遊園地での一件から5日経ったけど、メイジが私の前に現れることはなかった。もちろん警戒はしていたけれど、よく考えたら平日にわざわざ私に会いに来る可能性は少ない。気を張らないといけないのは土日だろう。
今日は金曜日。大学の講義は終わったけど、今日は寄り道する予定がある。
『黛さん、今日は僕の演技をお見せします』
携帯電話には弓長くんからのメッセージが入っていた。彼の通う演劇教室に行くとは言ったけど、私自身は演劇に興味があるわけじゃない。
その一方で、弓長くん自身には少し興味を持ち始めていた。彼は私のことをどんなに大切に思っているかメイジに見せつけると言っていたけど、どうしてそこまでしてくれるんだろう。そして、何をするつもりなんだろう。そこに興味はある。
もちろん彼に対して無警戒なのはまずい。だから今日は私一人で行こう。そう思っていた。
「ルリ、君が今日行く演劇教室だが、ここで間違いないかね?」
教室で隣の席に座っていたエミは、私に携帯電話の画面を見せてくる。そこには、『スタジオ唐沢』のホームページが表示されていた。
「うん、そうだけど?」
「ならば今日は私も行こう。ホームページによると、今日ならここの教室長とやらにも会えそうだからね」
「え?」
「私はこの演劇教室とやらに、非常に興味がある。そう言っているのだよ」
エミが演劇に興味があるなんて話は聞いたことがない。つまり彼女は、この『スタジオ唐沢』という場所そのものに興味を持っているということだ。
だとしたら、エミを連れて行くのはまずいんじゃないだろうか。エミが興味を持つということは、自分を容赦なく蹂躙する存在がいると考えているということだ。それだけで、『スタジオ唐沢』には危険な香りがする。
「エミ、ちょっとそれは……」
「あ、あの! 柏さん!」
制止しようとした私の声は、遠慮がちな高い声に遮られた。
「おや、財前くん。どうしたのだね?」
「あ、あの、その、立ち聞きしちゃったんですけど、今日もどこかに遊びに行くんですか?」
「そうだが?」
「よ、よかったら、私もご一緒していいですか? その、柏さんが興味のあるところって、どんなところなのかなって思って……」
「ふむ、私は構わないよ。ルリはどうだね?」
「……」
仮に『スタジオ唐沢』が危険な場所であるなら、私だけでエミを守るよりはもう一人いた方がいいだろう。なら、コイツも連れてくか。
「わかったわ。ならアンタも来なさい」
「あ、ありがとうございます! 実はその、この間は最後にちょっと変な空気になっちゃったから、また遊びに行きたかったんです」
「……それに関しては、謝罪するわ」
「あ! 違うんです、その、黛さんを責めてるわけじゃなくて……それで、大丈夫でした? あの人がまた来たりしませんでした?」
「今のところ来てないわ。来たとしても、無視するだけだからご心配なく」
「そうですよね! 黛さん、強い人ですからね!」
強い人、か。今の私ならメイジが来たとしても対応できる。エミのことだって守れるはずだ。
ただ、私自身のことを守れるかどうかはわからない。工藤メイジという男の前で、強い私のままでいられるとも思えない。
『僕が二度と立てないようにこらしめてやるよ』
頭に浮かんだ弓長くんのあの言葉。彼は私をメイジから守る人間になると言っていた。それが本当なら……
「さて、行こうかルリ。地図によると、『スタジオ唐沢』はM高校の近くのようだ。歩いて行ける距離だが、早くしないと日が暮れてしまう」
「え、ええ。行きましょうか」
エミの言葉を受けて、すぐに頭を切り替える。ここで考えてても仕方ない。まずは『スタジオ唐沢』に行かないと弓長くんの考えもわからない。
三十分後。
「ふむ、この場所で間違いないようだね」
『スタジオ唐沢』はM高校の近くにある商店街の端にあった。雑居ビルの三階フロアの窓にその名前が書かれている。
「それでは行こうか……おや?」
エミが私の後ろに視線を向けていたから振り返ってみると、前髪の長い女とその傍らに立つ制服の男がいた。
「か、柏先輩!? どうしたんですか?」
「おやおや、黛先輩……先日はお疲れさまでした……ひひひ」
制服の男、萱愛小霧はこちらを見て驚いている。一方で閂はいつもの不気味な笑い声を上げて、私に近づいてきていた。
「……ご機嫌はいかがでしょうか? 先日はかなり動揺されていたようですが」
「ご心配どうも。アンタに気を遣われるほどには弱ってないつもりよ」
萱愛に聞こえないように囁く姿が妙にムカついたので、皮肉で返してやった。
「というか、なんでアンタたちがここにいるの?」
「ええ、ええ、萱愛氏がこちらの教室長の方と知り合いということでしてねえ……」
「萱愛が?」
