「残念だが、その名前には覚えがないね」
私たちが通うS市立大学の食堂で、向かいに座る彼女――柏恵美はそう言った。
「本当に? この前の晴天の一件のこともあるわ。本当にエミの知り合いってことはない?」
エミに聞いたのはもちろん、一週間前に私にふざけた告白をしてきた男、弓長波瑠樹を知っているかどうかだ。弓長くんが何らかの理由でエミの存在を知り、私に接触してきた可能性は高い。
空木晴天や棗朝飛との戦いからまだ一か月ほどしか経っていない。警戒するのは当たり前のことだ。
「ふむ。空木医師や棗朝飛は私のことを知っていたし、空木医師の方は私の過去に深く関わってはいたよ。だからルリがその弓長くんとやらも私の過去に関わる人物と考えるのは理解できるよ」
「そうでしょ、なら……」
「だが、本当にその名前には覚えがない。現時点でM高校の二年生ということは、彼が入学したのは私が卒業した後だ。萱愛くんや閂くんが彼に私のことを教えたならば、向こうが私を知っている可能性はあるだろうが、少なくとも私は彼については全く知らない。そう答えるしかないよ」
エミが嘘をついている可能性はなくもない。だけど、弓長くんがエミと顔見知りであるなら、そもそも私ではなくてエミに直接会いに行けばいい話だ。そうなると、本当にエミは彼を知らない可能性の方が高い。
「さて、それではこちらからも質問しよう。その弓長くんとやらが、なぜ私を狙うと思ったのかね?」
「それは……」
「『獲物』である私が狙われるのは当然のことだと、私自身はそう思えるが、君はそうは思っていないのだろう? つまりルリがその男を警戒する理由があるはずなのだが……今の話を聞いただけではそれが見えてこないのだよ」
「……」
今の時点でエミには、『M高校二年生の弓長波瑠樹という男を知っているか』という質問を投げかけただけだ。弓長くんが萱愛の計らいで私に告白してきた部分については説明していない。そんな説明をする必要もない。
私に好意を持っているなんて嘘を、エミの耳に入れたくない。
「……ソイツが私に近づいて来たから、エミを狙う敵なのかと思ったのよ。それだけ」
「うん? 彼はルリに何か用があったのだろう? ならば彼の興味は私ではなく、君に向いているのではないかね?」
「そんなはずないじゃない」
私としては当然のことを言ったはずだけど、なぜかエミは口を閉じて少し驚いたような表情になった後、横を向いた。
「……ふむ、今から言うことは私のワガママだと聞き流してほしいのだが」
そして私を見ないまま、少しつまらなそうな声で言った。
「君は私の支配者だ。だから私としては、いつも君に絶対的な強さを感じていたいのだよ」
「……!」
それって、どういう……
「ここにいましたか、柏さん」
発言の意味を問いただす前に、エミの後ろから黒髪ボブカットの女が声をかけてきた。
「おや、財前くんか。次の講義は君と一緒だったかな?」
「はい。良ければご一緒したいと思いまして。わからないところもありますし」
黒髪の女――財前は眼鏡の奥から怯えたような視線を私に向ける。
「あの……すみません。黛さん。もしかして、お邪魔でしたか?」
「いいえ。エミと一緒に講義に出るんでしょ。好きにしなさいよ」
少しトゲのある言い方になってしまったけど、コイツにも警戒する必要はある。用心するに越したことはない。
「え、えっと……すみません。では、いつも通り講義が終わり次第、柏さんはお返しします」
「そうして頂戴。エミ、アンタもそいつに殺されようなんて思わないことね」
「ははは、いつものルリが戻って来たね」
そう言って、エミは財前と一緒に食堂を出て行った。エミの位置情報はスマートフォンで把握できるので、財前が変な気を起こせばすぐに気づける。
あの女……財前綾もまた、柏恵美という人間の奇特さに引き寄せられた一人だ。この大学の一年生で、私からしたら二つ下、エミからしたら一つ下の後輩にあたる。エミがこの大学に入学した当初から、彼女に関わろうとした人間は男女問わず存在したが、私が少し睨みをきかせたら、すぐにいなくなった。
先ほどの女、財前綾を除いては。
エミが言うには、財前とは同じ講義で知り合ったらしい。一人で講義を受けていた財前に対して、エミの方から声をかけたとか。当然、私は財前に対してもエミを狙う敵だと疑い、エミが私の支配下にあることを示した。時には脅しに近いことも言った記憶もある。
