「空木先生、かい?」
「そうそう。俺が通っている病院のお医者さんだよ。まだ若いのに、俺の悩みに親身に乗ってくれるんだ」
川口は機嫌が良さそうにアタシに名刺を見せてくる。そこには一年前に見たのと同じ内容が書いてあった。
神栖記念病院・精神科医 空木晴天。
つまり川口の背後には、空木晴天がいたということになる。どうやらアタシはまた、空木晴天に乗せられた人間に関わってしまったみたいんだ。
「その空木って先生に、何を言われたんだい?」
「おっ、興味あるか? いやな、一年前に空木先生がこの学校に講演に来たことがあってな。その時に知り合ったんだよ」
なるほど。あの時、空木晴天は川口にも会ったってことか。何を企んでるか知らないけど、随分と迷惑なことをしてくれる。
「それでな。俺もその頃は結構、悩み事があってな。それはもちろん、お前のことだ」
「アタシの?」
「そうだ。俺はその時から、お前のことが好きだった。だけどこんな好意は許されることじゃない。だから俺は、空木先生に相談したんだよ。もしかして俺は、病気なんじゃないかってな」
ま、アタシからしたら本当に病気だと思うけど、それは言わないでおく。問題は空木晴天が川口に何を吹き込んだかだ。
「でも、先生は言ってくれたんだ。『人を愛することは別におかしなではありません。もしあなたがその相手を本当に愛しているのであれば、相手にもきっとその思いは届くでしょう。希望を捨てないでください』と、俺を励ましてくれたんだ」
「……それが、アタシに告白した理由かい?」
「そうだ。そして先生の言う通り、『希望』を捨てずにいてよかった。こうしてお前と思いが通じ合ったんだからな」
「……」
どうやら川口もまた、ありもしない『希望』に縋り付いて、都合のいい考えを抱いた人間みたいだ。コイツが持っているのは『希望』というより『欲望』なんじゃないだろうか。
さて、とりあえず川口の背後に空木晴天がいることはわかった。どうもあの男は、アタシにつまらない時間を過ごさせる天才なのかもしれない。そうなると、もう川口と付き合う理由もないわけだ。
「川口サン、アタシと思いが通じ合ったって言ったけど、そりゃ見当違いだよ」
「なに?」
「別にアタシはアンタのことを好きでも嫌いでもない。言っちゃえばその他大勢の一人って感じの認識だね」
「ま、待て。どういうことだ? お前は、『自分を楽しませてほしい』って言ったじゃないか。あれは、俺と一緒に過ごしたいって意味なんだろ?」
「ヒャハハ、ありゃそのままの意味だよ。アンタがアタシを楽しませてくれるんなら、別にアンタに付き合ってあげてもいいけど、そうでないならサヨナラってことさね。アンタだからそう言ったんじゃなくて、他の人間にも同じ事を言ってるよ」
「そんな……」
「ああ、だけどもしアンタがアタシのことを手に入れたいって言うなら、お金とアンタのテクニック次第で考えるよ。楽しませてくれるなら、誰だっていいからね。それじゃ」
愕然とする川口にそう告げて、アタシは帰ることにした。
次の日。
アタシは朝一番に恵美嬢に会いに行った。
「おはよう、恵美嬢」
「ああ、おはよう。沢渡くん」
恵美嬢は相変わらずの薄笑いを浮かべていたけど、今日はまず言うことがある。
「ところでさ、アンタを担当している空木って医者、今は何してるんだい?」
「おや、空木医師かね? 彼はまだ同じ病院に勤務しているはずだが?」
「アタシがそいつに会うことって可能かい?」
「……ほう?」
少し考え込んだ後、恵美嬢は真剣な表情でアタシに向き直った。
「沢渡くん。一応言っておくが、空木医師は君を楽しませてくれるような人間ではないよ」
「そりゃわかってる。アタシもアイツにそんなことは期待しちゃいないさ。だけど、自分の身に面倒が降りかかってるなら、アタシも動かなきゃならないってことさね」
