黛が柏との決着をつけに行ったのを横目で見た俺は、目の前にいる香車に視線を戻した。
「香車……」
良かった。香車はまだ殺人犯にはなっていない。今ならまだ香車を日常に戻せる。柏の魔の手から救い出せる。
「香車、もう帰ろう。お前はちょっと疲れているんだ。おそらくお前は弟が死んだ事件を柏に蒸し返されて、ちょっと錯乱しただけなんだ。もう、あの女とは関わるな。そうすれば、きっと元のお前に戻る」
そうだ、全ては柏と関わったせいだ。香車を家に帰した後、柏を遠くの町に追い出せば、全て解決する。
いや、それだけじゃダメだ。俺たちも柏に追跡されないように、中学を卒業したら遠くの高校に進学しよう。
それで……そこで平和な日常をやり直せばいい。
「だから、その包丁を捨ててくれ。誰にも見つからないようにこの高校を出れば、今日ここでは何もなかった。そういうことになる」
香車は俺の話を黙って聞いてくれている。後少しだ。後少しで、俺たちの日常を取り戻せる。
「幸四郎……」
香車が俺の名を呼ぶ。
「君にはここに来て欲しくなかったよ」
「え……?」
何だ? まさか、香車は俺を拒絶するというのか……?
「僕は君を本当に大切な友達だと思っているんだ。だから、君は何も知らずに僕と関わっていて欲しかった。僕と一緒に平和な日常を過ごしていて欲しかった」
「どういうことだよ? そう思っているなら、もうこんなことはやめようぜ? ここで何も起きなければ、俺たちは平和な日常に戻れるんだ!」
「違うよ幸四郎。僕が望む平和な日常は……君のそれとは違う」
違うだと? そんなわけはない!
俺たちが以前のように一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に……それが平和な日常のはずだ!
だが、香車の望みは――
「僕は君と仲良く過ごしながら……衝動に身を任せたかった」
俺のそれとはかけ離れていた。
「君が僕のことを本気で心配してくれるのが、本当に嬉しかった。僕の将来を考えてくれるのが、本当に嬉しかった。だからこそ、僕はずっと君と大切な友達でいたかった。でも、僕は今この瞬間も『狩り』を楽しみたかった。君との関係を続けながら、僕の楽しみも確保したかった。それだけ君は大切な友人だと思っていたんだよ?」
何を言っているんだ? 香車は何を言っているんだ!?
違う、香車はこんなことは言わない。
『お前は僕の裏の顔を何も知らずに、アホ面晒して僕の表面だけ見ていろ』とは言わない。
そうだ、香車はあの時みたいに俺を認めてくれる……そういう奴だ。
これは、これは全て……!
「それがあいつの! 柏の影響なんだ! 香車! それは、そんなものはお前の望みじゃない!望みであっていいはずがない! お前は、お前は俺を認めてくれたんだ……俺を救ってくれたんだ……戻ってくれ。頼むから戻ってくれよ香車……」
どうしてだ。どうしてこんなことになった。
いや、わかっている、さっき自分で言ったんだ。これは全て……
「幸四郎……僕は本当に君を大切な友達だと思っているんだ」
そう言いながら、香車は俺に近づいてくる。
「だから、柏さんを譲ってあげるよ」
そして、持っていた包丁の柄を俺に握らせた。
「え……?」
握らされた包丁を呆然と眺める俺を後目に、香車は柏と黛がいる屋上の隅に向かう。
そして、黛には目もくれずに柏の後ろに立ち、ナイフを取り出した。
「柳端! あんた、何をやって……!」
黛が何か言っているが、あまり耳に入らなかった。
「香車……? お前、何を言って……?」
今、香車は何て言った?
譲る? 俺に? 柏を?
「柏を譲るって……どういうことだよ!」
わからない、香車が何を言っているのかがわからない。
「幸四郎……僕の口から言わせるの? あまり言いたくないんだけどなあ。そうだ、柏さんが言ってくれますか?」
「うん? 私が君の言葉を代弁していいのかな?」
「大丈夫ですよ。僕が言わなければいいだけですし」
何だ? 待て、何で香車と柏の間であんなに意志が通じ合っているんだ?
「つまりだね、直接的な表現をするとだ」
待て、何でだ。
「柳端くんが私を殺せば、自分はもう『狩り』をすることはない」
何でお前が香車の意志を理解しているんだ。
「香車くんは、そう言っているのだよ」
ふざけるな。
何で、お前が香車の理解者のように振る舞っているんだ!
そこに、そこにいるべきなのは……!
