【7月5日 午後5時00分】
一ヶ月前、紅嬢との一件にケリをつけた直後のことだった。
「まったく、派手にやったな……」
アタシに蹴り飛ばされて気絶した紅嬢を心配そうにのぞき込んだ幸四郎は、タツキの家に紅嬢を運び込んでいた。それを見てたら無性にイライラしちまったアタシは、結局幸四郎には何も言えずにその場を立ち去るしかなかった。
「クソがっ!」
道端のゴミ箱を蹴り倒しても怒りが収まるはずもない。
なんでこんなにムカついてんだアタシは。幸四郎に無視されただけってことだろうが。そもそもアイツはアタシのことを嫌っていた。それをからかうのが楽しかったんだし、今までだってずっとそうだっただろうが。
……『今まで』?
このアタシが、過去の出来事を思い返してる? 過去も将来も考えず、今のこの瞬間が自分の全てであるはずのアタシが?
そもそもアタシが幸四郎を追って同じバイトを始めるなんてことがおかしかったんだ。なぜかわからないけど、ここ最近の、特に幸四郎と再会してからのアタシはどうかしている。
「あれえ? 紅蘭ちゃんも柳端くんもいないですね。この辺りにいるって聞いたんだけどなあ」
その時、前から歩いてきた背の高い女が『柳端』という名前を口にしたのを聞いて、なぜだかアタシの気分はさらに悪くなった。
コイツは幸四郎のなんなんだ。紅嬢の仲間か? よりによってこんなイライラしている時にアタシの前に現れやがって。
「あ……ひっ! す、すみません! な、何か私、失礼なことをしでかしましたでしょうか!?」
アタシに睨まれていたことに気づいた女は、デカい身体を縮こまらせて怯えたような声を上げてきた。その姿を見ていると無性にイライラする。
だったら蹴られても文句は言えない。
「『失礼なことをしたか』だって? アンタが今、このアタシの目の前に現れたこと自体が失礼だねぇ!」
怒りに任せて女の腹めがけて前蹴りを繰り出してやる。
「なに!?」
しかし、アタシの足はあっさりと女の右手に掴まれた。
「ダメですよ。あなたの体格じゃ私の顔とか腕には届かないからお腹を狙ったんでしょうけど、そういうのは読まれちゃいます」
「ち、ちくしょう! 放せ!」
「はい、どうぞ」
アタシの言葉通りにあっさりと手を放したのが更にムカついたので、今度は膝を狙って蹴りを繰り出す。
「ダメですよ」
小さく後ろに下がられて蹴りが空を切ると、相手はその隙を見逃さずにアタシに掴みかかってきた。
「ぐっ! が、ああ……!」
なんだコイツ……めちゃくちゃ力が強い。
棗夕飛も荒事に慣れているようだったけど、この女は違う。取っ組み合いに慣れている上に、単純な力がアタシより遥かに上だ。
「ダメ、ダメ、ダメですよ。もっと私を不安にさせてください。簡単に組み伏せられないでください。私の動きを全部予想して、私を怯えさせてください」
そして女の顔から感情が消えて、まっすぐアタシに視線を向ける。
「私を安心させないで」
その顔を見てわかった。この女は『そういうヤツ』だ。香車のボウヤや朝飛嬢と同じ、自分の愉しみのために人を殺せるヤツだ。
「アンタぁ……棗香車のボウヤと知り合いなのかい?」
「あれ、香車くんのこと知ってるんですね。そうですよ。私のことをあなた以上に嫌ってくれた子でしたね」
「アンタがあのボウヤと同類なら、アタシを殺そうってのかい……?」
「え? そんなことしませんよ。だってあなたは私を不安にさせてくれるじゃないですか」
「なに言って……」
「嬉しいんですよ? 出会ったばかりの私に対して容赦なく蹴りかかってくれる。ああ、嬉しいです。そうやって私に敵意を向けて、私を怯えさせようとしてくれて、私を不安で取り囲んでくれる。みんながあなたや香車くんのような人なら、私は安心しなくて済むんです。だからあなたを殺すはずがないじゃないですか」
「それの何が嬉しいんだい! そんな生き方をするくらいなら、今すぐ死んだ方がマシさね!」
アタシからすれば、それは『絶頂期』がもう訪れないとわかった上で苦しみの中で生き続けるのを強制されるようなもんだ。
「そうですか? ああ、でも、エミちゃんだけは理解してくれたなあ。あの子だけは私の気持ちを理解して、あの子だけは私の喜びも悲しみもわかってくれる。本当にエミちゃんはいい子です」
「恵美嬢が……アンタを理解しているって?」
「だから、許せない」
「……あ?」
「あの子だけは私の目の前にいたらダメです。あの子だけは私を怯えさせてくれない。それが確定しちゃってます。だから……」
女はアタシじゃなくて全く違う方向を見ながら言い放つ。
「あの子だけは確実に殺さないと」
……当然のことながら、コイツと恵美嬢の関係なんて知らない。なんでコイツが恵美嬢にここまでの殺意を向けるのか理解できるはずもない。
だけどコイツは香車のボウヤとも関わっている。その事実さえあれば。
幸四郎は必ずコイツの前に現れる。
「なあアンタ、幸四郎のこと探してるんだろ? だったらアタシと手を組まないかい?」
「あなたと?」
「アタシならアイツの性格も、何したらキレるのかもわかってる。なあ、いいだろ? アタシなら……」
「ダメですよ」
冷たく突き放す言葉の直後。
「あ、がああああああ!!」
女が両手でアタシの頭を掴んだことで、ギリギリと音が鳴りそうな激痛が走った。
「ダメ、ダメ、ダメですよぉ。今のあなたじゃ柳端くんを誘えません。当然、エミちゃんも誘えません。だってあなたじゃ、私のことも不安にできないじゃないですか」
「ぐ、あ、ああああ……」
「だから今のあなたとは手を組めません。もっと自分のことに気づいてもらわないと」
「じ、じぶんのこと……?」
何を言ってるのかわからない。アタシはアタシなんだから気づくもなにもない。
「うん、とりあえず唐沢先生と話してもらいましょうか。あの人ならあなたのことを、ちゃんと不安にさせてあげられますから」
優しく語りかけてくる声を聞きながら、アタシは意識を失った。
【7月5日 午後6時21分】
「う、ん……?」
目を覚ましたアタシは、どこかのビルの一室にあるソファーに寝かされていた。なんだここ……ダンスレッスン用の部屋かなんかか?