それでも財前はエミに関わるのをやめなかった。理由を聞いたら、『柏さんは私のことを受け入れてくれている。なら私も柏さんを受け入れたい』と返してきた。エミの何を見てそう思ったのかは聞いてないけども、少なくともエミを殺そうとしている人間の言葉ではなかった。対等の人間だと思っている言葉だった。
対等の関係……か。
私の頭に何かよからぬ考えが浮かびそうになったから、それを振り払うために大学内の図書館で勉強をすることにした。
一時間半後。
「やあルリ。今日も私は君の元に戻って来たよ」
講義を終えて、図書館の前にやってきたエミは、少し機嫌が良さそうだった。その様子を見ると、私も安心してしまう。
だけどその後ろから、財前が歩いてきていた。
「すみません、柏さん。もしよろしければ、この後ご一緒していただけませんか?」
そんなことを言ってきたので、私としても警戒を強めてしまう。それを見たエミは、財前に微笑みかけた。
「申し訳ないのだが、その自由は私にはないのだよ。ルリの許可がなければ、君とは同行できない」
「あ、そ、そうなんですか?」
「……ちょっと引っかかる言い方するじゃない。エミ」
「おやおや、それは事実だろう? 君は私の絶対的な支配者だ。だからこそ私は、君と行動している。違うかね?」
……そうだ。私は、エミの支配者。エミは私に絶対的な強さがあると思っているからこそ、私と一緒に行動してくれている。
だったら、もしそうでなくなったら。
「あの、黛さん。実は私、柏さんと一緒に洋服を選びたいと思ってるんですけど、大丈夫ですか?」
エミの言葉が若干気になったけど、財前の言葉を受けて私もあることを思い出した。
先週、弓長くんは私と一緒に遊園地に遊びに行きたいと提案してきた。もちろん、二人きりで会うなんてことはしない。閂や萱愛もついてくる。
だけど仮にその会合で何らかの罠を仕掛けられていたらまずい。だから私はそれまでに準備をしておかなければならない。その遊園地の下見もした方がいいだろうし、動きやすい服装も揃えておいた方がいいだろう。
「いいわよ。その代わり、私も行くわ」
「あ、ありがとうございます」
「ふむ、それでは三人で行くとしようか」
財前の提案でやってきたのは、駅ビル内にあるアパレルショップだった。幅広いジャンルの衣服を取り扱っている上に値段も手ごろなため、周辺の学生には人気が高い。
「さて、財前くん。君が選ぶファッションとやらを見せてもらおうではないか」
「あ、いや、その……私は、柏さんがどういうファッションが好きなのかを、見てみたいなって……」
「ふむ、そうなのか?」
なぜか恥ずかしそうに俯く財前の横で、エミは商品を物色していた。エミは青系の服を着ていることが多く、今回も手に取ったのは水色のブラウスだった。
「そうだね、私はいつもこういったブラウスに暗い色のパンツを合わせることが多いが……」
「あ、ああ! そうなんですか! なるほど……私、そういうの似合わないんで、憧れます」
「そうかね? そういえば君はいつも、ゆったりとしたサイズの服を着ているね」
「……私、見た目に自信がないので……」
俯いてボソボソと喋る財前を見張りながら、私は自分の服を選んでいた。さて、どうしよう。
遊園地に関しては私が指定した。エミと出会ったばかりの頃に一緒に行ったあの場所だ。確かあそこはジェットコースターが売りだけど、敷地面積はそこまで広くない。なにより場所は開けているから、身を隠す場所も少ない。夏休み前なら土日でもそこまで混雑はないだろう。
そうなると、弓長くんが襲ってきたくる事態を考えれば、動きやすい服装は必須だろう。一方で弓長くんに追いかけられても身を隠してやり過ごすことは難しそうだ。アイツの足の速さがどれほどかは知らないけど、私より速いと仮定したら逃げるのは得策じゃない。反撃して無力化を試みた方がいい。新たに護身用の道具も買い揃えておこう。
そう思って携帯電話で護身グッズを調べようとしたら、着信が入った。
「もしもし?」
『お疲れ様です! 弓長です! 今、大丈夫でしょうか!?』
通話口から聞こえてきたのは、弓長の明るい素直そうな声だった。先日出会った時と同じ印象だ。
目の前では、エミがまだ財前と共に談笑している。視線をエミに向けていれば、危機は察知できるだろう。
「うん、大丈夫よ」
