柏恵美の理想的な殺され方

さらす
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第八話 子供

公開日時: 2020年11月7日(土) 19:30
文字数:4,742


 仲里先生の口から出た意外なワードに、俺は思わず瞬きをしながら驚愕した。


「仲里先生の……罪?」

「ああ、そうだ」


 仲里先生の罪。御神酒先生を過酷な道に歩ませたという罪。それは一体、何を意味しているのだろうか。


「さっき閂さんが言った通り、僕は御神酒先生の教え子だった。だけど、当時の御神酒先生はあのような思想はお持ちではなかったんだ」

「そ、そうだったんですか?」


 『あのような思想』とは、おそらく御神酒先生の『救える見込みのある生徒だけは絶対に救い、救えない生徒は見捨てる』という思想のことだろう。確かに俺も、御神酒先生が初めからあんな考え方をしていたとは思えない。そこには何か理由があったはずだ。


「僕はかつて、御神酒先生に救われた人間の一人だ。だが同時に僕は、先生を茨の道に進ませてしまったんだ」

「……待ってください、それってまさか!?」

「流石にわかったようだね」


 御神酒先生が進む、茨の道。それは……


「僕は御神酒先生があの思想を持つきっかけを作ってしまったんだ」


 『生徒を見捨てる選択』をしてしまう道のことだ。


「ひひひひ……これは思わぬ情報が得られそうですねえ……」


 仲里先生の言葉を受けて、閂先輩が口に右手を当てて笑う。


「ああ、話してあげるよ。七年前のあの時、御神酒先生に何があったのか」


 そして仲里先生から、七年前の出来事が語られ始めた。


 ※※※


「起立、礼!」

「ありがとうございました!」


 今日の最後の授業が終わり、クラスメイトたちが号令と共に一斉に起立して頭を下げるのを、僕はどこか冷めた目で見ていた。


「おい、仲里! ちゃんと立って礼をしろ!」

「……はい」


 そんな中で唯一起立していなかった僕、仲里淑行は教師からの叱責を受けることになった。


「ありがとうございました……」


 大人しく立って礼をすると、教師は満足げに頷いて教室を出ていった。

 別に最初から立って礼をしても良かったのだが、その時の僕は思春期特有の子供じみた反抗をすることこそが、自分の意志を通すことだと勘違いしていた。だからこのようなことをしたのだ。


 僕は、この学校のやり方が気にくわなかった。


 この学校は進学校であるM高校に受かる自信が無く、さらに滑り止めに私立を受けることも出来ない生徒が集まる、M高校よりワンランク下の所謂『自称進学校』だった。そのためなのか、通う生徒はM高校に進学出来なかった劣等感と、自分は少なくとも落ちこぼれではないという無意味なプライドの両方を併せ持っていた。

 この学校はそんな生徒の劣等感を刺激するかのように、膨大な量の課題を生徒に課す。その量に音を上げる生徒に対しては、『そんなんじゃ、また負けるぞ?』などの言葉を浴びせ、半ば無理矢理課題をやらせる。そうすることで、有名大学への進学率を上げて、学校のひいては教師の評判を上げようとしているのだ。

 僕はそういった、生徒の気持ちを自分のために利用しようとするやり方が気にくわなかった。だから自然とこの学校に反発するかのように、素行が悪くなり、成績も下がっていった。


「仲里、放課後に皆で図書室で勉強しようと思うんだが、お前もどうだ?」

「いや、僕はもう帰るよ。またね」


 僕は学校に乗せられる形で勉強に精を出すクラスメイトを内心見下す日々を送っていた。僕はお前等のような踊らされる人間じゃない、僕は大人に屈したりはしない、そんな自尊心の皮を被った言い訳を心に抱きながら。


 そんなある日のことだった。


「仲里くん、こんな所で何をしているんだ?」

「……御神酒先生」


 どうせ自分たちの為ではないとわかっている授業を受ける気にならなかった僕は授業をサボり、使われていない教室でマンガを読んでいた。その現場を御神酒先生に見られたのだ。

