【5年前 8月4日 午後1時30分】
小学5年生の時点で、私の役目はすでに決まっていた。
「うわあああん!! ねえちゃあああん!!」
「ったく、うるさいな。また泣かされてきたのか? 水蘭」
「だ、だって、アイツら大勢でさあ……」
「わかった、わかった。ちょっと今、春蘭を寝かしつけたところなんだからあんまり騒ぐな。起きちゃうだろ」
家に帰るなり私に泣きついてきた上の弟の水蘭をなだめつつ、下の弟である春蘭が寝息を立てているのを確認して静かに部屋を出る。手間のかかる二人の弟の面倒を見るのも慣れたものだ。
「そんで? 何があったんだ?」
「ぼ、ぼくが……公園でゲームやってたら、同じクラスのやつらが『なんで家でやらねえんだよ、もしかして追い出されたのかよ』って言われて……ゲーム取り上げられたから、返せって……叫んだ……」
「お前はゲームを奪われたから相手に立ち向かったんだな?」
「そ、そうだよ……でも、返してくれなくて……逃げられた……」
「ならお前は悪くないだろ。ていうか相手は何人もいるのにお前一人から逃げたんだ。何を泣くことあるんだよ。お前の方が強いだろ」
「ぼくの方が……つよいの?」
「当たり前だろ、姉ちゃんがそう言ってるんだ。胸を張れ、胸を」
「……うん!」
言われた通りに胸を張る水蘭を見て、私も胸を張る。
「よし、泣いたら落ち着いたろ。リンゴ剥いてやるから座ってな」
「ほんと!? やった!」
「バカ、騒ぐなって言ったろ。春蘭が……」
そう言ってると、寝室の扉が開いて小さな体を揺らして春蘭が出てきた。
「ね、ねえちゃーん? どこー?」
「ほーら、姉ちゃんはここだよ。ほら水蘭、お前も兄ちゃんなんだから春蘭の相手してやんな。できたらリンゴ剥いてやるよ」
「えー? 春蘭ってすぐ泣いて暴れるからいやだよ」
「それはお前も同じだろ」
不満そうな水蘭に春蘭の相手を任せつつも、何か起こらないように目を光らせながら台所に向かう。包丁を扱う時に別のことに気を取られるのはよくないが、この場合はそうも言ってられない。私が気を抜けば、まだ幼い弟たちが大けがするかもしれないんだから。
私の家は両親と私たち3姉弟の5人家族だ。でも、5人全員が家に揃うことは滅多にない。春蘭が生まれた後、母さんは体調を崩しやすくなり、今も入院しているし、父さんはその入院費を稼ぐために全国をトラックで駆け巡っている。
そうなると必然的に弟たちの面倒を見るのは私の役目になった。別に父さんも母さんも「お前がやれ」とは言わなかったけど、母さんのお見舞いに行った時に言われた言葉が心に残ったからだ。
『今の時代、女の子も強くなくちゃね。鈴蘭は強くなってね』
母さんとしては日に日に弱っていく自分のようになってほしくないという意味で言ったのかもしれないけど、私には『強くなれ』という言葉は『弟たちも強くしろ』と言っているように思えた。どちらにしろ、私が面倒見ないと水蘭たちは弱いままだ。母さんは私ならできると思ってくれたから頼んだんだろうし、今のところは上手くいってる。
学校でも私の役目は家と同じだった。
「ふざけんじゃねえぞお前よぉ!」
「やめ、やめてよ! わざとじゃないって言ってるじゃん!」
「はいはいどうしたどうした。お前らまず離れろ」
「紅林、ジャマすんなよ!」
「ああ? ジャマされなくないなら、私とやりあうか?」
「うっ……」
男子のケンカの仲裁を私が請け負うことは珍しくなかった。いくら男子でも強気で行けば黙らせることができるし、日頃から弟たちの世話もしてるから男子が暴れても弟たちを落ち着かせるのとあまり違いを感じない。
いつしか先生にも、『紅林さんがいてくれて助かるよ』と言われるようになった。それは素直に嬉しかったし、強くなっているという実感があった。
この頃から既に、周りの誰もが私のことを『強い』と認識していた。
【2年前 9月20日 午後3時10分】
だけど中学に入って一年半が経った頃、私が置かれた環境は大きく変化していた。
「母さん、替えの下着とか持ってきたよ」
「ありがとう、鈴蘭。もうちょっと待っててね、もうちょっとで家に戻るから……」
「いいよ、無理しないで。家のことは私がやっておくから」
「本当にありがとうね。鈴蘭がいてくれてよかったわ。水蘭たちもお姉ちゃんがいてくれて幸せよね」
「……うん」
母さんは以前よりも入院する頻度が高くなり、父さんも家族を養うために忙しく飛び回っている。
前にも増して顔色が青白くなった母さんの顔を見ると、言うわけにはいかなかった。
水蘭が、不登校になっているなんて。
