「人を、殺してみたいと思ったことはある?」
兄ちゃんから突然発せられたその言葉。オレはそれの意味を直ぐに理解することが出来なかった。
「あ、え……?」
聞き返そうとするが、オレの口から出たのは意味を成さない声だけだった。そんなオレを、兄ちゃんはバットを手にしたまま静かに見ている。まるでこちらの反応を待っているかのように。
「兄ちゃん、冗談……だよね?」
やっと出た言葉は、オレ自身も情けなく思える質問だった。兄ちゃんは決して冗談なんて言わない。それはわかっている。だけどオレは兄ちゃんが本気で人を殺そうとしているなんて思いたくはなかった。だから言った。
「……冗談じゃなかったら、どうする?」
「……!!」
兄ちゃんの視線がオレを押しつぶそうとする。もはやオレは兄ちゃんの暗く冷たい目から逃れることが出来なかった。この場から直ぐに逃げ出したいのに、そうすることも出来なかった。それだけ今の兄ちゃんは怖かった。
これは、オレを虐めていた男子を殴りに行った時の目だ。本気で怒っている時の目だ。
だけどどうして? どうして兄ちゃんはこんなに怒ってるんだ? オレが何をしたっていうんだ?
オレは最近の出来事を思い出してみた。そして一つの可能性にたどり着いた。
「え、えっと、もしかして涼子ちゃんを紹介したこと、怒ってるの?」
「……」
「もしかして、涼子ちゃんが気に入らなかったの? それだったらオレがそれとなく涼子ちゃんに……」
「そんなわけないだろ?」
オレの言葉を遮った兄ちゃんの目は、いつもの優しい目に戻っていた。
「湖森さんはいい子だし、彼女を紹介してくれた槍哉にも感謝しているさ。そう、僕は本当に感謝しているんだ」
「そ、そう? なら何で怒ってたの?」
「僕は別に怒ってなんていないよ。どうしてそう思ったんだ?」
「え、いや、その……」
兄ちゃんの目が怖かったからとは言えなかった。
「あのさ、本当に涼子ちゃんやオレに怒っていないんだよね?」
「そう言ってるだろ」
「じゃあ、なんで『人を殺してみたいか?』なんて聞いたの?」
そうだ、まだその問題が残ってる。兄ちゃんが怒ってないなら、どうしてあんなことを聞いたんだろう。何の理由もないのに他人を殺すなんて人間がいるわけないし。
「ああそれ? それは槍哉が最近乱暴になってきたから兄ちゃん心配してたんだよ」
「え?」
「ほら、お前昔と違って力もついてきたし、サッカーで友達にケガをさせることも多くなっただろ? だからお前が変なことを考えていないか試したんだよ。でもそうじゃないみたいでよかったよかった」
そうか、確かにオレは最近調子に乗って強引なプレーをしたり、友達に勢いよくぶつかったりしてケガをさせたりしている。兄ちゃんはそれを注意したかったんだ。
やっぱり兄ちゃんはすごい。オレ以上にオレのことをわかっている。やっぱりオレはまだ兄ちゃんに守られているんだ。
「ごめん兄ちゃん。オレ、心配かけてたんだね」
「別に謝らなくていいよ。槍哉がわかってくれたのならそれでいいさ」
「じゃあ、兄ちゃんも別に人を殺してみたいわけじゃないんだね?」
「んー……」
だけど、兄ちゃんは俺の質問にすぐに答えてくれなかった。
「に、兄ちゃん?」
「今は僕だって人を殺してみたいだなんて思わないよ。だけどお前に何かあったら、今の僕ではいられないかもしれないね」
「どういうこと?」
「お前がもし誰かに殺されたとしたら、兄ちゃんは黙っていられないかもしれない。それこそ、お前を殺したヤツを生かしておくだなんてことはしないかもしれない」
「う……」
兄ちゃんは本当にオレのことを大切に思ってくれているんだ。そのことはすごく嬉しい。だけど兄ちゃんが人殺しになるなんていやだ。兄ちゃんを人殺しにしないためにも、オレはもっと強くならないといけないんだ。
「大丈夫だよ兄ちゃん。オレは殺されたりなんかしないよ」
「そうだね。槍哉は強くなったもんね。でも、あまり僕を心配させないでよ?」
「わかってるって」