「ふむ、ならば事情を聞こうじゃないか」
そうしてアタシは、川口に迫られたことと、その背後に空木晴天がいることを話した。
「なるほどね。空木医師もやってくれるじゃないか。まさか私の友人に、間接的にはいえ、そのつまらない思想を押しつけようとするとは」
「アタシもちょっと迷惑してるけど、川口のことを学校に訴えても、たぶん処分されるのは川口だけだろうね。空木の方はお咎めなしで終わりそうだ」
「それは確かにこちらとしても面白くはない。というより、君も空木医師に一言言いたいのではないかね?」
「そりゃそうさね。アタシにつまらない時間を過ごさせたんだ。文句の一つも言ってやりたいよ」
加えて、華さんのこともある。過去のことにこだわるつもりはないけど、やられっぱなしで何もできないのも面白くない。
「ならば今度、私の付き添いという形で病院に行くというのはどうだろう。明後日の金曜日の午後、診療の予約を取ってある。私の身内とでも称して、病院に入り込むのは可能だと思うよ」
「ヒャハハ、じゃあそうさせてもらおうかね。場合によっちゃ、事を構えることになっちゃうけど、恵美嬢はそれでいいかい?」
「くふふ、構わないよ。それで空木医師の困り顔が見れるなら、私としても得だからね」
静かに笑う恵美嬢を見て、やっぱりアタシは恵美嬢を気に入っているのだと改めて思った。
そして迎えた金曜日。アタシは恵美嬢と共に空木が勤務する病院の待合室にいた。
「まったく、病院ってところは辛気くさくて面白みのかけらもないね」
「そうかね? 私としては今にも死にそうな人間に溢れているのを見て、それを自分に重ね合わせるのが好きだよ。『ああ、自分は命を拾ったんだ』と安心したところを容赦なく殺される想像すると、気分が高揚する」
「ヒャハハ、さすが恵美嬢。目の付け所が違うね」
恵美嬢の言葉を聞いた周りの患者たちが、目を丸くしたり機嫌が悪そうに睨んできたりしたが、そんなのはアタシに関係の無い話だ。
とりあえず、アタシの目的は空木晴天だ。アイツがどういうつもりなのかは知らないけど、これ以上つまらないマネをするようなら、釘を刺す必要がある。
「柏恵美さん、どうぞー」
恵美嬢の名前が呼ばれたので、一緒に診療室へ行く。看護師の女が怪訝そうな顔で見てきたのに対して、恵美嬢が対応した。
「ああ、彼女は私の親戚でね。私がどういう診療を受けているか、一度見たいということで付き添いで来たのだよ」
「は、はあ。ですが、そういったことは事前におっしゃっていただきたいのですが」
「おや、それは失礼した。だが、今日は私も一人では不安な気持ちなので、彼女に付いていて欲しいのだが」
「え、えーと……」
看護師は困った様子で目を泳がせている。なんだかイライラしてきたので、強引にでも部屋に入ろうかと思った時だった。
「あーあーあー、どうしたのかな?」
診療室から白衣を着た小柄な男が出てきた。白衣の下の青いシャツと、爽やかな笑顔が特徴的な男。今日のアタシの目的、空木晴天だった。
「あ、空木先生。柏さんが、付き添いの方と一緒に診療を受けられたいとのことなのですが」
「あーあーあー、構わないよ。えーと、とーりあえず中に入ってもらっちゃおうか」
「は、はい」
空木の言葉に素直に従った看護師は、アタシたち二人を中に通す。そのまま自分の部屋に入ろうとしたが、空木に止められた。
「えーとねー、もーうしわけないんだけど、ちょっとこの患者さんは、ボク一人で対応していいかなあ?」
「え? は、はい。わかりました」
看護師を退出させて、椅子に座った空木に向かい合うように、アタシたちも座る。視線を合わせた空木は、相変わらず緊張感がなかった。
