恵美嬢と出会った翌日。アタシは高揚した気分のまま、教室に入った。
「やあ、おはよう、沢渡くん」
そこには、なぜかアタシの横の席に座る恵美嬢がいた。隣のクラスの恵美嬢がここにいる理由はひとつ。アタシを待っていたのだろう。
「ヒャハハ、おはよっ、恵美嬢」
それを感じ取ると、自然と笑い声を出していた。恵美嬢といれば、アタシの『絶頂期』が近づく。ダラダラとした日常を過ごさずに済む。それだけで、アタシの機嫌はよくなった。
「そういやさ、ひとつ聞きたかったんだけどさ、恵美嬢の言う『絶望』ってのは、どんなものを指すんだい?」
「ほう、興味があるかね?」
「ヒャハッ、そりゃねえ。絶望を与えられたいなんて本気で言ってる人間を初めて見たからねえ」
アタシとしては、恵美嬢がどうして『絶望』を求めているのかなんてことには興味はない。だけど、求めている『絶望』が、果たしてどんな状況を指しているのかは興味あった。
「では、沢渡くん。ひとつ聞くが、『希望』が人を救うと思うかね?」
「いや、思わないよ」
即答だった。その理由は決まっている。華さんが『努力すればいつか報われる』という『希望』に縋って生きたことで、結局は苦しみ抜いたまま死んだ光景を見たからだ。何の根拠もない、あるかどうかもわからない『希望』のせいで、華さんは報われずに死んだからだ。その光景を見たアタシには、『希望』がいいものだとは思えなかった。
「ふむ、いい答えだ。私も同感だよ。ほんの僅かな希望に縋るのは悲しい。それならば、全く容赦の無い『絶望』に浸ることこそが私にとっての救いになる。そう思っているのだよ」
「つまり、恵美嬢にとっての『絶望』は、『希望』が全くない状態のことを指すのかい?」
「そうとも言えるね。どんなに手を尽くしても、どんなに足掻いても、全く助かる見込みがないような状況……おそらくはそれが、私の求める『絶望』の形だよ」
そう語る恵美嬢の顔は、悦びに満ちていた。自分が助からない状況の話をしているにも関わらず、その顔は心の奥底からの幸福を感じていた。
もしかしたら、恵美嬢はアタシと似ているのかもしれない。アタシも恵美嬢も、人生単位での『幸福』を求めているわけじゃなく、その瞬間における『幸福』を求めている。それをアタシは『絶頂期』と呼んでいて、恵美嬢は『絶望』と呼んでいるだけの違いなのかもしれない。
「じゃあさ、恵美嬢は例えば車の前に飛び出したりとか、そういうことをしたいのかい?」
「いや、そうではないよ。私が求めているのは、あくまで他者から与えられる『絶望』だ。つまり、私に対して明確な意思をもって『絶望』を与える人間が存在するのが望ましい」
「『絶望』を与える人間?」
「そうだね……仮に私が誰かに容赦なく蹂躙されることを求める『獲物』だとするならば、それと相反する存在、『狩る側の存在』とでも呼ぼうか」
「つまり、誰かを蹂躙することを求める人間ってことかい? そんなヤツなら、いくらでもいそうなもんだけどねえ」
例えばアタシの父親なんかは、今でも華さんの残した遺産で遊び呆けている。アイツも言ってしまえば、華さんを蹂躙して生きているようなもんだ。
「いや、それがそうでもないのだよ。私が求める存在は、『獲物に一切の逃げ道を許さず、完膚なきまでに蹂躙する』という行為に悦びを感じ、それを成し遂げられる者だ。ただ相手を蹂躙するだけでは足りない」
「なるほどね。確かにそんなヤツは滅多にいなさそうだ」
よくよく考えてみれば、特定の誰かを完膚なきまでの『絶望』にたたき落とせる人間なんて限られている。それにさっきから話していると、たぶん恵美嬢は割と頭の回るタイプに見える。恵美嬢があらゆる手を尽くしても逃げることができない相手なんてそうそういないのかもしれない。
「さて、私の話は一段落ついたとして……次は君について聞きたいね。沢渡くん」
「ヒャハハ、アタシについてかい? あいにくだけど、恵美嬢が聞いてもあんまり面白くないだろうけどねえ」
「そうは思わないよ。君とは気が合いそうだからね。君が何を求めて私に接触したのか興味がある」
「そうかい。じゃあ、話してあげるよ」
そしてアタシは、恵美嬢に一通りの身の上を話した。
母親である華さんが既に死んでいること。
華さんのように後悔するような生き方をしないために、『絶頂期』を求めていること。