「そうか、じゃあ……」
そして兄ちゃんはオレの頭を掴み、顔を思いっきり近づけて、言った。
「『くれぐれも』、僕より先に、死なないでくれよ?」
その目はまた、暗く冷たいものになっていた。
それから。
兄ちゃんはまた何度か涼子ちゃんと通話しているようだった。涼子ちゃんも学校で兄ちゃんの話題をしきりに出していた。だけど当のオレは不安だった。何故かと言うと、あの日から兄ちゃんと涼子ちゃんの様子がおかしくなり始めたからだ。
何かと二人で遊びに行くようになったのはまだいい。だけど兄ちゃんは夜遅くに帰ってくることが珍しくなくなり、母ちゃんに怒られることも多くなった。
涼子ちゃんも今までの大人しそうな性格から打って変わって態度が大きくなり、クラスの他の女子を見下すようになっていた。二言目には、『私は年上の男の人と付き合いがあるから、あんたたちとは違う』と言い、だんだんクラスでの人気も落ちていった。
だけど、オレが不安になっていた最大の理由は、涼子ちゃんの目だ。
涼子ちゃんは他人を見下す度に、暗く冷たい目をしていた。あの目をオレは知っている。『人を殺してみたいか?』と聞いたときの兄ちゃんの目だ。
どういうことだろう、兄ちゃんと涼子ちゃんに何が起こっているのだろう。二人はどうして変わっていってしまったのだろう。オレはまるで得体の知れない『バケモノ』に取り憑かれているかのように変わっていく二人を見ていられなかった。
だけどそんなある日、オレは涼子ちゃんに近所の公園に呼び出された。
「どうしたの? 涼子ちゃん」
「んー? 別にー」
涼子ちゃんは自分からオレを呼び出したのにも関わらず、オレの方を見ないで携帯電話をいじっていた。腹が立つと同時に、変わり果てた彼女を見て悲しくなった。
「あのさ、オレから先に質問していい?」
「なにー?」
「涼子ちゃんと兄ちゃんさ、最近何して遊んでるの? 何か悪い人と関わってない?」
「はあ? そんなわけないじゃん! 香車さんはとっても素敵なんだから! 槍哉とは違うの!」
以前の涼子ちゃんとは比べものにならないほどの乱暴な口調は、オレを納得させるものではなかった。
「はっきり言うよ。最近の涼子ちゃんはおかしいよ。兄ちゃんと付き合い始めたあたりからそうだ。もしかして兄ちゃんに何か悪いこと教えてない?」
「悪いこと? むしろ私と香車さんは逆に素敵なことを話し合ってるんだよ?」
「素敵なこと?」
涼子ちゃんから出たその言葉に、何か悪い予感がした。
「私はクラスのバカどもとは違うの。普通の人には出来ないことが出来るの。香車さんはそれに気づかせてくれた。だから感謝してる」
「兄ちゃんが、何を言ったんだよ?」
「ふふふ……」
涼子ちゃんの目が再び暗く冷たい、あの目になった。オレはあの時の恐怖を思い出し、思わず後ろにさがってしまう。
「槍哉、『安全に人を殺す方法』ってあると思う?」
「え……?」
「私はそれが出来るの。今の私なら安全に人を殺せる。香車さんのために」
「何を言ってるんだよ……一体何を言ってるんだよ!!」
「ねえ槍哉、私と香車さんのために……」
オレが恐怖で涼子ちゃんに背を向けた時だった。
「死んで」
涼子ちゃんの手が、オレの背中を押して道路に突き飛ばしたのは。
「え……?」
気づいたときには、オレの目の前には猛スピードで走っているはずの車がなぜかスローモーションで迫っていた。オレはそれを避けることも出来ずに見ているしかなかった。
そんな、オレは死んじゃうの? 兄ちゃんと約束したのに、死んじゃうの?
そもそも、どうしてこうなったの? どうして涼子ちゃんはこんなことをしたの?
どうして兄ちゃんと涼子ちゃんは変わってしまったの? オレが何かしたの?
それとも、やっぱり『バケモノ』が二人に取り憑いていたの?
だけどオレは何も知ることが出来ないまま……車に潰された。
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