【7月5日 午後4時55分】
沢渡さんによる強烈な蹴りで気を失った紅蘭さんは、柳端によって竜樹さんの部屋に運ばれていった。向こうのことは柳端と綾小路さんに任せた方がいいだろう。
俺は俺にしかできないことをする。波瑠樹くんを助けるのは俺の役目だ。
「……兄さん」
アパートの廊下で震えてうずくまる竜樹さんに対して、波瑠樹くんは立ったまま兄を見下ろしている。
「なんだよ……お前、僕をどうするつもりなんだ?」
「……」
「なんとか言えよ……! おい! そっちの先輩と一緒に僕をリンチするつもりなんだろ? いいよなお前は! ずっと周りからチヤホヤされてたもんな! M高に入ってからもそうだったんだろ?」
「……」
「お前がM高校に入らなきゃ、僕はこんなに苦しむことはなかったんだ……辞めちまえよあんな高校! そうすれば僕はお飾りの兄貴にならなくて済むんだよ! 僕の望みを叶えろよ!」
あまりにも一方的な言い分に端から聞いているだけの俺ですら怒りがこみ上げてしまう。だけどここで口を出したらダメなんだ。俺は傍で見ていることしかできない。
俺は波瑠樹くんがどんな選択をしても軽蔑しないと約束した。俺が口を出せば、それは波瑠樹くんの選択ではなくなる。
「兄さんは、僕が嫌いだったんだね」
「そりゃそうだろ。お前がもっと僕より劣ってれば、こんな思いをすることはなかった。こんな騒動に巻き込まれることもなかったんだよ!」
「じゃあ、兄さんにとって一番理想の状況ってなに?」
「ああ?」
「わからないよ。兄さんは僕にどうなって欲しいのか、僕に何をしてほしいのか、何にもわからないよ。なんで僕が兄さんを殴らないといけないの? 僕は、兄さんを殴るような人間だって思われてるの?」
「知らねえよ! お前のことなんて何もわかんねえ! ずっとそうだ! お前はずっと何考えてるかわからない! だから僕はお前が嫌いなんだよ!」
「……」
竜樹さんの言葉を受けて、波瑠樹くんは一旦上を向いた後に合点がいったように頷いた。
「そうだったんだ……本当に最初から、あなたの中に僕はいなかったんだ……」
「ああ!?」
「ねえ兄さん。僕の思いを伝えるよ」
そして波瑠樹くんは、竜樹さんの前に屈んで目線を合わせ、その頭を両手で掴む。
「大嫌いだよ、クソ兄貴」
「ひっ……!?」
恐怖で視線を逸らそうとした竜樹さんの頭を力づくで自分に向けさせ、波瑠樹くんは尚も言葉を浴びせる。
「自分は何も努力しないくせに年下に反抗されたくないから僕を殴るし、僕のことは信じないのに紅蘭ちゃんのウソには簡単に騙されるし、自分に都合のいいことしか見ないし聞かない兄さんがずっと嫌いだったよ」
「ふ、ふざけんな! 僕はそんな人間じゃない!」
「いや、そんな人間だよ。兄さんは僕のことも自分のこともまるで知らない。そうだよね、そっくりだよね」
そして波瑠樹くんは苦しそうに顔をしかめる。
「……兄さんも、僕と同じで自分がどうなりたいのかまるでわからないから苦しかったんだよね」
そう言って、竜樹さんの頭から手を放して立ち上がった。
「ねえ兄さん。やっぱり僕は、あなたが嫌いだった。あなたが嫌いなのに、僕はあなたのために動いているって自分を騙してた。だから僕は兄さんの前にいるべきじゃないし、一生会わない方がいいのかもしれない」
……そうか、それが波瑠樹くんの選択か。
「だけど」
納得しかけた俺の予想に反して、彼の言葉はまだ続いた。
「もし、兄さんの前から僕が消えて、僕と兄さんがお互いに自分を見つめ直したら……」
今、波瑠樹くんは竜樹さんに背を向けている。だから彼の顔を見ているのは俺だけだ。
「僕はまた、兄さんと会いたい」
寂しさと辛さを必死に堪えている顔を見ているのは俺だけだ。
「行きましょう、萱愛先輩。僕の話は終わりました」
「……しっかりと見届けた」
「ありがとうございます」