 当時の御神酒先生は髪も短く、物腰も柔らかで、よく快活な笑顔を浮かべるさわやかな印象の先生だった。だけど僕は、彼もまた他の教師と同じように、自らの評判のために生徒を利用する人間なのだろうと決めつけていた。


「ほっといてくださいよ。御神酒先生は僕のクラスは担当してないから、僕が何していても評価には響かないでしょ?」

「そういう問題じゃないだろう。私は教師で君は生徒だ。その関係である以上、私は君にきちんとした教育を受けさせる義務があるんだ」


 先生の正論が僕に向けられるが、どうせその言葉も自らの保身から来るものだろうとしか思えなかった。授業をサボっている生徒を見逃してしまえば、後で何を言われるかわからないからだ。


「じゃあ、僕が退学すれば御神酒先生は僕を放っておいてくれるんですか?」


 だから僕の自尊心は、またしてもやらないことの言い訳に使われた。


「バカなことを言うな! なぜそうやって直ぐに投げ出してしまうんだ! 君は努力したくない自分を正当化するために、教師を悪者にしているだけだ!」

「何で先生にそんなことを決めつけられないとならないんですか!? そんな証拠があるんですか!?」


 反抗期特有の、子供じみた攻撃。相手の言葉に正当性が無ければ、自分の言葉に正当性が無くとも勝ったと思いこむ浅い考え。この時の僕は、勝ちか負けか、敵か味方か、そういった二極化でしか物を考えられなかった。


「確かに、君がそうだという証拠はない」

「じゃあ、僕のことを放っておいてくれますか?」

「それとこれとは別の話だ。君には授業を受ける義務がある」

「何でですか? 僕にだって学校を辞める権利はあるはずですよ?」


 尚も子供じみた理論を振りかざす僕に、御神酒先生は近寄って両肩を掴んだ。


「ちょ、ちょっと……」

「いいか、仲里くん。権利だの自由だのを子供のうちから振りかざしてはいけない。なぜなら君たちはまだ、自分一人では何も出来ない子供だからだ。そんな子供が完全なる自由に放り出されたらどうなるかわかるか?」

「そんなの……その……」

「それに明確な答えを出せない以上、君にはまだ自由は早すぎる。大人しく大人の言うことを聞いていた方が安全だ」

「……」


 僕はまだ御神酒先生の言葉に完全には納得してはいなかったが、この時既に、御神酒先生が他の教師たちとは違うことを悟っていたのかもしれない。何故なら御神酒先生は、僕の子供じみた反抗にも真摯に向き合ってくれたからだった。




 数日後。


「先生、僕は補習なんて受けませんったら!」

「バカを言うな! このままだと君は本当に進級できないぞ!」


 僕は赤点を取ったために補習を受けるように言われていたが、既にこの学校への執着が無くなりつつあったために、退学も辞さないつもりでいた。だから補習も受けずにさっさと帰ろうとしたところを、廊下で御神酒先生に捕まったのだ。


「どうして僕を放っておいてくれないんですか!? 僕はもうこの学校にいてもしょうがないんですよ!」

「それが君の本心ならそれでいい! だが私には、今の君がただ自分の思い通りにならないから逃げだそうとしているようにしか見えない! 学校を辞めてどうするつもりなんだ!?」


 御神酒先生のもっともな指摘に、僕はこう返したのを覚えている。


「そんなの……! また他の学校でも探しますよ。それかどこかで働きます。それでいいでしょ?」


 要するに、何も決まっていなかった。僕は先のことなど何も考えずに、ただ目の前の困難を避けたいだけだった。


「……仲里くん。教師である私が、生徒がそんな無謀な選択をするのを黙って見逃すと思うのか? 担当でなくとも、君は私の大事な生徒の一人だ。だから私は、君にも幸せになって欲しいんだ」

