柳端が沢渡の相手を引き受けたのはどうやら本気だったようだ。その証拠に柳端に背後から襲われることもなく、私はエミたちを追うことができた。
エミを連れ出した灰色の長髪の男――空木と呼ばれていた男は、館の奥へ入っていった。仮にその奥に車か何かを用意されていたらまずい。その前に空木を確保しなければならない。
しかし、樫添さんがこの館に来た様子はない。『死体同盟』にあと何人仲間が存在するかもわからない。最悪の場合、私一人で複数の相手に立ち向かわなければならない。
だけど私に『立ち向かわない』という選択肢はない。そんなものはエミの願望を潰した時に同時に捨てておかなければならない。エミを守り、同時に私も多数の人間を相手取り、生き残らなければならない。 空木を追って館を進んだ先には、中庭に出るドアがあった。どうやらここから外に出たようだ。迷わずドアを開け、中庭に足を踏み入れる。
しかしその直後、何か先端の尖った細い物が、私の眼前を通り過ぎていった。
「……っ!」
咄嗟に後ろに飛び退いたのが幸いだった。もしそうしていなかったら、私の頭にその何かが刺さっていたかもしれない。改めて前を見ると、左手に万年筆のようなペンを持った空木がこちらを伺っていた。
「お見事です、黛瑠璃子さん」
空木はそう言うと、数歩下がって中庭の真ん中に立つ。そしてその後ろには、杖を持ったパンツスーツの女と、まだ中学生に見える女子。そしてその二人に捕まっているエミがいた。
「エミ!」
彼女の姿を確認しながらも、今度は慎重に中庭に入る。まだ仲間が控えている可能性は捨ててはいけない。
「ご心配なさらずとも、もう先ほどの不意打ちのようなマネは致しませんよ」
「そういうセリフは、最初から不意打ちしないヤツが言うことね」
空木への警戒はそのままに、状況を確認する。
今、私が立っているのは館の出口近く。空木は中庭のほぼ中心に立ち、私の反対側の塀のそばに空木の仲間らしき二人の女と、そいつらに捕まっているエミが立っている。
周囲を見回すと、勝手口らしきドアは私から見て左横の塀に存在した。エミたちの側に出入り口らしきものはない。つまりこの位置にいれば、エミを連れ出される心配はないということだ。
「私たちが、柏様を連れて逃げることを心配なさっているようですね」
「当然でしょ。そもそもアンタたちはエミを連れ去っているんだから」
「ふむ……ですが状況は私たちに不利と言わざるを得ませんね。この通りケガをしているものでして」
見ると、空木は右手に包帯を巻いている。しかも僅かに血がにじんでいた。どうやらまだ新しいケガのようだ。
なんでそんなケガをしているかなんて、私には関係ない。アイツが右利きであるとしたら、利き腕を使えない状態で私に致命傷を負わせられるとは思えない。
そこまで考えて、エミの傍にいる二人の女を見る。一人は杖を持っているから、歩行に難があるのかもしれない。それにもう一人は見るからに中学生だ。この二人が車に乗ってエミを連れ去れるとは考えにくい。
つまり空木さえ押さえてしまえば、エミは取り戻せる。
「アンタたちに不利だとわかってるなら、大人しくエミをこちらに渡してくれるかしら? 今なら警察沙汰にはしないであげるけど?」
というより、警察に通報したところで空木たちが逮捕されるかどうかはわからない。エミは自分が連れ去られたなどとは言わないだろうし、友人の家を訪れていたと言い張ればそれで終わりだ。
つまりエミを守り、空木たちを叩きのめすのはこの私しかいない。
「ふむ……黛瑠璃子さん。一応申し上げますが、私どもは柏恵美様に危害を加えるつもりはありません。柏様の境地に……死を肯定的なものと捉える観点に導いていただきたいと考えているだけなのです」
「死を肯定的に、ね。確かにエミはそう考えてるんでしょう。アンタがそれに憧れるのは自由よ。でもね……」
たとえ『死体同盟』が、エミを殺すために動いているのではなかったとしても、無視できないことがある。
「アンタの仲間に、『柏恵美は黛瑠璃子の支配下にあります。誘いたいならまずは黛瑠璃子を殺してからにしてください』とは忠告したわ。それを聞いてもなお、アンタたちはエミを連れ去った。それをした時点で、『死体同盟』は明確に私の敵なのよ」
空木は本当にエミに憧れ、彼女と同じ思想を持ちたいのかもしれない。だとしても、私に黙ってエミを連れ去ったことは許さないし、それが出来ないのであれば、コイツらをエミに近づけるわけにはいかない。
二度とエミに手を出そうとなんて考えられないくらいに、徹底的に叩きつぶす必要がある。
「……なるほど、承知しました。やはりあなたに私たちのことはご理解いただけないようですね」
「当然でしょ。そもそも『死体同盟』なんて名乗ってるヤツらにエミを近づけたくないし」
「ですが、私にも譲れないものがあります。柏様を私どもの盟主に据えることもその一つです。わかっていただけないのであれば……」
そして空木は、左手のペンを私に向ける。
「戦いは、避けられませんね」
その言葉が合図だった。
すぐさま右手にスタンガンを構え、左手はもしもの時のために空けておく。催涙スプレーはポケットの中だ。いつでも噴射できるようにはしているが、顔に当てられなければ意味が無い。
さっきの動きを見る限り、空木は戦いに慣れている。しかも明確に相手を傷つけることに躊躇いを持たないタイプだ。そういう手合いが一番危険なのはもうわかっている。
その証拠に、空木は瞬時に私との距離を詰めて、左手のペンを突き出してきた。
