【7月29日 午後4時30分】
「すみません、柏さんには逃げられちゃいました」
「まいったねえ、こっちも樫添さんには逃げられちゃったんだよね」
樫添たちが唐沢のアジトから逃げ出して30分弱が経ち、生花たちがアジトに戻ってきた。木之内という男の言葉が本当なら、どうやら柏たちも上手く逃げ出せたようだ。
だが問題は俺だ。現在の状況を改めて確認しよう。
「ねえ、幸四郎。アンタこういう本好きだよね? 男と女が甘酸っぱい恋を送るって小説なんだけどさあ……幸四郎の好みが知りたくて読んでみたんだよ……ねえ、アタシ、この本の女に合わせてみたんだけど、どうだい?」
「……」
「き、気に食わなかったかい? じゃ、じゃあさ、幸四郎はどんな女が好みなんだい? アタシ、幸四郎を失わないためなら、どんな見た目にもなるからさあ。アタシの前にいておくれよ……」
俺は今、ソファーに座った状態で横にいる生花に抱き着かれている。生花の手は逃がすまいと言わんばかりにしっかりと俺の腕を掴み、足を絡ませてくる。交際していた頃も、コイツは俺を誘うように抱き着いてきたことはあった。だが今の状況はそれとは違う。
「こ、こうしろう、幸四郎。アタシと話しててつまらないかい……?」
「そんなことは言ってないだろ」
「な、なら、ここにいてくれるよね? ほら、今のアタシ、髪も黒くてメガネもちゃんとかけてて、幸四郎が嫌いな派手な女じゃなくなったからさ……ねえ、ずっと、ずっとここにいておくれよ……」
普段の生花は俺に抱き着いたり誘ってくるような言動をしても、あくまで主導権は自分が握っていた。俺を戸惑わせたりイラつかせることで自分が楽しんでいた。
しかし今の生花は違う。もし俺がこの場から黙って消えれば、泣き出して全てに絶望してしまうかもしれない必死さを感じる。あれだけ嫌いだと言っていたメガネを頭に乗せるのではなく耳にかけているのも俺からしたらあり得ないことだ。
どちらにしろ、抱き着かれた状態では逃げられない。どうにかコイツを説得して一緒に脱出するのが最善だが……
「おい、柏のことは取り逃がしたんだろ? このままじゃアイツらは俺たちに何するかわからない。スキを見て逃げるぞ」
小声で提案したが、生花はあからさまに表情を曇らせた。
「なんで恵美嬢の名前を出すんだい? 幸四郎の目の前にいるのはアタシなんだよ? もしかして、まだ、ダメなのかい?」
「そうじゃない。俺はただ……」
「いやだ、いやだ。幸四郎がアタシの前にいないなんていやだ。ねえ、幸四郎。アタシを見て。アタシの名前を言って。他のどんな女にも、どんな男にもアンタは渡さない……絶対に失いたくないよ」
くそ、やはりダメか。このままじゃ俺もここに捕らわれたままだ。どうする……
「あ、そうだ。唐沢のオッサンに会いたいって人を連れてきたんですよ。もう入ってきていいっすよ」
木之内が部屋の扉を開けると、外から一人の男が入ってきた。
「……久しぶりだな、唐沢」
「あれ? もしかして、タカさんですか? これはこれはお久しぶりですね!」
唐沢が笑顔で応対しているのに対し、男は鋭く刺しこむような敵意を隠さずにいた。
その顔を見て思い出した。確かこの男は白樺隆とかいう俳優だ。香車がコイツの出演する映画が好きでよく観ていたらしい。
「お元気そうでなによりです。まさかまたお会いできるとは思ってませんでしたよ」
「それは嫌味か? 俺が引退したことくらい知ってるんだろ?」
「ええ、存じてますよ。お時間が出来たから私に会いに来てくださったんですか?」
「お前じゃない。クロエに会いに来た」
白樺の言葉を聞いて、部屋の隅にいた楢崎が顔を上げて小さく呟いた。
「……パパ?」
立ち上がって部屋の中央に歩いていく楢崎を見て、白樺が口を開いて目を丸くした。
「ク、クロエ……クロエだな? クロエなんだな? 俺のことがわかるか?」
「……」
「今さら親父面して会いに来たのかって思うよな。俺もそう思う。だけど俺はもう昔の俺じゃ……」
「ダメですよ」
次の瞬間。
「うっ!?」
