俺は柳端との会話の後、あふれ出す感情を抑えきれずにしばらく泣いていた。柳端もそれを黙って見守ってくれていた。
しばらくして俺の心が落ち着いたのを見計らって、柳端が声をかけてきた。
「萱愛、今日のところはもう帰れ。教師には俺から言っておく。今のお前はまともに授業を受けるどころじゃないだろう」
「ああ、ありがとう」
「……しかし、家には陽泉がいるのか。そうなると、家に帰るよりかは図書館にでもいた方がいいかもな」
「いや、家に帰るよ。俺も、もう一度陽泉さんと話し合いたい」
「そうか。だが、気をつけろよ。俺にはあの男がまともに話の通じる人間には見えない。お前には悪いがな」
「……それでも、陽泉さんは」
「わかってる。それでもお前の父親なら、きっちり話をつけてこい」
「……ありがとう」
柳端に送り出された俺は、自宅に帰り、陽泉さんと話をすることにした。
話したいことは山ほどある。俺が昔の俺とは違うこと、柳端を殴ったことを謝って欲しいということ、そして……
今の俺には、閂香奈芽という、大切な人がいること。
いきなりそれら全てを打ち明けても、陽泉さんは受け入れてくれないかもしれない。また陽泉さんを怒らせてしまうかもしれない。
そこまで考えて、俺の頭に『あの時』の光景が蘇る。
――大丈夫だよ、小霧くん。大丈夫。僕が絶対に君を守るから。
『あの時』、陽泉さんは確かにそう言った。俺に向かってそう言った。その言葉に嘘偽りはないのだろうし、父親が息子に言う言葉としては、最高のものだと思う。
だけど、『あの時』の俺は確かに思ってしまった。陽泉さんを、『恐ろしい』と。そしてそれは、今の俺も同じだ。
俺はまだ、陽泉さんを恐れている。あの人が人を殺してしまったから? 確かにそれもあるかもしれない。
だけど俺は、それ以上に……
気づいたら、俺は自宅の前に着いていた。考え込むあまり、周りの景色すら見えてなかったようだ。
陽泉さんはまだ定職についていない。日雇いでアルバイトをしているとは言っていたが、今日は一日家にいるとも言っていた。
……緊張する心を落ち着かせながら、ドアノブに手をかけた時だった。中から何か騒ぐような声が聞こえる。
「誰か来てるのか?」
不思議に思い、ドアを開けて中に入ってみる。どうやら声は廊下の奥、リビングから聞こえてくるようだ。
「ま、黛センパイ、ちょっと落ち着いて……」
その声に耳を疑った。今の声は樫添先輩のものだ。
更には黛さんの名前まで出てきた。それに驚いたのも束の間、今度は何かが壁にぶつかるような音が聞こえてきた。
ただ事ではない何かが起こっていると直感した俺は、リビングのドアを開ける。
リビングの中では、まさに一触即発といった様子の黛さんと陽泉さんが向かい合っていた。
「ちょ、ちょっと、何やってるんですか!?」
思わず叫んでしまったが、俺の声を聞いたからか、二人は怒りを収めてこちらを見てくる。陽泉さんは俺の顔を見て、先ほどとはうってかわって優しげな表情になる。
「ああ、小霧くん。ごめんね、ちょっと熱くなっちゃった。帰ってきてたんだね」
「い、いやその、陽泉さん!? これはどういうことですか?」
「んー? こちらのお客さん方がねえ、ちょっと失礼な物言いをするから、僕も少し腹が立ってしまってねえ。ごめんごめん、大人げなかったね」
陽泉さんが指し示した先には、左手にスタンガンを持った黛さんに、その後ろで中腰になっていた樫添先輩、そして……樫添先輩に庇われる形で閂先輩が座っていた。
「閂先輩、これはどういうことですか!?」
閂先輩は先日、陽泉さんに出会っている。しかし黛さんと樫添先輩は陽泉さんのことを知らないはずだ。だから黛さんたちがここにいるということは、閂先輩が呼び寄せたということになる。だから俺は、閂先輩に問いただした。
「ひひ……どうやら、いいタイミングで帰ってきて下さったようですね、萱愛氏……」
「説明して下さい。これはどういうことですか?」
「……私たちは、そこにいる陽泉氏に襲われかけた。そういうことですよ」
「え!?」
閂先輩は陽泉さんを指さすが、陽泉さんは首を振って否定した。
「ちょっとちょっと、困るなあそんな嘘を言うのは。小霧くん、僕が彼女たちを襲うわけないだろう?」
「ひひひ……嘘を言っているのは陽泉氏の方ですよ……私たちは危うく陽泉氏に殺されてもおかしくありませんでした……」
「ま、待って下さい!」