「幸四郎、どうなの?」
香車が俺に確認を取る。そうだ、今考えるのはそのことじゃない。
俺が柏をこの手で殺せば、香車は元通りの日常を送れるということだ。
「……本当か? 本当に俺がやれば……?」
「やだなあ、幸四郎?」
香車は困ったような声を出す。
「僕を信じてくれないの?」
そうだ。元はといえば、柏がいるからこんなことになったんだ。
そもそも、俺は一度柏を殺そうとしている。もう一度、それをすればいいだけだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 柳端! あんた本当にそんなことをする気なの?」
屋上の入り口にいる樫添が抗議するが、香車の言葉がそれを遮った。
「言っておきますけど、今この場にいる幸四郎と柏さん以外の人間が動けば、即座に柏さんを殺します」
「なっ……!?」
「樫添さん、動かないで。……おそらくこいつは、本気よ」
黛が、香車を睨み付けながら言う。
……なぜだ。なぜ皆、香車が人を殺したがっていると思っているんだ。
香車は! 柏の毒牙にやられているだけなんだ! 柏がいなくなれば! 全て丸く収まるんだ!
いや、待て。あいつは香車に殺されたがっている。そんなやすやすと、甘んじて俺に殺されたりするのか?
「柏が抵抗しないとは限らな……」
「抵抗しないよ」
あっさりと、柏は断言した。
「香車くんがそう決めたのであれば、私に拒否権は無い。というより、獲物である私に、誰に殺されるかを選ぶ権利は無いよ。非常に残念ではあるけどね」
そうだ。何を躊躇っているんだ。
香車を助け出すんだろ? 柏の手から救うんだろ? そのためにここに来たんだろ?
……いい加減、腹を括れよ俺。
香車に渡された包丁を握りしめながら、柏と香車のもとへ向かう。
「柳端……」
その途中にいた黛が、俺を真剣な顔で見つめている。
「私が動けない以上、この場はあんたに任せるしかない……でも、前もって言っておくわ」
そして、精一杯の威圧を込めた声で言った。
「エミを殺したら、私はあんたを一生許さない」
……正直言って、その発言に恐怖は感じなかった。
恐らくそれが、黛の脅しというより懇願に近いものだと感じ取れただからだろうか。
だが、どちらだとしても俺には関係ない。香車を救うために……柏を殺す。
俺は香車の前に立つ柏の近くまで来た。
「……柳端くん。君が私を殺すというのかね? 殺人を止めるために動いている君が?」
「驚いたな。あんたが命乞いをするとは」
「これを命乞いだと認識する君に、私の方が驚いているよ。確かに私としては君に殺されるのは不本意だ……だがね、これは香車くんの提案でもある。彼が私を絶望的な状況に追い込んでいるのには変わらない。その点では嬉しいよ」
何度も感じたことではあるが、やはりこの女の思想を理解することは出来ない。
重要なのは、俺がこの女を殺せば香車は平穏な日常を送れるということだ。
やれ、やるんだ。俺の手でこのバカげた事態を終わらせるんだ。俺が殺人犯になれば、全て終わるんだ。
この女の腹に、この包丁を突き入れれば……
「…………」
包丁を持つ手は依然震えている。
どうした!? 何で出来ない!? この女を殺して……
その後俺はどうなる?
俺の両親にも迷惑をかけるだろう。出所したとしてもまともな人生は送れない。そして何より……
俺は人を殺しておいて、のうのうと生きていられるのか?
それが頭をよぎった直後、様々な想像が頭の中で生まれてくる。
人を殺した罪悪感、世間からの罵倒、柏の家族への賠償。
二度と香車には会えないという未来。
耐えられる? 俺はそれに耐えられる? それは、それは……
「幸四郎?」
香車が不思議そうな声で訪ねてくる。
「何で包丁を落としたの?」
「……え?」
その言葉で、俺はようやく自分が包丁を手放して地面に落としていることに気づいた。
何でだ? 何で俺は……
「やはりね」
目の前にいる柏が口を開く。
「先のことを気にしすぎる君は、『狩る側』になれはしないということだ」
先のことを気にしてしまう。そうだ、俺はまた……
「幸四郎」
呆然としていた俺の目の前に香車が立っていた
「香車、俺はお前をたす……っ!?」
まるで言い訳のように言葉を出そうとした俺の腹に激痛が走る。
見ると、脇腹にナイフが刺さっていたそのナイフを持っていたのは……
「出来ないんだったら、どいてよ」
違う、違うんだ香車。俺は本当にお前を……!
ナイフが引き抜かれたと同時に、その場に崩れ落ちる俺を香車は見向きもしなかった。
これは罰なのかもしれない。
自分の将来を気にして、今この瞬間の香車を救わなかったことの罰なのかもしれない。
そんなことを考えても、もう遅い。俺はもう、立ち上がれなかった。
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