私が中学に入ってしばらくしてから、水蘭は学校を休みたいと言い出すことが多くなった。夏休みが終わってからはまだ一回も学校に行ってない。理由を聞いても話してはくれなかったけど、今年の6月に小学校に様子を見に行った時に大体の予想はついた。
なんてことはない。私が小学校を卒業したことで、悪ガキたちが調子に乗って水蘭をいじめ始めたわけだ。当然私は悪ガキたちに注意しに行ったけど、その後、水蘭はますます学校に行かなくなってしまった。
さすがに私も腹が立ったので、水蘭と言い争ってしまったことがある。
「なんで学校行かないんだよ! 周りの悪ガキがお前に乱暴しようが強く出ればいいだろうが!」
「……姉ちゃんにはわかんないよ」
何がわからないのかも言わないんだから私にわかるわけがない。だけど、いくら水蘭が家にこもってようと面倒は見ないといけないし、まだ小学2年生の春蘭のことも見てやらないとならない。
「う、ぐっ……」
中学校に入ってから、私も気分が悪くなる時が多くなってきたけど、休むわけにはいかない。私は強いけど、弟たちは強くないんだ。
【2年前 9月23日 午後3時20分】
中学校でも、私の役割は変わらなかった。同じ小学校から上がってきた友達に、「紅林なら率先してみんなを引っ張ってくれるから」という理由で学級委員を任され、学校行事の進行も私が中心で進めることがほとんどだった。
そしてその日は、文化祭が近いということで放課後に残って作業することになり、私が用具の整理は役割分担を決めてみんなに動いてもらっていた。
しかし、教室の後ろに陣取って作業もせずにお喋りを続ける女子2人がいたから、注意することにした。
「ちょっとアンタたちさ、口じゃなくて手を動かしてくれよ。アンタらには展示の飾りつけ作ってくれって頼んだだろ?」
「えー? アタシらこういうのやったことないしさ、やり方わかんないよ」
「だったら聞きに来いよ。なにお喋りしてんだよ」
「だって、紅林さんに聞いても、その通りにできないもん」
何を言ってるのかわからない。やり方を聞いたらそれに従って作っていけばいい話じゃないのか。そう言おうとしたけど、その前に男子たちが割って入ってきた。
「ああ、いいよ。俺たちがやるから、休んでてくれよ」
「ホント!? 助かるぅ。あ、そうだ。アタシらちょっと用事あるから先帰ってもいい?」
「いや、待てよ。用事ってなんだよ。そういうのがあるなら役割振られる前に言えよ」
「ええ? 言わなきゃならないの? 紅林ってプライバシーとかわからない人?」
バカにするように笑う女子たちを見るとイライラしてくる。こっちだって本来は母さんの見舞いにも行かないとならないし、水蘭たちのために食事を作らなきゃならない。それでも放課後に残って作業しないといけないから残ってるんだ。コイツらの用事とやらが、私のそれより重大で緊急だとでも言うのか。
「大丈夫だよ。俺たちがやるから、あ、たださ、文化祭終わったら一緒に打ち上げ行こうぜ」
「うん、わかった! あ、それとさ」
そう言って、片方の女子は男子の一人に耳打ちした。
「アタシがなんか言われたら、また守ってね」
耳打ちの意味がないほどに丸聞こえだった。まるで私に聞かせる前提かのように。
女子たちが手を振って教室を出た後、耳打ちされた男子は仲間たちに「お前やったな」と笑いながら小突かれ、何かを成し遂げたかのように祝福されていた。
意味がわからない。雑用を押し付けられただけなのに、なんでコイツらは仲間を祝福してるんだ。与えられた役目も満足に果たさないで投げ出すような女に言い寄られることがなんで嬉しいんだ。
「……あのさ、私もちょっと用事あるんだけど」
「そうなの? じゃあ、さっさと進めちゃおうぜ。紅林さん、次は何すればいい?」
「あ、うん……次はさ……」
私が役目を投げ出すのは、許されなかった。
【2年前 9月24日 午前8時10分】
昨日は結局私の帰りは遅くなり、家事の時間がズレこんだことで少し寝不足の状態で学校に行くことになった。
学校のトイレで用を足したけど、眠くて立ち上がるのも億劫だ。少し寝てしまおうかと思った時だった。
「あー、昨日マジで紅林が面倒くさかったねー」
「わかる。アイツなんでも出来るから調子乗ってない?」
個室の外から話し声が聞こえた。昨日途中で帰った女子2人の声だ。
「でもさ、アイツもバカだよね。文化祭の準備なんてテキトーにやって後は男子に任せりゃいいのに」
「言えてる。てかさ、ああいう子って大人になってもいいように使われるんじゃない?」
「そうだよねー、アイツあんなんじゃこの先ずっと周りに利用される弱い立場から抜け出せないよね」
……なんだと?