『ありがとうございます! それで、今度の遊園地の話ですけど、萱愛先輩が当日に予定が入ってしまいまして、来れないそうなんですよ。閂先輩は来れるそうです!』
「君と閂だけ来るってこと?」
『はい!』
つまりこのまま行くと、私と閂と弓長くんというメンバーになるわけだ。……考えただけでイヤだ。
『もしよかったら、黛さんのお友達も呼んでくださっても大丈夫ですよ!』
「そう。なら、私の友達を二人連れてくわ」
遊園地にエミを連れて行くのはリスクもあるけど、弓長がエミを見てどういう反応を見せるかも気になる。もしコイツの目的がエミの命なら、なんらかの動きを見せるはずだ。それを確認出来たら撃退すればいい。樫添さんも連れていけば、エミの安全は確保できるだろう。
『わかりました! あと、黛さんは僕にどんな人になってほしいですか!?』
「は?」
『どんな人になってほしいですか?』とあんまり彼自身の人間性には興味はない。危険人物でなければどうでもいい。
しかしそれをそのまま言ったらさすがにまずいだろうから、少しオブラートに包んで返答するか。
「他人に危害を加えない人であって欲しいわ」
うん。これでいい。別に嘘をついているわけじゃないし、他人に危害を加えないなら、エミにも危害を加えないということだ。
『わかりました! では当日はそれでいきます!』
「……『それでいきます』ってなによ?」
ちょっと意味がわからない。というより、今回の件は最初から意味がわからない。彼が私に告白してきた真意もわからないし、この言葉の意味もわからない。
『僕は黛さんの『オーダー』通りの人間になりますので、あなたの隣に立つのにふさわしい男になりますので……』
すると、通話口の向こうから『パシィン!』という何かを叩いたような音が聞こえてきた。なに今の?
『……当日はよろしくお願いいたします。黛さん』
……え?
今の声は、なに? 弓長くんの声、ではあった。だけどさっきまでの素直そうな高校生の印象がない。
まるで、落ち着いた大人の男のような雰囲気があった。
『黛さん? どうなされましたか?』
「あ、いや……なんでもないわ」
『それでは改めて、よろしくお願いいたします』
通話を終えても、さっきの弓長くんの声がまだ頭に焼き付いている。
先日の彼は、どう見ても素直で純朴そうな男の子だった。見た目も声もそういう印象があった。だけどさっきの声は、確かに弓長くんの声だったはずなのに、受ける印象がまるで違う。ただ単に電話の調子が悪かったのだろうか?
「あ、あの、あの、黛さん?」
まだ頭が混乱している私に対して、小さな高い声で財前が遠慮がちに話しかけてきた。
「なによ?」
「す、すみません。もしかして、何かいいことがあったんですか?」
「いや、電話の途中からちょっと嬉しそうな顔をされていたので……」
指摘されて、自分の顔が緩んでいることに気づいた。いつの間にこうなってたんだろう。
いや、本当はわかってる。たぶんこれは、弓長くんのあの声を聞いた時からだ。
「ルリ。こちらは買い物が終わったよ。君はどうするのだね?」
「え、ええ。服はまた今度選ぶわ」
そうだ。とりあえずはエミと樫添さんに遊園地のことを話しておくか。
「あのさ、エミ。今度、遊園地に行くことになったんだけど、次の土曜日空いてる?」
「む? 私は空いているが、樫添くんはおそらく忙しいだろう。課題が詰まっていると言っていたからね」
そういえば前にそんなことを言っていた気がする。樫添さんを連れていけないなら、エミを弓長くんに会わせるリスクは大きすぎる。なら一人で行くしかないか。
「あ、あの! その、遊園地の話って、私も行って大丈夫ですか!?」
「え?」
「おや、財前くん。珍しく大声を出してどうしたのだね?」
「す、すみません。私も、その、遊園地に行ってみたくって……柏さんと一緒に……」
「だ、そうだ。どうするかね?」
エミは私に許可を求めてくるけど、財前がエミを狙う可能性は今のところ低い。樫添さんの代わりにはならないけど、いないよりはマシか。
「わかったわ。アンタも土曜日は空けておきなさい」
「あ、ありがとうございます……」
顔を赤くしながらも嬉しそうに笑う財前を見て、エミも微笑んでいた。
エミが財前を気に入ってるならそれでいい。だけど私の中で本当に『それでいい』と割り切れているかどうかは自信はなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!