「おっと、これはまずいなあ。黛さん戻ってきちゃったじゃないか」
「ええ、残念ね。私が戻ってこなければ、アンタはエミを殺せたのにね」
黛さんを見た唐沢先生は、言葉に反して特に困っているようには見えない。どちらにしろ、あの人の対処は後だ。
「弓長くん!」
まずは弓長くんの動きを封じる。彼を唐沢先生から引き離せば、新たな『オーダー』は与えられない。
「萱愛! コイツのことは頼んだわよ。私は、あっちに話があるから」
弓長くんを俺に引き渡した黛さんは、唐沢先生に向かっていく。とりあえずこれで柏先輩のことは守り切れた。あとは彼を説得するだけだ。
「弓長くん! 聞こえるか!?」
「ぐ、うう……なんで……僕は……」
「しっかりしろ! 俺はここにいる!」
まだ殴られたダメージはあるだろうが、それ以上に俺の言葉が聞こえてなさそうなのが気になる。いや、唐沢先生の『オーダー』は聞こえていたんだ。耳が聞こえないわけがない。
「波瑠樹、ハルキ、はぁーるーきぃー」
それを裏付けるように、唐沢先生の大声に弓長くんの身体が反応した。
「ダメだよ波瑠樹。言ったろ? ちゃんと役割をこなせって」
「あ、ああ……」
「お前は誰かの『オーダー』に応える存在なんだ。それが出来ないならお前がいる意味はない。お前は誰かの『オーダー』に応えることが出来て、初めて他人との関わりを許されるんだ。そう言っただろ?」
「ぼ、く、は……」
「弓長くん、聞いちゃダメだ!」
「本当のお前なんて、誰も好きじゃないし興味もない」
「……!」
「だからお前は誰かの『オーダー』に応える必要があるんだ。今回で言えば、私のために黛さんを排除してほしいという『オーダー』だ。ちゃんと役割をこなせよ、波瑠樹」
弓長くんの身体が震えだしている。まずい、これはさっきの状態になりつつあるのか? そうなったら俺一人じゃ止められない。
「メイジさん! まだ動けますか!?」
「わかってるよ! そいつ押さえりゃいいんだろ!?」
このまま弓長くんを二人がかりで押さえて、なんとか唐沢先生から引き離すしか……
「あ、が、あああああああああっ!!」
「ぐうあっ!?」
叫びと共に、弓長くんから信じられないほどの力で殴られ、視界が歪んだ。
た、立っている、のか? まだ俺は立てているのか? 気をしっかり持て。ここで俺が彼を止めないと、それこそ誰も救われない。
「おい! 大丈夫か……がっ!?」
「なんで、なんで! 僕は『オーダー』に応えたい! 応え続けることが僕の幸せなんです!」
弓長くんの叫びとメイジさんの苦しそうな声は聞こえる。だけど、自分がどんな状態なのか把握できない。
だ、だめだ……意識が……
「『オーダー』に応え続けてさえいれば僕はこの世界で生きていられるんです! 『オーダー』に応え続けていればみんなが僕の存在を許してくれるんです! そのためだったら僕はなんだって捨てられます!」
……捨てる?
「僕は『オーダー』次第で何にだってなります! そのためだったら昨日まで好きだったものも殺したいほど憎めるし、家族の仇でも恋人のように愛せます! それが出来るのが僕の長所だって、唐沢先生は認めてくれた! だから僕はあの人のために……!」
「ふざけるな」
それだけは、聞き捨てならなかった。それを自覚した瞬間、身体の痛みも意識の混濁も全て吹き飛ばすほどに。
「メイジさん、彼から離れてください」
「はあ!? お前、この状況で……」
「いいから離れてください」
「あ……ああ」
メイジさんが言う通りにしてくれた後、俺は再び弓長くんと向かい合った。
「……何のつもりですか?」
「君の間違いを正す」
「僕の間違い? そんなの関係ありませんよ。間違っていようと何だろうと、『オーダー』に応えることこそが僕の存在理由で幸せなんです」
「いや、それは間違っている。それだけは確信できる」
かつて俺は、自分の考えが絶対的に正しいと妄信したことで、友達を死に追いやってしまった。柏先輩や御神酒先生、閂先輩と出会ったことで、その姿勢がいかに残酷だったのかを思い知った。だから今の俺は、たとえ自分から見て正しい考えでも、他人からしたらそうではない可能性を常に考えている。自分の正しさを押し付けていないかと、常に恐れている。
しかし今の俺でも、弓長くんの今の言葉だけは間違っていると断定できる。
「何かを捨てることが幸せであるはずがない。何かをあっさり捨てられることが、長所であるはずがない」
「なんであなたにそんなことが言い切れるんですか?」
「知っているからだ」
――私はとうの昔に、教師として最低の人間なのだ。
