【7月30日 午後0時18分】
「くっ!?」
唐沢に飛び掛かる女性。その姿は私が想定した通りの人物だった。
「大柄で口髭の男……唐沢清一郎で間違いないわね?」
「そういうあなたは……」
「妹を、朝飛をどうしたのか答えてもらうわよ」
涼しい顔をしていても、夕飛さんの声には確かな怒りが含まれていた。
「黛センパイ! こっちです!」
「樫添さん!」
「言われた通り、夕飛さんにも状況を伝えましたよ」
先ほどビルから脱出して樫添さんにメッセージを送った際に、夕飛さんにも状況を伝えるように頼んでいてよかった。
「あれ、もしかしてあなたが朝飛さんのお姉さんですか? 大好きなお姉ちゃんだってよく聞いてましたよ」
「それがわかってるなら、今の私がどういう気持ちかわかってるわよね?」
「ええわかりますよ、私が嫌いで嫌いで仕方ないんですよねえ!?」
楢崎が歓喜に顔を歪めながら夕飛さんに向かっていくが、その手が寸前で止められた。
「申し訳ありませんが、当団体のメンバーに危害を加えるのはご遠慮いただきたいですね」
「あれえ? あなた……空木曇天さん?」
「ご存知でしたか。でしたら、私が柏様を解放するために動いていることもおわかりですね?」
曇天さんたちが唐沢たちを止めてくれている。それを確認した樫添さんはエミの姿をした『斧寺霧人』に向かっていた。
「柏ちゃん、逃げるよ!」
「どうやら予想外の援軍が来てしまったようだね」
「!? 柏ちゃん、記憶が戻って……?」
「……あ、樫添さん! 今のそいつはエミじゃな……」
『エミじゃない』と説明する前に、樫添さんの手は空を切り、代わりに『斧寺霧人』によってひねり上げられていた。
「あっ! ぐううっ!?」
「残念だが、君の助力は必要ないのだよ。樫添保奈美くん。『この子』に必要なのは圧倒的な力による『絶望』だ」
「なに言って……!」
「アキヒト。彼女のことはどうにかできそうかね? 私としてはこれ以上邪魔が入る前に早めに済ませたいのだが」
「霧人先生……」
『斧寺霧人』の言葉に唐沢は再度顔をしかめる。どちらにしろ、今の私は自由に動ける状態だ。既に身体は限界だけど、頭を働かせるくらいはできる。
考えろ、考えろ。警察はダメだ、エミの姿をした『斧寺霧人』に嘘の証言をされるかもしれない。今、この瞬間にエミを取り戻さないと本当にエミは殺されてしまう。
突き崩すとしたら……
「唐沢! アンタもわかってるんじゃないの!? 斧寺霧人って男の理想は、アンタの願いとは違うってことに!」
「っ!?」
思っていた通りだ、今の唐沢は迷っている。実際の斧寺霧人がどんな人間だったのかは知らないけど、今の『斧寺霧人』と非常に近いのなら、唐沢は『斧寺霧人』に裏切られた形になる。
「コイツはアンタを救いたいって言いながら、アンタの手で自分を殺させようとしている! それがどんなに残酷で、アンタを傷つけることかを、何も理解していない! こんなヤツがアンタを救えるはずがないって、わかってるんじゃないの!?」
「黙れ! 霧人先生は私を救ってくれたんだ! 今までも! そして、これからも……!」
「その『これから』を潰そうとしているのは他でもないアイツなのよ!?」
「バカを言うな! 霧人先生がいなければ、私はありもしない『希望』を追い続けていた!」
「じゃあ今のアンタもそうじゃない」
「なんだと?」
「『斧寺霧人』がまだ自分を助けてくれる。そんなありもしない『希望』に縋ってるのが今のアンタよ」
「……!!」
唐沢の動きが止まったのを夕飛さんは見逃さなかった。
「くっ!」
「こんなんで動揺するくらいなら、初めから朝飛を巻き込まないで頂戴」
「ぐあっ! く、くそっ!」
夕飛さんは唐沢をうつぶせに地面に倒し、その上に乗って両膝で両肩を押さえつけた。
「唐沢先生!?」
「よそ見とは余裕ですね」
「あっ!?」
曇天さんも楢崎を壁に押し付けて動きを封じた。これで……!
「残念ね、『斧寺霧人』。アンタがどんなに策を練ろうが、どんなにエミを『絶望』で救いたいと考えていようが、この私がいる限り、それは叶わない」
「……ふむ」
しかし唐沢たちが制圧されても、『斧寺霧人』の表情は崩れなかった。
「なるほどね。確かに大したものだよ、黛瑠璃子くん。4年前に出会ってからずっと君を見ていたが、君の柏恵美に対する執着には並々ならぬものがある」
「わかったらさっさとエミから出て行ってもらえる?」
「先ほどの言葉を忘れたのかね? 『柏恵美』と『斧寺霧人』は別々の存在というわけではない。君と今話している“私”は、正真正銘、柏恵美本人なのだよ」
「違う! アンタがエミなわけがない! エミは私を……!」
エミは私を支配者として認めた。
――私は君に未来永劫支配されることを誓おう。
自分の新たな『絶望』を、自分の心を満たすものを、私に守られることだと決めてくれたんだ。
――だから、これからも私の『希望』を潰しておくれ。
だからエミは、私のことを……
――最も恐ろしく、最も頼もしい……
「『支配者』って呼ぶんだ!」
だからお前は、私が叩き潰すべき敵だ。エミ自身がそれを忘れているなら、もう一度思い知らせるまで。
「……いいだろう、君の挑戦を受けようではないか」
「あぐっ!?」
『斧寺霧人』は樫添さんを解放して私に近づき顔を寄せる。エミの顔をこんなに間近で見たのは久しぶりかもしれないけど、その顔はやっぱりエミのものじゃない。
「『柏恵美』は思い出してしまったのだよ、幼い頃の自分が包まれていた『絶望』を。そして、幼い頃の自分が何を求めていたのかを。だから今の自分を消して、“私”を呼び出した」
「何言って……」
「『柏恵美』を助けたいのなら、君にも伝えてあげよう。『柏恵美』という人間の正体を。その上で尚もこの“私”を消す道を選べるなら……」
『斧寺霧人』はエミの額を私の額にぶつける。
「君の勝利だ」
その言葉の直後、私の意識が急速に現実から切り離された。
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