警備員というものは、土日に休めるとは限らない。そして逆に、平日に仕事があるとも限らない。だから俺が恵美の世話をするのにも、随分と苦労した。
恵美ももう大学生になったし、俺が世話をしてやる歳でもない。成人すれば恵美が自分で財産を管理できるようにもなるはずだ。
しかし俺は、どうにも胸騒ぎがしていた。そのためか、こうして今日も恵美の自宅に上がってしまっている。
恵美が現在住んでいるのは、普通の一軒家が二つほど入ってしまいそうな広大な屋敷だ。もちろん、これは恵美の父親が購入したものではあるものの、現在は恵美の名義になっている。
他にも柏家はアパートを一棟持っているが、そちらは恵美が気の向いたときに使っている。もちろんそのアパートも、俺が管理しなければならない。
そして今、俺は屋敷のリビングに通され、お茶菓子を摘まんでいた。
「おやおや、斧寺くんも忙しいだろうに、そんなに私のことが気になるのかね?」
「まあな。お前が成人するまできっちり面倒見ると決めた以上、ここで気を抜くわけにもいかないだろう」
「ふふ。随分と責任感のあることだ。君のお父上も、君のそんなところを気に入っていたのだろうね」
「……」
紅茶を淹れながら冗談めかしたようなことを言う恵美だったが、俺からするとその言葉は、親父から直接言われているようにも聞こえてしまった。恵美の口調が親父に似ているという理由もあるが、それ以上に恵美の考え方や死生観が、親父がそのまま乗り移ったかのようにまで似ているのだ。
だからだろうか。俺はそれこそ親子ほどに年齢が離れている恵美に対して頭が上がらなかった。元々大人びている女の子ではあったが、家事も炊事も不得手である俺に対し、苦言を呈することも何回かあった。
「それで、今日はどうしたのかね? 最近の私は君が心配するような危険な事件には巻き込まれてはいないよ」
「ああ、そのようだな」
恵美が他人とは違う願望を持っていると気づいたのは、彼女の後見人になってからすぐのことだった。『絶望こそが自分を救う』と言い、俺に自分を殺してみないかと提案したこともあった。それを聞いた俺はこっぴどく怒ったが、恵美はまるで堪えていなかった。
更には、数年前から恵美は何かと事件に巻き込まれるようになった。通っていた高校で中学生が自殺する現場を目撃したり、同級生からひどい暴力を受けることが何回かあった。
だが最近はそれも収まり、俺もほっと胸をなで下ろしていたのだ。
『あの男』が帰ってきたと知るまでは。
「恵美、本当に最近はおかしなことはないんだな?」
「ああ、ないよ。全く嘆かわしいことだよ。この私を殺しにくる人間は、もうこの世にはいないのかもしれないね」
「それならいいんだが……」
「ああ、そういえば、君の知り合いを名乗る男性には出会ったね」
「なに?」
そして恵美は、いきなり妖艶な微笑を浮かべて俺を見る。
「確か、『陽泉』と名乗っていたよ」
「……!!」
その名前を聞いた瞬間、俺は自分でもマヌケに思うほどに動揺してしまった。
「おや、やはり君は陽泉くんとやらを知っているのだね? しかもその反応を見るに、あまり好意的には思っていない相手のようだが」
「……陽泉に、会ったのか?」
「心配しなくても、君が危惧するようなことは起こらなかったよ。全く残念なことだ。だが……」
恵美は俺の顔を覗き込んでくる。
「そうなると、君の口から陽泉くんというのがどういった人間なのか聞かせてもらいたいものだね、斧寺くん?」
「くっ……」
やはり、恵美の性格上、陽泉に興味を持つのは必然だった。だがダメだ、恵美と陽泉と引き合わせるのは絶対にまずい。
俺は知っている。萱愛陽泉という男がどんなに危険なのかを。
※※※
俺の姉である霧華は、大学に入ると同時に実家を出た。大学の学費も奨学金とバイトでまかない、親父に頼るようなことは一切しなかった。その理由は、姉が親父を蛇蝎の如く嫌っていたからだ。
俺の親父、斧寺霧人は警察官だったが、正義感に溢れた人間というわけではなかった。むしろ親父は『警察に正義などあると思っているのかね?』と俺に言ってくることさえあった。
そして親父の思想の根幹を成しているのは『絶望』という言葉だった。
「中途半端な希望に縋るのは辛い。それならば、絶望に身を浸していた方が、安らかに暮らせる。そうは思わないかね?」
親父は俺と姉にそんなことを言ってきたことがあったが、俺にはその思想が理解できなかった。だが同時に、親父は警察官として数々の悲惨な事件に関わってきた上でそう言っているのかもしれないと考えた。だから親父の思想を少しでも理解しようと、俺は警察官を志した。
一方の姉は、親父の思想を完全に否定し、毛嫌いした。だから姉は大学を卒業して高校の教師となっても、実家には全く帰ってこなかった。
だが二十年前のある日、姉は突然帰ってきた。一人の男を連れて。
「霧人さん。私、この人と結婚することにしましたから」
姉は親父と俺に対して、男を自分の婚約者だと紹介した。
「はじめまして、萱愛陽泉と申します。霧華さんと結婚を前提にお付き合いさせていただいております」