……大丈夫だ。これでもう、波瑠樹くんは自分自身を見失うことはない。
兄とのわだかまりに立ち向かった自分を忘れない限り、彼はもう一度自分の人生を歩める。
【7月5日 午後5時03分】
波瑠樹と萱愛くんが立ち去った後、まだ僕は廊下で一人考えるハメになっていた。部屋の中にはまだ紅蘭や柳端くんたちが占領しているから入れない。
さっきの波瑠樹の言葉を思い返すと、やはり腹が立ってきた。
「クソが……! 偉そうなこと言いやがって!」
何が「また兄さんと会いたい」だ。思ってもないことを言いやがって。どうせまた自分が苦しくなったら僕を見下すために利用するつもりだろうが。
なんで僕ばかりがこんな目に遭うんだ。僕は何も悪くない。波瑠樹を殴ったのは紅蘭に騙されたからだし、紅蘭は都合のいいことを言って僕を騙した挙句に柳端くんに乗り換えた。僕は何も悪いことはしていない。
なんで僕の周りにだけこんなに敵が寄ってくるんだ。柳端くんだってバイトの後輩として世話してやったのに、結局は僕を裏切った。その上、今は僕の部屋を勝手に占領してやがる。
そうだ、現状では柳端くんも紅蘭も綾小路も、勝手に僕の部屋に入り込んでいる侵入者だ。警察に通報すればアイツらは全員犯罪者だ。全員破滅させてやる。
せっかくなら、萱愛も波瑠樹アイツらの仲間として通報してやる。年下の分際で僕に偉そうなことを言うヤツらを許せるわけがない。全員一網打尽に……
「うっ!?」
右手でスマートフォンを取り出した直後、白い小さな手が僕の腕を掴んでいた。
「……ひひっ、いけませんねえ……せっかく小霧さんと弟さんがお優しい忠告で留めてくださいましたのに……」
「な、なんだよお前は!?」
横を見ると、そこにいたのは長く黒い前髪で顔の右半分を隠した不気味な女だった。あれ、そういえばコイツさっき……
「うひっ!」
そ、そうだ、思い出した。コイツ、紅蘭に銃を向けてた女だ。今、僕の額に向けているのと同じ銃を持ってた女だ。
「まったく、本当に小霧さんはお優しいお方ですねえ……あなたのような人間に対しても、ただ静観することを選びました……ひひっ、あの方は本当にお優しい……だから愛しいのです……」
「な、なんだよ……いくらなんでも、本物じゃないだろこの銃? なあ? だからさっさと下ろせよ!」
「おやおや、おかしなことを仰いますねえ。本物じゃないと確信しているなら、さっさと私を殴るなり押さえるなりすればよろしいのでは?」
ハ、ハッタリだ。本物なわけない。こんな細くて小さな女が、本物の銃なんて持ってるわけがない。
そう思っているのに、目の前の女の不気味さと得体のしれない雰囲気が、どうしてもその可能性を捨てさせてくれない。
だからもう、僕は詰んでいた。
「あひっ! あぐああああっ!」
「ひひ、ひひ、ひひひっ……さっさと行動に移していれば、このような事態にならなかったというのに……」
銃の先からスプレーのような音が出たと同時に、僕の目に強烈な痛みが走る。全く前が見えない。痛い。
「最近はこういう形をした催涙スプレーも販売しているそうで……ひひっ、護身用にはもってこいなのですよ……」
痛みで地面にうずくまっているのか壁に寄りかかっているのかすらわからない。今の自分がどうなっているのかわからない。
怖い、こわい、怖い。
「ひひひ……先ほども申し上げましたが、小霧さんはお優しいお方です。ですが私は違います。あなたがつまらない逆恨みで弟さんを襲撃するのは構いませんが、もし私の小霧さんにも手を出すおつもりでしたら……」
何も見えない視界の中、ただ一つ映ったのは、僕をまっすぐ見据える恐ろしく見開いた目だった。
「再びその目を開けられると思うなよ、このザコが」
……この瞬間、僕の中から波瑠樹に仕返ししようなんて考えは完全に消え去った。
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