【7月30日 午後0時41分】
「なんでっ……エミちゃんはいつもいつも!」
私を前にしてもエミちゃんは全てを受け入れるような優しい表情を崩さない。なんでだ。なんでこの私を前にして、そんなに何もせずにいられるんだ。
もっと私を嫌えばいい。もっと私を憎めばいい。もっと私に失望すればいい。今まで私が出会ってきた人たちのように。
パパ譲りの見た目の良さを持ってしまった私にみんなは勝手に期待して、イメージと違うとわかったら勝手に失望する。パパと同じように。どうせ嫌いになるんだったら最初から嫌っていればいい。
だからエミちゃんも私を嫌えばいいんだ。黛さんを傷つけて、エミちゃんの望みを潰そうとした私を嫌えばいいんだ。そうすれば……
「やはり、香車くんが言った通りだったね」
なのにエミちゃんは私に何もしてこない。だから私も何もできない。
「君は自分を敵視しない相手を攻撃できない。今まで君が唐沢清一郎に協力していたのは、君自身が私を殺せないからだ」
やめろ、やめろ。私を理解しようとするな。私に歩み寄ろうとするな。
「だから君は自分の敵に囲まれたいと願っている。そうでないと、君は他人を嫌えないし攻撃できない。君に『他人に嫌われる幸せ』を教えてもらったことを思い出したが、幼い頃の私はそれを救いだと思っても幸せだとは思えなかった。今ならそれを理解できるよ」
あなたさえいなければ。あなたさえ私を嫌いになれば、あなたさえ私の前に現れなければ。
「君が他人に嫌われていたいのは、他人の期待を裏切り見放されることを恐怖しているからだ」
あなたさえいなければ、私はこの世界に何も『希望』を抱くことなく全てを嫌って憎めたのに。
「怖いかね? この私のことが。いや、私にさえ裏切られることが」
「やめて、来ないで」
「今まで君は必要以上に他人に怯えていた。だがそれは本当に怯えていたわけではない、怯えている態度を見せれば他人が自分を嫌うことを知っているからだ。それを私に教えてくれたのは、他でもない君だったね」
「うるさい! 知った風な口をきかないでよ!」
「知った風も何も、私は君を知っている。幼い頃の私にとって、救いとなるのは君だけだったのだから、私が君を嫌うはずもない」
「なんで! それだったらなんで!」
なんでもっと……!
「もっと早く、君に会いに行くべきだったね」
今さら私の前に現れたって遅いんだ。私はもうこの生き方を選んだ。誰もかもを嫌うために、誰からも嫌われないといけない。そうしないと私はこの世界を諦められない。苦しいまま生きなければならない。
だから私を嫌ってよ。私の敵になってよ。そうすれば私はあなたを遠慮なく排除できるのに。
「だが今の私でも遅くはないだろう。幼い私に道を指し示してくれた君を、今度は私が助けようではないか」
なんでよりによってあなただけは、私にそんな優しい顔を向けるんだ。
「思えば幼い頃の私は君だけを求めていた。父や母でも、他の誰でもない君だけを。君がいなければ私は『容赦なく殺される』という望みにすら至れず、何も持たないまま死んでいただろう。だから感謝はしているよ」
「違う! 私が求めてるのはそんなんじゃない! 感謝なんていらない! 私は……!」
「感謝されることに慣れていないのだろうね君は。だがそんなことは関係ない。私が君の行いに対して感謝するかどうかは私が決めることだよ」
「来るな来るな来るな!」
近寄るな、そんな優しい顔で近寄るな。私は全部諦めたんだ。今さら私に優しい声で囁いたって遅いんだ。
あなたがちゃんと香車くんに殺されていれば。あなたさえいなければ。
あなたさえ嫌うことができれば、私は不安に囲まれたまま全てを嫌えるんだ。
「これで最後だ、楢崎久蕗絵。私が憎いのならば、君自身の意志で私を殺してみたまえ」
エミちゃんは両手を後ろに回して無抵抗の意志を示す。
「君の力なら素手でも私程度は殺せるだろう? この私が抵抗するわけもあるまい。何も怖くないよ。さあ、やってみたまえ」
「ダメ、ダメ、ダメです! ダメですよ! 私を嫌わないと、私を嫌ってないと、私はあなたを……」
「香車くんは私のことを魅力的だと思ってくれていたよ。だから私を第一の獲物に選んでくれた。しかしそうではなかったとしても、彼を『狩る側の存在』だと知っている私を生かしておくことはしなかっただろう。私がどんな人間であったとしても」
「なんで? なんで私を嫌わないの? あなたが私を嫌ってさえいれば!」
「私が君をどう思っているのかは既に伝えたよ。その上で君が私をどうしたいのかと聞いている。私という人間がどんな人間なのかを知り、君に対する思いも知り、その上で私をどうしたいのかと聞いている」
どうしたいのか? そんなの決まってる。エミちゃんを私の前から消してしまいたい。
ずっとそうだった。小さい頃からエミちゃんだけは私を求めてくれた。エミちゃんだけは私を嫌わなかった。エミちゃんだけは私を安心させた。
エミちゃんだけは、私が不安という安心に浸ることを許さなかった。
だから、許せない。
「う、ああああああああああっ!!!」
振り上げた右手がエミちゃんの首に向かう。
そうだ、私がこうすればエミちゃんだって最後には私を嫌うんだ。さんざん私に優しい言葉をかけておいて、最後は私に裏切られたと思って、私を裏切るんだ。そうだ、そうする、そうしてくれ。
そうでないと、私は。自分を好きでいてくれた人を殺してしまう。
「なんっ、で……!」
そんな私の懇願を、エミちゃんは平然と踏みつけた。
「これが君の答えということか」
首を掴む寸前で止めた腕が、エミちゃんに掴まれる。掴む手にはそこまでの力はこめられていない。
それなのに私の腕は簡単にエミちゃんによって下に降ろされた。
「決まりだね、君は私を殺せない。そして唐沢清一郎も私を殺す理由が無くなった。ならばルリにとっても敵にはなるまい」
「エミ、ちゃん……」
「だが釘は刺しておかねばなるまい。この先、他の人間に対しても自分を嫌わせようとするならば、必ずこの私が現れると。そして君に対してこう囁く」
「あっ!?」
エミちゃんは私の耳に顔を寄せる。
「そんなことしたって、クロエおねえちゃんのことは嫌いにならないよ」
その声は、小さい頃に聞いたエミちゃんの声だった。
「感謝しているよ、楢崎久蕗絵。だからこれは君への礼だ。君がこの先、他人からの不安ではなく、自分自身の幸福にたどり着くための手段だよ。君が何をしたところで、この私に嫌われることはない」
ああそうだ、たった今、私はエミちゃんに呪いをかけられた。私がこの先、どんなに他人に嫌われようとしたとしても、今のエミちゃんが囁いてくる。
あの優しい顔と声で、決して私が不安に囲まれないことを突き付けてくる。
エミちゃんが私の腕を離すと、全身からどっと力が抜いて地面に座り込んでしまう。
「さて、帰ろうかルリ。ああ、その前にルリの代わりに宣告しておこうか」
何かを思いついたようなエミちゃんの声がまだ私の頭上から投げかけられている。
「認めたまえ、楢崎久蕗絵」
そして顔を上げた私が見たものは……
「この戦いは、私たちの勝利だ」
さっきと変わらない、まるで家族を見るかのようなエミちゃんの残酷なまでに優しい微笑みだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!