陽泉と名乗った男は、屈強な体格に反して柔和な顔という不思議な外見であったが、それ以上に俺は陽泉からいとも簡単に『霧華さん』という名前が出たことに驚いた。
姉は自分の名前を嫌っている。弟である俺も姉を『霧華』と呼んだことは片手の指で数えるほどしかない。姉を名前で呼ぼうものなら、それこそ周囲の人間全てに当たり散らすからだ。
だが陽泉が『霧華さん』と呼んだにも関わらず、姉は全く意に介していなかった。考えられるのは、この男が姉を名前で呼ぶことを許されるほど、姉に愛されているという可能性だ。あの姉が自分を名前で呼ぶことを許すほどに人を愛するなどとは思わなかった。
「陽泉くん、か」
「はい、変わった名前とはよく言われますね。はは……」
「……」
親父は陽泉と向かい合ったまま、腕を組んで黙りこくってしまった。だがこれは、別に陽泉を嫌っているわけではない。親父が極度の口べたというだけだった。
仕方ないので、俺が会話を持たせることにした。
「あ、あの、陽泉さんは姉とどうやって知り合ったんですか?」
「ええ、共通の友人を通して霧華さんと知り合ったんですが、その……恥ずかしい話なんですが、僕が霧華さんに一目惚れしてしまいまして」
「じゃあ、そこからお付き合いを?」
「はい。そこから猛アタックをかけました。必ず霧華さんを幸せにする、僕にはその覚悟があると」
それを聞いた親父は、少しつまらなそうな顔になった。無理もない。『絶望こそが人を救う』と考えている親父としては、確証のない希望を与えるような言葉をいくら積み重ねても響かないのだろう。
だが親父と姉はほぼ絶縁状態だ。特に親父も姉の結婚を反対しないだろう。だからこの会合も無事に終わる。そう思っていた。
「しかし、陽泉さんも大変なんじゃないですか? 姉みたいなすぐ怒る人に振り回されるなんてのは……」
俺としては、場を和ませる冗談で発した言葉だった。だが。
その直後に、俺の身体は椅子ごと後ろに吹き飛んでいた。
「……あ、え?」
顔の中心に痛みが走っている。鼻から血が出て、口に鉄の味が広がる。舌に何か固い物が落ちた感触があった。吐き出してみると、そこには俺の前歯があった。
そこで俺はようやく理解した、『殴られた』と。
「……おかしいな」
いつの間にか立ち上がって躊躇無く俺を殴った陽泉は、なぜか不思議そうな顔をしていた。俺を殴った右手で頭を掻き、考え込むような仕草を見せる。
「これはおかしいな。君は、霧華さんの弟さんなんだよね? あんまり仲が良くないみたいな話は聞いていたけど、霧華さんの悪口を平然と言うのは見過ごせないなあ」
「な、なに、を、言って……?」
未だに痛む身体を起こそうとするが、上手くいかない。その間に陽泉は俺の前にしゃがみ込み、その顔を寄せた。怒っているわけでも、見下しているわけでもない、ただただ『なんでだろう?』と言いたいような顔をしている。
「いくら霧華さんの弟でも、僕の前で霧華さんを悪く言うのは困るなあ。だって僕は、霧華さんの幸せを心から願っているんだから。僕は霧華さんを幸せにするって決めたんだから」
陽泉は、俺の頭を掴んで強引に引っ張る。
「あ、がああああっ!」
「うーん、残念だけど、君には少し反省してもらおうかなあ。だって今の君を、義理の弟と認めるのは難しいからねえ」
そう言って、陽泉が俺の頭を壁に叩きつけようとした時だった。
パチ、パチ、パチ。
場違いな拍手の音が響く。手を鳴らしていたのは、親父だった。親父は陽泉を見ながら、喜悦の表情を浮かべている。
「……素晴らしい。素晴らしいよ、陽泉くん。どうやら私は君を好きになれそうだ」
親父は陽泉に近づき、右手を差し出す。それを見て、陽泉も俺から手を放した。
「お義父さん。それでは、僕らの結婚を許してくれるということで、よろしいですか?」
「当然だよ、是非とも幸せな家庭を築きたまえ」
親父と陽泉は、固い握手を交わす。
「くく、くははは。やはり霧華は私の娘だね。君のような素晴らしい男を選んでくるとは。君なら心地よい絶望を、皆に与えてくれそうだ」
「はあ、絶望ですか?」
「そう、絶望だ。君は私の娘、ひいてはこれから生まれてくる孫にも、絶望をもたらす。そう言っているのだよ」
「うーん、僕は霧華さんを愛して、幸せにしたいと思っているんですけど」
「ああ、霧華は幸せになるだろう。なにせ……」
親父は薄笑いを浮かべる。
「君の考える愛と、私の求める絶望は同じなのだから」
※※※
親父は言った。自分の求める絶望と、陽泉が他人に向ける愛が同じだと。
そして恵美の思想が親父と同じだとすると、恵美を陽泉に引き合わすのは絶対にまずい。そう確信している。
「……済まないが、陽泉という人間が何者なのかは教えられない。プライベートなことだからな」
「そうかね。なら私も無理に聞くことはしないよ」
恵美はあっさりと引き下がって紅茶を口にしたが、おそらくそれは表面だけだろう。俺が帰った直後にも、陽泉に関して調べ始めるかもしれない。
事態はどこまで動いているのだろうか。陽泉がこの街に帰ってきてから既に一週間は経つ。
だがいまだに、小霧からの連絡はなかった。
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