アイツが演劇教室の人間との繋がりがあるようには見えない。そう思っていると、萱愛は財前と話していた。
「あ、あの、あなたも、柏さんのお友達、なんですか?」
「はい! 萱愛小霧と申します! 柏先輩には二年前からお世話になってます!」
「そ、そうなんですね。私、その、S市立大学の財前です。えーと……萱愛、くんは、M高校の生徒なんですか?」
「そうですが、なにか?」
「……あなたも、柏さんに憧れてここに来たんですか?」
「は? いえ、今日は後輩に招かれてここに来たんですよ。ここの先生にも挨拶しようと思って……」
「そ、そうですよね! すみません、私ったら、気が逸ってしまって……」
「ひひっ、萱愛氏……立ち話するより、早くご挨拶をした方がよろしいのでは?」
「す、すみません」
閂の指摘で慌てて階段を上っていく萱愛に続いて、私たちも三階に向かった。
「失礼します」
「おっ、小霧くん。いらっしゃい」
教室の扉を開けると、中にはアイドルのドキュメンタリー番組で見るようなレッスンフロアが広がり、壁には大きな鏡が設置されていた。演技をしている姿をチェックするためのものだろう。
そしてその鏡の前にいたのは、50歳手前くらいの中年男性だった。大柄で後ろで髪を縛り、口ひげを生やした顔は、ホームページに載っていた写真と同じものだ。
「ん? そちらの方が、波瑠樹が言ってた人かな?」
男性はエミに顔を向けるが、エミの方も相手の顔をまじまじと見ている。
「……はじめまして、で大丈夫かな? 教室長の唐沢という方はあなたかね?」
「ああ、私のこと知ってくれてるんだね。はじめまして、『スタジオ唐沢』の教室長、唐沢清一郎です。よろしく」
「はじめまして。私の名前は柏恵美、おそらくは君の客人だ」
「ん? その話し方は……」
あ、まずい。いつも一緒にいたから忘れてたけど、エミの口調は初対面の人からしたら失礼に聞こえるかもしれない。ましてや相手は年上なんだ。
「ちょっと、エミ。話し方気を付けてよ」
「あ、いや、怒ってるわけじゃないんだよ。そうかー、ここまで影響受けてるんだねー」
「……君は、やはりそうか」
何かを納得したように頷いているけど、全然話が見えてこない。
「エミ、もしかして唐沢さんとは知り合いだったの?」
「いや。私は初めて会ったよ。萱愛くんは彼とは顔見知りではないのかね?」
「はい。唐沢先生には子供の頃からお世話になってるんですよ」
「ははは、別に私は世話なんてしてないよ。それに波瑠樹にここを紹介してくれて、助かってるのは私の方さ」
快活に笑うと私たち全員に目を配り、そして私に目を留めた。
「えーと、確か黛さんと言ったかな、波瑠樹が気になってるって人は」
「黛は私です」
「おっ、そうか。君が波瑠樹のハートを射止めた人か!」
そう言うと唐沢さんはその大きな身体をさらに大きく広げ、口を大きく開け……
「ありがとうっ!!」
フロア中が震えたかと感じるほどの大声でお礼の言葉を述べてきた。
な、なんだこの人。なんか、感情が大きすぎて逆に考えが見えない。みんなも今の大声に驚いていて、財前に至っては床にへたり込んでしまっている。
「い、一応聞きますけど、何のお礼なんですか?」
「うん? そりゃもちろん、波瑠樹に人を好きになるという気持ちを抱かせてくれたお礼だよ。私もねえ、演劇教室の講師という立場ではあるけど、彼のことが心配だったんだよ。なにせ波瑠樹は自分の意志というものがあまりにも希薄だったからねえ」
「え、そうなんですか?」
今までの弓長くんを見た限り、結構私に対してグイグイ来るタイプだと思っていたけども。
「それに関しては、小霧くんも詳しいんじゃないかな?」
「ええ……俺が弓長くんと初めて会った時も、相手に合わせすぎる子だなって思いました。だから彼に唐沢先生を紹介したんです。先生なら、彼に自己表現の方法を教えてくれるんじゃないかと思って」
「ははは、嬉しいねえ。そう言ってもらえると、この教室を開いた甲斐があったよ」
どうやらこの唐沢という人は、演技を教えるだけあって感情をはっきり示す人のようだ。その意味では、今の弓長くんに通ずるものがあるのかもしれない。
「ひひひひ……それで、弓長氏はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「ああ、閂さん。君も来てたんだね。波瑠樹なら今出てくると思うよ」
「出てくる?」
「ほら、あそこ」
唐沢さんが指し示したのは、フロアの隅にあるカーテンで仕切られた小部屋だった。直後にカーテンが開かれ……
「あ……」
ロングストレートのウイッグを被り、顔に冷徹な印象を受けるメイクを施した弓長くんが登場した。
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