私が弱い? 私が利用されている?
ふざけるな、私が頑張っているから水蘭たちは生活できてる。私が頑張っているって母さんは褒めてくれてる。私が頑張って強くなったからみんなを引っ張っていけてる。
その私が、お前らより弱いはずがない。
「え、紅林さん……?」
個室から出て顔を引きつらせる女子たちの姿を見た瞬間、私の体は動いていた。
【2年前 9月24日 午前8時18分】
「離せ! 離せよ!」
複数の教師に体を掴まれても、私の怒りは収まらずに体をバタバタと動かしていた。目の前には顔や手に引っかき傷を負って血を流し、泣きじゃくっている女子2人がうずくまっている。
「落ち着いて紅林さん! あの子たちが一体何したって言うの!?」
「アイツらが! アイツらが私をバカにしたんだ!」
「そんなことでここまですることないでしょ! 紅林さんなら、もっと他の方法を思いつけたはずよ!」
……私なら、思いつけた?
「バ、バカになんてしてない……! 昨日紅林さんに怒られて、怖かったって話をしてただけで……」
「そ、そうです……私たち何も……」
違う。お前らは明確に私を見下していた。私を弱いと嘲っていた。だから私の方が強いと思い知らせてやったまでだ。
「おい、大丈夫か!?」
騒ぎを聞きつけてやってきたのは、昨日『また守ってね』と耳打ちされていた男子だった。
「何があったんだ!? おい、紅林さん、いくらなんでもこれはひどすぎんだろ!」
「ひどいってなんだよ! 私に何もかも押し付けるのはひどくないのか!?」
「誰もが紅林さんみたいに上手くできるわけないんだよ! 出来ない人に無理させるんじゃねえよ!」
男子はひとしきり叫ぶと、傷を負った女子たちに優しく声をかけた。
「ごめんな、『守ってくれ』って言われてたのにな。今度はちゃんと何かあったら駆けつけるからさ」
「うん、うん……怖かった……」
「それじゃ、保健室行くぞ」
女子に手を差し出して保健室に連れて行く途中、私は見た。
こちらを見て、勝利を確信して見下したように笑った女の顔を。
……ああ、そうだ。そうだったんだ。アイツらの言う通りだった。
私は強い。でもその強さは、周りの人間を救っても私自身を救ってくれるものじゃなかった。むしろ私にとっては重荷でしかないものだった。私個人がどんなに強くなっても、結局は集団の力の前には簡単に潰される。今の私のように。
今まで私は、他人任せで誰かに頼ってばかりの人間を弱いと見下していた。だけどそうじゃなかったんだ。
私が『弱さ』だと思っていたものこそが、今の世の中における『強さ』だったんだ。
【2年前 9月24日 午前10時40分】
その後、私は先生たちに事情を聴かれたけども、何も話す気になれなかった。結局は自宅に帰るように促され、両親が迎えに来れないから一人で学校を出た。
ぼんやりとした頭でフラフラとしか歩けない。私の全部が無駄だったんだ。周りから強いと思われるほどに、私の負担は増えていって最後にはこうして潰される。そして潰れた私のことは「すぐに立ち直れるだろう」と誰も手を差し伸べない。
全て投げ出してしまいたい。水蘭たちの姉であることも、頼りがいのある学級委員ということからも、紅林鈴蘭という名前からも、全て逃げ出したい。
私を、辞めてしまいたい。
「あ……?」
その時、私の目にある文字が飛び込んできた。よく見るとそれは雑居ビルの窓に書かれている文字だった。
「演劇教室……『スタジオ唐沢』……?」
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