「そーれで? 柏さん。今日はお友達と一緒に来たんだねえ。あーあーあー、もーしかして、ちゃんと今の人生を生きてみる気になったのかなあ?」
「君の診療に心を動かされたと思っているのなら、私も見くびられたものだよ。君のような人間の診療を受けて、『生きてみよう』と思う人間などいるのかね?」
「ははは、きーびしいね。でもその質問の答えは、『何人も存在する』だよ。ここに来たときは死ぬ寸前だった人が、何人もボクの診療で生きてみる気になっているんだ。素晴らしいことだよね」
「生きてみる気になっている、か。果たしてそれが彼らにとって望むべき結果なのだろうか?」
「何言ってるの。死ぬより生きている方がいいに決まっているだろう?」
恵美嬢と空木晴天が険悪な会話を交わしているのをしばらく見ていたけど、今日コイツに用があるのはどちらかというとアタシの方だ。
「恵美嬢。悪いけど、選手交代といこうか」
「ああ、そうだね。今日は君のために設けた場だからね」
そうしてアタシは空木晴天の前に座る。
「あーれ? 君は確か、沢渡さんだよね? もしかして君も、悩みを抱えているのかなあ?」
「そんなんじゃないよ。アンタ、川口幸夫って男に何を吹き込んだんだい?」
「川口さん? ああ、君たちの学校の先生ね。まあでも、診療の内容には守秘義務があるから、教えられないなあ」
「じゃあアタシの方から言ってやる。川口はアンタに吹き込まれて、アタシに告白してきたんだ。だから迷惑してるのさ」
「あーあーあー、そこまで知っているんだ。じゃあ、話しても問題はないかな」
空木晴天はアタシに向かって微笑んだ。
「川口さんにとってね、君は生きる『希望』なんだよねー」
「は? アタシが?」
「そうそう、君が。ここに来たときの川口さんは、君への思いを抱えるあまり、自殺さえ考えていたんだよね。教師として、許されないってさ。でもボクは医者だからね。人を生かす商売だからね。目の前で死にそうな患者さんを放っておくわけにはいかないよね」
「……それで、アタシを利用したってわけかい?」
「利用(りーよう)という言い方は乱暴だね。ボクは川口さんに『希望』を示したんだ。君が川口さんの思いに応えてくれるだろうという『希望』をね」
「その『希望』とやらで、アタシがどうなってもいいってのかい?」
「あーあーあー、ボクは患者を助けるのが仕事だからねー。まあ、君がボクの患者になるのであればそれはそれで助けるよ」
話を聞いていれば、コイツの言っている内容は患者以外の人間には興味がないというように聞こえる。
「君は相変わらずだね、空木医師」
アタシの後ろで恵美嬢が口を開いた。
「君の興味は患者が生きているというところにしかない。患者の幸せや苦しみなど、君は何も考えていない」
「あーあーあー、そんなことはないよ。ボクがこの仕事で一番やりがいを感じるのは、死にたくて仕方なかった人が生きていく選択をした時だからね」
「……患者がそれを望んで選んだのではなかったとしても?」
「なーにを言っているのかなあ?」
その時、空木晴天は一度笑顔を消した後、その目に明るい光を宿らせて、言った。
「自分の死を望むことが、普通の状態なわけがないだろう?」
……その言葉に、アタシも恵美嬢も嫌悪感で顔を歪ませた。
コイツはアタシたちの生き方を否定しているんだ。『絶頂期』や『絶望』に幸せを感じるアタシたちの生き方が異常であり、あってはならないものだと断じているんだ。
だからコイツは他人に『希望』を押しつける。生きることを強制する。その結果、相手がどんなに苦しんでも、それが在るべき姿だと決めつける。
今のアタシには、空木晴天の目に宿る明るい光は、ものすごく醜悪なものに見えた。
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