そして、『絶頂期』を迎えられるのなら、次の瞬間に死んでもいいというアタシの思いを話した。
「なるほど、『絶頂期』か。君が求めるものは、そう呼ばれるものなのか」
「ヒャハハ、そうだよ。恵美嬢に関わったのもそれが理由さね」
「しかし、君は『生きていてよかった』と思える瞬間をそう呼んでいるのだろう? 私と関わっても、その瞬間が訪れるとは思えないが?」
「アタシとしちゃ、今のこの瞬間を楽しみたいのさ。それがアタシにとっては『生きていてよかった』と思うことに繋がる。恵美嬢がいれば、アタシの今が盛り上がる。それでいいのさ」
「なるほどね。それが君の目的というわけか」
恵美嬢は口では納得したように呟いたけど、その表情は何かを考えているようなものだった。
「なんだい? アタシはウソは言ってないよ」
「ああ、そこに関しては疑っていない。しかし私の中でひとつ引っかかることがあってね。その……君の母上についてだ」
「華さんについて? 何が引っかかるって言うんだい?」
「君の母上は、『真面目に努力すればいつか報われる』という持論を持っていたようだが……それは、彼女が自分で辿り着いた持論なのだろうか?」
「え?」
そんなこと、考えたこともなかった。アタシとしちゃ、華さんが生きていく上で自然と辿り着いた持論なのだと思っていた。
「実はだね、君の母上に非常に近い考えを持つ男を知っていてね。その男が君の母上に何かを吹き込んだのではないかと思ってしまったのだよ」
「華さんに近い考え? つまり、そいつも『頑張ってればいつか報われる』って考えてるのかい?」
「そうだね。その男の口癖は、『この世には希望が満ちあふれている。生きてさえいれば何かいいことがある』というものだからね。近いと言っていいだろう」
そういいながら、恵美嬢はどこか不愉快そうに顔をしかめていた。見た感じ、恵美嬢はその男をそんなに好きじゃなさそうだ。
「話を聞いてると、そいつの考え方って恵美嬢とは真逆だね」
「その通りだよ。だから私としては彼と縁を切りたいのだが……なかなかそうはいかなくてね」
「ヒャハハ、自由気ままに生きてそうなアンタにも、しがらみってのがあるのかい?」
「自由気まま、か。『獲物』である私としては、むしろ行動を制限されるのは望むところなのだがね。どうもあの男の件に関してはそう思えないようだ」
「ちなみに、その男ってのは一体どんなヤツなんだい?」
「ああ、それは……」
「あーあーあー、かーしわさん? このクラスにいたんだねえ」
アタシと恵美嬢の会話に割り込むようにして、突然間延びした声が教室内に響いた。顔を向けると、声の主は教室の入り口に立っている、小柄の男だった。
「ちょーっと、失礼しますよ。あーあーあー、柏さん。元気そうで、なによりだねえ」
男は生徒たちの視線を気にせず、ズカズカと教室に入ってきて、恵美嬢とアタシの横に立つ。黒い短髪と水色のシャツが醸し出す清潔感と、どこか緊張感のない口調とでちぐはぐ感がある、不思議な男だった。
「……なぜ君がここにいるのかね?」
一方の恵美嬢は、男に対する嫌悪感を隠そうともせずに、ため息をつきながら質問した。
「なーんでここにいるかって? それはねえ、ボクが柏さんに会いに来たからだよー」
「そうか。ならば帰ってくれたまえ。君に会うのは病院だけで十分だ」
「あーいかわらず、冷たいねえ。まあ本当は、ボクがここに来たのは講演を頼まれたからだけどね」
間延びした口調で小さく笑う男は、恵美嬢を覗き込んだ後、アタシに目を向ける。
「あーれ? 君は柏さんのお友達、かなあ? いいねいいね。柏さんも、『希望』を持って、生きてみる気になったみたいだね」
そう言ってアタシを無遠慮に評価するのが妙にムカついたので、立ち上がって男を睨み付けた。
「オッサン、いきなり現れて自己紹介もなしにベラベラと喋ってるけど、ケンカ売ってるってことでいいのかい?」
「あーあーあー! わーかい子は血気盛んだねえ。ごめんごめん、ボクはその子の知り合いなんだ」
「ああ?」
「ボクの名前は空木晴天。柏さんの担当医だよー」
そう言いながら尚もヘラヘラと笑うそいつの姿は、どう見ても恵美嬢を救おうとしているようには見えなかった。
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