閂先輩と陽泉さんが別々の説明をするので、頭が混乱してしまう。とにかく状況を整理したい。
「とりあえず、皆さん落ち着いて下さい。そもそもなんで閂先輩たちが俺の自宅にいるんですか?」
「……私と樫添さんは、閂に頼まれただけよ。陽泉という男が危険かどうかを見極めて欲しいってね」
「危険って、ひどいなあ。僕はただの妻子持ちのおっさんだよ?」
「先日、柳端氏を殴ったことをお忘れなのですか?」
「ヤナギバタ? ええと、それは誰だったかな?」
陽泉さんが考え込む仕草をするが、それが余計に黛さんたちの警戒心を強めたようだ。とにかく俺はこの状況を収めるために動いた。
「陽泉さん! あの! ちょっと閂先輩たちを送っていきます!」
「え、彼女たちを送っていく?」
「は、はい。とりあえずその、閂先輩たちも用事が済んだみたいなので……」
まずは陽泉さんと閂先輩たちを引き離すことが先決だ。そうじゃないと本当に閂先輩が傷ついてしまうかもしれない。
「それはダメだよ」
しかし俺の提案は、陽泉さんに却下された。
「え……?」
「彼女たちが小霧くんに何かよくないことをしそうなんだよねえ。さっきの僕への言動もそうだし、ちょっとそんな人たちと小霧くんを一緒にはさせられないなあ」
「ひひ、私たちが萱愛氏に何か危害を加えるとお思いで?」
「うん。僕はそう思ってるよ」
……だめだ、このままだと陽泉さんは引き下がらない。だったら。
「じゃあ、閂先輩。とりあえずこの場は帰ってもらってもいいですか?」
「……私としては、陽泉氏とあなたが同居しているという状況そのものがかなり危険だと思うのですが?」
「ほら小霧くん。彼女はすごい失礼だろう? 家族が同居することすら許さないような人に、息子を任せるなんてこと、父親としてはできないなあ」
どこまでも会話は平行線だ。
「閂先輩! お願いします、この場は引き下がってください!」
「……」
「大丈夫ですから! 俺は、大丈夫ですから!」
「……わかりました。その言葉、信じましょう」
閂先輩は黛さんと樫添先輩に目配せする。二人もそれに応じて、玄関へと向かった。
だが閂先輩は、玄関で靴を履きながら俺に向き直った。
「ですが萱愛氏、いつかは選んで頂きたいものですね」
「え?」
「……私と陽泉氏、どちらを選ぶのか、ですよ」
「……!」
そうだ、俺は以前、閂先輩にこう言われた。
『……私のことを、優先してほしいのです』
俺は閂先輩を『大切な人』として選んだはずだ。その選択を、忘れてはならない。
「それでは萱愛氏、またお会いしましょう」
そう言って、閂先輩たちは帰って行った。
数分後。
「さて、小霧くん。ちょっとお話しようか」
リビングの片付けを済ました俺と陽泉さんは、テーブルに向かい合って話をすることになった。
「まず僕が言いたいのは、小霧くんはちょっとお友達を選んで欲しいってことだよね」
「……」
「真面目な小霧くんのことだから、お友達も真面目なんだとばかり思ってたけど、そうでもないみたいだからさ。ああいう人たちと付き合っているのは、ちょっと僕は不安だなあ」
「……あの」
陽泉さんはこう言いたいのだろう。閂先輩たちとの関係を切ってくれと。
俺も一度はそう考えた。閂先輩や柳端の安全を考えるなら、もう先輩たちには会わない方がいいのではないかと。
だけど先ほどの閂先輩の言葉を考える。俺は本当にどちらかを選ばなければならないのだろうか? 閂先輩のことを、陽泉さんに認めてもらうのは、本当に不可能なのだろうか?
今こそ言わなければならない。俺には家族以外に『大切な人』がいると。閂香奈芽という女性を、『大切な人』として選んだのだと。
「実はその、俺には……」
「ああ、そういえば、さっきの長い髪の女の子がおかしなこと言ってたね」
「え?」
「確か、『自分が小霧くんの彼女だ』とかなんとか。そんなわけないのにねえ」
「え? あの、その……」
そう言いながら陽泉さんは、そばにあった置き時計を掴む。
「あんな女の子が小霧くんの彼女なわけないけど、もしそんなことがあるなら……」
陽泉さんの右手に力がこめられ、置き時計はミシミシと音を立てる。
「僕が小霧くんを守らないとね」
俺に微笑みかける陽泉さんの手で、置き時計はグシャリと変形していた。
「……ありがとうございます」
それを見た俺の心は、簡単に恐怖に屈してしまった。
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