「なら、この学校を辞めるのが僕の幸せですよ。それなら文句ないですよね?」


「……そうか。君がそういうことを言うのなら、私にも考えがある」


 そう言うと御神酒先生は携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。


「今から、君の就職先を斡旋する」

「え?」

「私の知り合いで、解体現場の作業員をしている人間がいてね。君が何の予定も立てずに学校を辞めるのであれば、私が君の就職先を用意してやる」

「ちょ、ちょっと……」


 僕にはこの時の御神酒先生がとても嘘を言っているようには見えなかった。事実、電話からは呼び出し音が聞こえていた。

 これはまずい。解体現場と言えば人手不足で、しかもかなりの力仕事になるだろう。ただの逃げで学校を辞める選択をしようとしていた僕には、その仕事に就くだけの度胸が無かった。


「ま、待ってください!」


 観念した僕は、御神酒先生を制止する。


「……わかりました。補習を受けます」

「うん、それが君の選択だね。良かった良かった」


 御神酒先生は携帯電話を切って、快活な笑顔で僕を迎えた。


 それからというもの、御神酒先生は何かと僕に関わってきた。


「仲里くん、最近はちゃんと授業に出ているようだね」

「……誰かさんに、過酷な仕事に就かされそうになりましたからね」

「ははは、手厳しいな。だけど君が授業に出てくれるのは嬉しいよ」


 だけど僕には気になることがあった。そう、御神酒先生は何故僕にここまで拘るのかだ。


「あの、御神酒先生。どうして僕を放っておかなかったんですか?」

「ん? どうしてと言うと?」

「担任の先生や僕のクラスの担当である先生は、僕に授業に出ろとは口を酸っぱくして言ってましたけど、先生は僕のクラスは担当していないじゃないですか。それなのに何で……」

「そうだね……」


 御神酒先生は一旦顔を俯かせたが、意を決したように僕の顔を見た。


「私にはね、目標があるんだ。関わった生徒全員を幸せにするという目標が」

「幸せ?」

「そうだ。教師という職業についた以上、自分が関わった生徒は絶対に幸せにする。それが私の信念だ」


 御神酒先生の信念。言っていることは立派だ。でも、現実にそんなことが可能なのだろうか? それに、その信念は本心からのものなのだろうか?


「仲里くん、私は人は誰でも幸せになる権利があると思っているんだ。幸せになってはいけない人間なんていない。そして教師は生徒が幸せになるように導く。それが正しいと信じているんだ」

「……」


 先生の信念が実を結ぶのかどうかはわからない。だけど僕はこの時思った。御神酒先生は本当に僕を救おうとしてくれているのだと。

 いいのだろうか。こうやって差し伸べられている手を払いのけていいのだろうか。


「先生……」

「ん?」

「僕も、幸せになりたいです。そのためには、どうすればいいですか?」

「それは君自身で探すことだよ。でも、私は出来る限り君のサポートはするつもりさ」


 そしてその言葉通り、御神酒先生は勉強をサボっていた僕のために問題集を作ってくれたり、色々な職業に関する資料を集めてくれて、僕の進路について一緒に考えてくれたりもしてくれた。


 そしてそういった真摯な対応をしてくれる御神酒先生を見ているうちに、僕はある決意をした。


「御神酒先生……」

「なんだい?」

「決めました。僕は、○○大学の教育学部を志望します」

「……そうか。でも、教師の現実は教えた以上に過酷なものだと思う。それでも進むんだね」

「はい!」

「うん、いい返事だ」


 僕の返事にいつも通り快活に笑う御神酒先生を見て、嬉しくなる自分を感じた時、僕は悟った。

 そうだ、僕はずっと御神酒先生のような教師に出会いたかったのだと。


 そうして僕は過酷な受験戦争を勝ち抜き、晴れて第一志望の○○大学に合格した。


「おめでとう仲里くん!」

「ありがとうございます!」


 僕の大学合格を自分のことのように喜んでくれる御神酒先生の笑顔は今でも覚えている。

 だが、この時は僕も、御神酒先生もまだ気づいていなかったのだ。理想だけでは人は救えないこと。そして、誰かの幸福の裏には誰かの不幸があること。言葉としてはそれらを理解していたつもりでも、明確な実感を得ていなかったのだ。

 

 だから思いもしなかった。それが僕が見た御神酒先生の最後の笑顔になるということを。



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