土曜日の午後。俺は突然の電話を受け、わざわざM高近くの喫茶店に行く羽目になった。しかも俺を呼び出したのは、仲のいい友人というわけでもない人間だった。
「ひひ、ご足労頂きありがとうございます、柳端氏……」
休日にこんな不気味な女と会わなければならないというのも気が重かったが、閂がなぜ俺を呼び出したのかは察しがついたため、俺も素直に応じたのだ。
適当にココアを頼み、閂の向かいの席に座ると、俺は話を切り出した。
「さっさと本題に入れ。俺を呼び出したということは、事態は良くない方向に向かっているんだろう?」
「ひひ、さすがは柳端氏でございますね……ええ、その通りです」
閂は薄笑いを消すと、コーヒーを一口啜った後に説明を始めた。
「結論から申し上げますと……萱愛陽泉氏は非常に危険な人物でございます」
「それはわかっている。過去に事件を起こしたことも萱愛から聞かされた。お前が言いたいことはそれだけじゃないだろう」
「はい。私が陽泉氏を『危険』だと判断した理由は他にございます」
「どういうことだ?」
「それを説明する前に、先日の萱愛家での出来事をお話しましょう……」
閂の説明では、俺が萱愛を早退させたのと同時刻に黛と樫添と共に萱愛家を訪れ、そして陽泉から萱愛の未来を決定するノートを見せられたという。その後、閂たちと陽泉が一触即発の状況になった直後に萱愛が帰宅し、その場を収めたらしい。
「なるほどな。陽泉は過去の事件について何も罪悪感を抱いてないばかりか、萱愛を束縛して管理下に置くつもりでいるのか」
「そのようですね」
「確かに危険な男だな。一人の人間を死に至らしめておいて、それに関して何も思ってないと言い放てるんだからな」
「はい……ですが問題はそこではございません」
「なに?」
「私が陽泉氏を危険だと判断した理由は……あの方の支配力にあります」
閂はコーヒーの入ったマグカップを置き、話を進める。
「陽泉氏は、息子である萱愛氏を溺愛しているようですが……萱愛氏が陽泉氏の言うことに素直に従う必要はありません。萱愛氏はもう高校三年生。父親の言うことを完全に受け入れる歳でもないでしょう」
「それは俺も考えた。だが萱愛は陽泉が過去に起こした事件に関して負い目を感じている。それが陽泉に従う理由じゃないのか?」
「確かにそれもあるのでしょうが、それだけではないと私は見ています……先日の様子を見る限り、萱愛氏が陽泉氏に従う理由は、もっと単純なものでしょう」
「単純なもの? なんだそれは?」
俺の質問に対し、閂はマグカップに入ったコーヒーを見つめながら言った。
「……恐怖、でございます」
閂の視線の先にあるコーヒーは、心なしか随分とどす黒く見えた。
「萱愛氏は陽泉氏を恐れています。それはほぼ間違いないでしょう。過去の事件に負い目を感じているというのも、それを誤魔化すための方便ではないかと……」
「萱愛が陽泉を恐れるのは別におかしなことじゃないだろう。あの男は息子の目の前で人を殺したわけだからな」
「ですが……もし萱愛氏が陽泉氏を恐れているのであれば、むしろ距離を取るのでは? 現実には萱愛氏は陽泉氏の元を離れようともしませんが」
「……」
言われてみれば、確かにそうだ。
萱愛が陽泉を恐れているのは俺も感じていた。だがそうなると、閂の発言には矛盾が生じる。
「お前はさっき、『萱愛が陽泉を恐れているからヤツに従っている』と言った。しかしお前は『恐れているだけなら陽泉の元から離れるはず』とも言った。そうなると萱愛が陽泉に従うのは、やはりヤツに負い目を感じているからではないのか?」
「萱愛氏は陽泉氏に負い目を感じているから離れられないのではなく、恐怖しているから離れられない……私はそう思っています」
「意味がわからないな。さっきからお前の発言はちぐはぐだ」
「そう、ちぐはぐなのですよ。萱愛氏の感情と行動がちぐはぐなのです」
萱愛の感情と行動がちぐはぐ?