周りを見渡すと、さっきの背の高い女の他に口髭を生やしたデカいオッサンと若い男がいた。
「おっ、気がついた? いやあ、びっくりしたよ。クロエちゃんが帰ってきたと思ったら紅蘭ちゃんじゃなくて違う子を連れてきたからねえ」
「す、すみません! 紅蘭ちゃんは取り戻せませんでした!」
「いいよいいよ。この子説得すれば私の目的には近づけそうだから」
状況から考えて……コイツらは紅嬢の仲間ってところか。だけど目的がなんであろうと幸四郎のことを振り向かせるならコイツらと手を組んで損はない。
「さて、私は『スタジオ唐沢』の教室長やってる唐沢って者です。君は沢渡生花さんだね?」
「アタシのこと知ってんのかい、ならアタシが『絶頂期』を求めてる女だってのも知ってんだろ?」
「そのことなんだけどね、どうも君は自分のことを誤解しているみたいだから、まずそのことに気づいてもらいたいんだよね」
コイツもさっきの女と同じことを言ってきたのがなぜかムカついた。
「言ってくれるじゃないかい。アタシが何を……っ!?」
蹴り飛ばしてやろうかと思った矢先、頭に激痛が走ってよろめいてしまった。くそ、さっきの女に締め上げられたダメージがまだ残ってるのか。
「何を誤解しているかって? 君は自分が求めているものが何か、本当にわかっているのかい?」
「ああ!? そんなの決まってる! アタシはずっと『絶頂期』を求めてきた! 『生きていてよかった』って思える瞬間こそがアタシの全てだ!」
そうだ、『生きていてよかった』と思える瞬間さえあれば、アタシは華さんのような死に方をしなくても済む……
……あれ?
なんでアタシ、華さんのことを思い出してるんだ? あの時の記憶は夢でしか思い出せていなかったはずなのに。
「うん、それが君の誤解なんだよ。だって君はもう、『絶頂期』を手に入れちゃって、人生の目的を達成してるんだから」
「ふざけんな。アタシはまだ……!」
「なんで否定するんだい? 君が求めていたものを既に手に入れているんだから、それは喜ばしいことだろ?」
「手に入れていたらアタシがこんなにイライラしてるはずないだろうが! 幸四郎がアタシを無視して、知らないヤツらと仲良しこよしやってる! あんなもん見せられてムカついてる今のアタシが『絶頂期』を手に入れてるはずが……!」
「そう、つまり君の言ってる『絶頂期』っていうのは『柳端くんの隣にいること』なんだよね」
「……は?」
幸四郎の隣にいることが『絶頂期』? なに言って……
反論しようとした矢先、アタシの頭に自分が発した言葉が勝手に浮かんでくる。
『こっちを……見ておくれよ……幸四郎……!』
……あ。
「うん、気づいてくれたようだね」
ダメだ。これはヤバい。気づいてはいけないやつだ。
なのにアタシの思考は止まらない。どんどん進んでいく。いや、ドツボにハマっていく。
アタシは幸四郎をからかって、幸四郎に自分を見てもらって、幸四郎をアタシに夢中にさせたくて、そんなことばかり考えていた。だからアイツと同じバイトを始めたし、アイツの予定も探ったし、アイツを惑わした紅嬢を怒りに任せて蹴り飛ばした。
アタシの中にある『絶頂期』という言葉は、いつの間にか幸四郎に侵略されていた。
「さて、君はもう『絶頂期』を手に入れていたわけだけど、このままだと君は柳端くんに関われなくなっちゃうわけだ。そうなると『絶頂期』は君の手から消えてしまう」
「あ、ああ……」
「失うって怖いよねえ? 不安だよねえ? 『希望』も何もないよねえ? でも君はその不安を抱えていれば、まだこの世界で生きていける。他の何かに惑わされることもなく、一つの目的に突き進んで、何にも期待せずに救われる」
「こ、う、しろう……」
いやだ、いやだ。失いたくない。幸四郎を失いたくない。もしアイツが二度とアタシを見てくれなくなったら……
アタシも華さんみたいに、報われずに死んでしまう。
「さあ、沢渡さん。私が君に新しい目的を与えるよ。柳端くんを手に入れるって目的を。私は柏さんから霧人先生を解放して、君はあらゆる人間を撃退して柳端くんを手に入れる。彼の周りには柏さんも黛さんも、あと綾小路さんって子もいるんだっけ? 敵がたくさん存在するねえ」
そうだ、幸四郎の周りには多くの『敵』がいる。アイツの目をアタシから逸らす多くの『敵』がいる。
こわい、こわい。幸四郎を誰にも渡したくない。渡してしまったらアタシはもう本当に生きていけない。
「大丈夫だよ、安心して『絶望』するといい。柳端くんを手に入れた後も、まだまだ君の前にはどんどん敵が立ちはだかる。でも、それでいいんだ」
唐沢はアタシに優しく微笑みかける。
「そうすれば、君はずっと柳端くんの隣で『絶頂期』のまま生きていけるんだから」
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