「誰かを救うために、他の誰かを見捨てたことを、最期まで悔んで苦しみ抜いた人を知っているからだ」
今なら俺も、御神酒先生の苦しみが部分的にだが理解できる。
もし俺がもっと早く唐木戸の気持ちを理解していればアイツは死なずに済んだ。
もし俺がもっと早く恐怖に打ち勝って父さんに立ち向かっていれば、識霧さんが父さんを殺すなんて結末にはならなかった。
俺がもっと強く、優れていたのなら、誰も彼も助けられるはずだった。だが現実の俺は強くない。おそらくは御神酒先生も、誰かを見捨てなければならない自分の弱さが苦しかったんだ。
だから……
「誰のためでもない。俺自身のために、弓長くん……君の間違いを正してみせる!」
何かを捨てられることが長所であり幸せなんて考えは絶対に受け入れるわけにはいかない。
「なんでですか? 僕は『オーダー』に応えることが幸せだって……そう言ってるじゃないですか。あなたは僕の幸せを否定するって言うんですか?」
「ああ、否定する。全く譲歩する気もないよ」
「だったら、あなたは僕の敵です! 唐沢先生は僕に『私のために動け』という『オーダー』を与えてくれました! 唐沢先生の考えを否定するあなたは僕の敵です!」
弓長くんがここまではっきりとした怒りの感情を見せてきたのは初めてだ。だからこそ、俺にもわかることがある。
「君の本心がようやく見えてきたよ」
「黙れよ! 『オーダー』が与えられてる以上、僕はお前を恨める! 親の仇のように、絶対に許せない敵として排除できる! そうすれば僕はみんなの幸せのために動けるんだ! みんなの幸せが僕の幸せだ!」
「だったら言ってやる、弓長波瑠樹! 『オーダー』だ!」
「なに!?」
「自分が萱愛小霧に何をしてほしいのかを言ってみろ!」
「……!?」
彼は今まで、あらゆるものを捨ててきたと言った。自分が何を好きで何を嫌いなのかという価値観も、周囲のあらゆる人間との関係すら捨ててきたのかもしれない。全ては誰かの『オーダー』に応えるために。
だが、そもそも彼はなぜそうまでして誰かの『オーダー』に応えなければならなかったのか。
それは、自分が何を望んでいるのかを彼自身もはっきりと理解できずにもがいていたんじゃないだろうか。
彼は初めて会った時から、誰かの『オーダー』に応えるという形でしか他人と関わっていなかった。だから唐沢先生にそれを利用されて、他人の『オーダー』こそが自分の望みだと思い込まされていた。『オーダー』のためなら何もかもを捨てられるのを自分の幸せだと思うしかなかった。
だから彼は間違っていると証明しなければならない。
「あ、あれ……僕が、萱愛小霧に、何をしてほしい……?」
誰かの『オーダー』に応え続けても、自分の望みなど見つからないと。
「どうした弓長くん。俺は君に『オーダー』を与えた。他人の望みに応えることが幸せだと言うなら、俺の望みに応えてみろ!」
「ち、ちがう、そんなの、『オーダー』じゃない。違う『オーダー』を、違う『オーダー』をください……」
「ダメだ。何としても応えてみろ。君は俺に何をしてほしいんだ。それを言えないなら、君の在り方は間違っている」
「い、いや、僕は、誰かの、『オーダー』に……」
「君は気づいていないかもしれないが、俺は既に気づいてるよ」
彼は俺の望みに応えられてなどいない。出会った時からずっと。
「俺の言う通りに、オーダーメイドで合わせてくれる後輩なんて、現れるわけがない」
「が、あ、ちが、僕は……僕は、萱愛先輩に……」
頭を抱えながらフラフラと歩み寄ってくる弓長くんの顔は既に俺の理想とは違い、苦しみに歪んでいる。俺は彼を助けたかったが、今の彼は苦しんでいる。俺の行動によって、苦しんでいる。
たぶん、彼の中では答えが出始めている。その答えが、彼の苦しみになっている。しかしそれを俺が指摘してはいけない。彼自身の口から言わせるんだ。
「いやだ、いやだ、僕は……唐沢先生のために……黛さんのために……萱愛先輩のために……」
「誰かのためじゃない。君がしてほしいことはなんだ?」
「あ、あ、ああああ……」
既に限界を迎え、グルグルと黒目が動いていた両目から涙が溢れ始める。
そしてその視線が俺に向き、彼の口からかすれた声が出た。
「たすけて……」
その瞬間。
弓長波瑠樹の身体は、重力に従うように倒れ始める。
「よく言った」
地面に倒れる前に支え、俺と弓長波瑠樹の戦いは決着した。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!