俺は考える。萱愛は陽泉を恐れている。じゃあ陽泉の何を恐れているのか?
ヤツが人を殺したことに対して? ヤツが他人に暴力を振るうことに対して? それとも……
その時、俺の頭に萱愛のあの言葉が響いた。
『お前や閂先輩と離れなければならないかもしれない』
「あ……」
「お気づきになりましたか」
閂は俺を見る。
「萱愛氏は恐れているのですよ……自分が陽泉氏の元から離れることで、私や柳端氏に危害が及ぶことを」
そうだ、陽泉はあれほどの暴力性を抱えていながら、萱愛本人を傷つけることはなかった。ヤツの暴力は、全て萱愛の周辺の人物に向かっている。そしてその暴力を唯一止められる存在が萱愛だとしたら。
「萱愛氏は……自分が陽泉氏の元にいれば、誰も傷つくことはない。そうお考えなのかもしれませんねえ……」
閂の言葉が、俺の予感を確信に変える。萱愛の恐怖とは……
自分のせいで、陽泉が俺たちを殺してしまうかもしれない可能性だ。
だから萱愛は陽泉から離れないし、逆らうこともしない。下手に逆らえば、傷つくのは自分ではなく、俺や閂だということがわかっているから。
「ひひっ、全く萱愛氏らしいお考えです……自分が我慢すれば、私たちを守れるとお思いなのでしょう……ひひひ……」
閂は静かに笑うが、同時にその長い前髪を右手でかき分け、隠されていた右目を露わにする。その直後、表情を消して右目を見開いた。
「そんなこと、許すわけがないだろう。このボケが」
……静かに呟いた言葉には、確かな怒りが込められていた。
おそらくその怒りの矛先は、萱愛陽泉だけではない。萱愛小霧にも向けられている。
閂もわかっているのだろう。萱愛の行動は確かに俺たちを守っているのかもしれないが、同時に俺たちの願いを裏切っているのだと。
『萱愛小霧を救いたい』という願いを。
閂は怒りを抑えるかのように、前髪を元に戻し、視線を俺に向けた。
「とにかく、私たちが取るべき行動はひとつでしょうね」
そう言いながら、手元にあったミルクの小瓶を取り、マグカップに注ぐ。
「萱愛氏の恐怖を、少しでも和らげることです」
ミルクが注がれたコーヒーは、黒から茶褐色に変わった。
「萱愛が陽泉を恐れなくなれば、あいつも陽泉から離れられる。お前はそう言いたいのか?」
「その通りでございます。ひひ、ですから私たちが萱愛氏に対し、『あなたが懸念するようなことは起こらない』とアピールすることが必要となるでしょう」
「簡単に言うが、どうする? 仮に俺たちが萱愛に関われば、陽泉は俺たちに牙を剥くぞ」
「そうなるなら願ったりですねえ……陽泉氏が私たちを殴る瞬間でも映像に押さえれば、陽泉氏を再び刑務所にでも送れるのですが」
「だが仮に陽泉がお前や俺を殴れば、それこそ萱愛は自分を責めるだろうな」
「……そうなるでしょうね」
俺たちの目的は萱愛を陽泉から解放することであり、陽泉の排除ではない。仮に陽泉を刑務所に送れたとしても、それで萱愛が陽泉の呪縛に囚われたままでは、意味が無いのだ。
「ひひ、でしたらこうすれば良いのではないでしょうか。『自分が父親から離れなかったことで、悲劇が起こるかもしれない』。そう萱愛氏に認識させるというのは?」
「萱愛の恐怖を利用するというのか?」
「ええ、そして身近にかつて殺人を犯した者がいると知れば、必ず接触を試みるであろう人間がいると、私たちは知っているではありませんか」
「……おい、まさか」
閂は表情を歪め、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「自らの絶望を願い、容赦ない死を求める、柏恵美という人間が」
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