……大丈夫だ。やはりコイツの左腕は利き腕じゃない。狙いはわずかに逸れている。大振りのナイフならまだしも、単なるペンなら肌の露出している部分さえガードすれば防げる。
突き出されたペンを右手のスタンガンでガードし、左足で蹴りを繰り出す。空木の体勢を少しでも崩せれば良い。そう思っていた。
「っ!?」
だけど空木は、ケガをしているはずの右手で私の首を掴んだ。
「ぐ、うっ!」
強い力で首が絞められ、呼吸がままならなくなっていく。まずい、このままだと意識が飛んでしまう。どうにかこの手を振りほどかないと。
スタンガンを使うことも考えたが、首を掴まれている状態では私まで感電する可能性もある。だから催涙スプレーを構えた。
「なるほど、そう来ましたか」
しかし空木は私がスプレーを構えたのを見ると、あっさり右手を放して私から距離を取った。その間に呼吸を整える。
「……どういう、つもり? 随分とあっさり退いてくれたじゃない」
「私にとって柏様を盟主に据えることは悲願ですが、あなたを殺したいわけではございませんので」
「その悲願というのもよくわからないわね。アンタはどうしてそこまでエミにこだわるの?」
今まで、エミを殺そうとしてきたヤツとは何人も会った。『成香』や陽泉、そして……棗香車。あらゆる人間に、エミは狙われてきた。
だけど空木は違う。コイツはエミを『死体同盟』のトップに据えたがっている。エミを殺すのではなく、自分たちを導く存在として迎え入れようとしている。それがわからない。
そう思っていると、エミを捕らえていた中学生らしき女が空木に詰め寄った。
「空木さん! もうやめましょうよ。私、こんな誘拐みたいなことをするんだったら、『死体同盟』から抜けます!」
「おや、どうなさいましたか、湯川さん? あなたも生きづらさを感じていたのではないのですか?」
「そうですけど! なんでここまでしてあんな人を迎え入れないといけないんですか!? 別に今のままでよかったじゃないですか! 『生きづらさ』を感じている人たちが集まっている場所でよかったじゃないですか! なんでこんなことしなきゃいけないんですか!?」
「……」
湯川と呼ばれた女の質問には答えず、空木は黙ってこちらに向き直る。どうやらまだ戦いは終わりそうにない。そう思っていた。
「君が私を迎え入れたい理由は、君の兄上にに関係があるのではないかね? 空木曇天くん」
しかし突然、エミが口を開いたことで空木の動きが止まった。いや、止まっただけじゃない。目を見開いて、何かに怯えるように顔を引きつらせている。
「ふむ、やはり図星か。君の兄上……空木晴天は実につまらない男だよ。君はそんなつまらない男のために、身体を張っているのかね?」
「……おやめください、柏様。兄は、兄は関係ないと申し上げたはずです。これは全て、私の意思です」
「そうだろうか? 君の兄上は私にこう言ったよ。『何が何でも生きることへの執着を捨てないでくれ』とね。ああ、実につまらない。本当につまらない。そんなつまらない男のために、私を巻き込むのは……」
そしてエミは見たことのない表情を作る。
「正直、迷惑なのだがね」
その表情は、明らかに空木を侮蔑していた。
「……あ、あああ」
エミに突き放された空木は、身体を震わせて両手を顔に当てる。何かをブツブツ呟きながら、歯をカチカチと鳴らす。
何が起こっているのか。だけどこれはチャンスだ、今のうちにエミを確保してしまえば……
「あああああああ!!」
しかし突然、空木は叫びだしたかと思うと、エミの目の前にうずくまり、その頭を地面に擦りつけ……土下座した。
「申し訳ありません! 柏様にご迷惑をおかけしているとは……そういうつもりではなかったのです! 私は、私はただ、あなたに私を救っていただきたかっただけなのです!」
「ふむ。本当に申し訳ないと思うのであれば、私を迎え入れる理由をもっと具体的に話してくれないかね。どういう理由でもルリは納得しないだろうが、私は知っておきたいのでね」
「そ、それは……」
空木は尚も口ごもるが、その間に私はエミに近づいた。
「エミ、今のうちに帰るわよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。空木さん! この子渡しちゃっていいの!?」
杖を持った女がエミから離れて空木に近寄るが、まだ立ち上がる様子はない。
「待ってくれるかな、ルリ。私は彼の理由を聞いてからにしたい」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 早くここから離れ……」
「ルリ、お願いだ」
「……!」
エミは真剣な目で私に訴えかけた。私を『ルリ』と呼ぶようになってから、こんなに頑なに自分の願いを主張したのは初めてかもしれない。
そんな目をされたら、私が断れるはずもない。
「……わかった。でも、私の後ろにいてね」
「感謝するよ」
そしてエミは、空木に改めて問いかける。
「さて、聞かせてもらおうか、空木くん。君が私を迎え入れようとする理由はなにか。つまらない理由なら、私はすぐにここから出て行きたいのだが」
エミの言葉を聞いた空木は、ようやく頭を上げる。その顔は僅かな希望に縋り付こうとするような必死な顔だった。
「……私が『死体同盟』を創設した理由も、盟主にあなたを据えたい理由も、全ては……」
空木は意を決したように言葉を出す。
「兄から、あなたを守るためです」
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