めているからだ。
「俺は友人を……故意にでは無いとはいえ、死に追いやってしまいました。俺はその罪を一生背負って生きていくと決めたんです。そして俺はまだ、自分で自分を許せていないし、そんな俺を死んだ友人はもっと許していないはずです。だから、あなたの提案には乗れません」
「……」
俺の頭に、無二の親友だと信じていた男の顔が浮かぶ。だけど俺は、その親友を救うつもりで取った行動で逆に追い詰めてしまい、死なせてしまった。そんな俺が容易く許されて良い訳がない、救われて良い訳がない。
「ですから、残念ですがあなたの提案には乗れません」
「……」
俺の決心は、その程度では揺るがない。
「……ひひ、ひ、ひひひひひ!」
だが自分の提案を断られたはずの閂先輩は、なぜかその口を一層吊り上げて、これまでより激しい笑い声を上げた。
「ひひ、いいですよ萱愛氏。あなたは実に素晴らしいお方です。ご自分を罪人と認め、自身に罰を与え続ける……常人の発想ではありません。あなたも『特殊』な人間であると言えましょう……」
「……俺はただの『人殺し』ですよ」
「いえいえ、私と致しましてもあなたに興味がございまして……」
……興味か。確かに閂先輩は『特殊』に憧れていると言っていた。自ら孤独に身を投じる俺も、既に『普通』ではないのかもしれない。
だがそんなことは関係ない。俺はこの道を歩むと決めたのだ。
「その辺にしておけ、閂」
その時、教室に新たな人物が入ってきた。黒のスーツ姿に、長い前髪。そして眼鏡の奥から覗く、鋭い眼光。
この学校の数学教師、御神酒汰助先生だった。
「ひひ、これはこれは御神酒先生……もしや先生も萱愛氏に御用が?」
「ああ、少し萱愛と話がある。だからお前も、もう自分の教室に戻れ。生徒会長であるお前が下級生にちょっかいをかけると他の生徒に示しがつかん」
「仰せのままに……それでは萱愛氏、この場は失礼いたします、ひひひ……」
両手でスカートの両端を持ち上げ、片足を一歩後ろに下げながらお辞儀をして、閂先輩は教室を出て行った。
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