楢崎は自分の父親の腕を強引に掴んで、自分の首を絞めさせた。
「どうして私にそんな言葉をかけるんですか? パパはいつだって私を怖がらせてくれたじゃないですか」
「違う! 俺は間違っていたんだクロエ! たった一人の娘まで切り捨てた結果、俳優としての俺は世間から切り捨てられた! それを教えてくれたのはお前なんだ! お前がいなければ俺はもう、本当に、誰とも繋がってない!」
「ダメ、ダメ、ダメですよ。パパは私のことを嫌ってていいんです。そうすれば私はちゃんと不安になれます。その幸せを教えてくれたのはパパじゃないですか。ねえ、そうでしたよね?」
娘の言葉を聞いた白樺は怒りに歯を食いしばり、手を振りほどいて唐沢に掴みかかった。
「唐沢ぁ! お前が……お前とアイツが、クロエを変えちまったんだ! アイツが……斧寺霧人がいなければ、俺はまだ……俳優だけで生きていけたんだ!」
「何を怒ってるんですか? クロエちゃんは元々こういう子ですよ。父親としての役割をロクに果たさなかったあなたの代わりに、私が霧人先生の教えを授けたら、彼女は自分の望みに気づいたというだけです」
相手の怒りなど意に介さず平然と言い放った後、唐沢は白樺の肩を掴んだ。
「タカさん、今のあなたはもう『刃物』とも称された狂気に満ちた役者じゃない。そしてご自分ではその理由をクロエちゃんに家族としての情を抱くようになったからだと分析していらっしゃるようですが……」
唐沢は白樺に対して軽蔑の視線を向けた。
「あなたはそもそも大した役者じゃない。あなたが抱えていた周りに対しての身勝手な怒りがたまたま世間が受け入れやすい『狂気』で、たまたま世間が想像しやすい『狂人』だっただけです」
「なんだと……!」
「清美さんが言ってたでしょ? 『兄さんの怒りはみんなと同じ怒り』だって。無名の頃のあなたは『ミステリアス』と扱われていましたが、あなたという人間が世間に知れ渡るにつれて化けの皮が剥がれたというだけで、クロエちゃんは関係ありませんよ。その証拠に……」
そして今度は白樺の腕を振りほどいて言い放つ。
「清美さんは、あなたより霧人先生のことを恐れていましたよ」
「……!!」
その事実が何を意味するのかはわからないが、白樺は数歩下がりながら大きく動揺していた。
「ねえタカさん。清美さんが私と別れてあの男と……柏恵介と交際を始めた時、あなたが何と言ったか覚えてますか? あなたの怒りも狂気も、『世間が思う常識』に逆らっただけのもので、そこにあなた独自の要素はない。確かに役を演じるにあたって役者自身の要素が前に出すぎるのは問題ですが、『世間が思いつきやすい狂人』しか演じられないなら話は別だ。だからあなたに言われた言葉をそのまま返しますよ」
唐沢は白樺の頭を掴んで自分に目を合わさせる。
「『女取られたぐらいで動揺するんじゃねえよ、三流役者が』」
手を放すと、白樺はその場にへたり込んでしまった。
「さて、思わぬ邪魔が入っちゃったけどこれからどうしようか。樫添さんにも逃げられちゃったしなあ」
唐沢の顔が俺に向いたのを見て、思わず身構える。
「さっきも言ったが、俺を人質にしても柏は来ないぞ。俺にアイツを連れて来てほしいなら、生花を解放すると約束しろ」
「解放するも何も、その子が柳端くんと一緒にいたいのはその子自身の意志だよ。でもまあ、君が柏さんを連れて来てくれるなら悪い話じゃないかなあ」
ここだ。ここで唐沢に俺と生花が一緒に行動するように仕向ければ、なんとか脱出できる。さすがに見張りを一人付けてくるだろうが、楢崎ならともかく、あの木之内という男ならまだ振り切れる可能性はある。
「なら俺と生花で柏を連れてくる。信用できないならそっちの男を見張りにでも付けろ。それでどうだ?」
「おいおい、私は君に連れてこいなんて命令してないよ? それに、柏さんを連れてくるならもっと適任がいるんだよ」
そう言って、唐沢は再度白樺を見下ろす。
「ねえ、タカさん?」
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