【6月7日 午後1時00分】
「ここだよ、お兄ちゃん」
紅林が手で指し示したのはM高校近くの商店街の端にある雑居ビルだった。三階の窓に『スタジオ唐沢』と書かれている。
ここに来た理由は紅林の事情を知るためだ。事情を説明するために最も適した場所がここだと言われたからだ。
「お前が通ってる演劇教室か。しかしなんでここが……」
「それも中に入ってから説明するよ」
「……」
紅林は今も俺に上目遣いで微笑んでくる。その顔にはやはり学校で見せた頼りがいのある女子の面影はない。兄に甘える妹そのものだ。
確かにこれが紅林の本当の顔であるなら、俺に頼りたいという気持ちもウソではないのかもしれない。ましてや竜樹さんに立ち向かうなんてことも難しいだろう。
ただ、ひとつ気になることがあった。
「その前に聞かせてほしい。お前が誰かに頼りたいとしても、なんで俺を選んだんだ?」
『誰かに頼りたい』という気持ちが紅林自身の願いだとしても、『柳端幸四郎の妹になりたい』という願いがコイツ自身から生じたものだとは限らない。誰かに頼りたいとしても、この間まで接点もなかった相手をわざわざ選ぶとは思えない。
俺の妹になりたいという願いには、別の何者かの意志が介入している。そう考えてもおかしくはない。
「それはね、幸四郎お兄ちゃんが誰かに頼ってもらいたい人だからだよ」
「そんなことはない。俺は自分のことだけで手一杯だし、誰かを助けるだけの力も余裕もない。そもそも、俺の何を見てそう思ったんだ?」
「誰にも頼られたくない人は、自分に『誰かを助けるだけの力も余裕もない』なんて嘆かないでしょ? 幸四郎お兄ちゃんは本当は誰かを助けたい。同時に、誰も助けられない、誰にも頼られない人間になるのが怖い。違う?」
「ならお前は、俺のために俺の妹になろうとしてるのか?」
「そうとも言えるかもね。でもさ、一番の理由は……」
紅林は俺の腕にしがみつき、少し顔を赤らめながら俺の顔を見上げてくる。
「お兄ちゃんが、『強い』から」
その赤い顔には、どこか卑屈な笑顔が浮かんでいた。
なんだこれは? 顔を赤らめてはいるが、俺に対する好意があるような顔じゃない。どちらかというと、俺に対する恐怖と尊敬が同時にあるような……虐待されている子供がもう殴られないように無理して笑顔を作っているような顔だ。
そんな顔で見つめられると、俺の中に不思議な感情が込み上げてくる。まるで自分が強い男であるかのような、根拠のない自信が湧いてきている。
これは危険だ。頭ではそれを理解しているが、欲望に抗えない。
『弱い者を守る力のある強い人間』になりたい。その欲望に抗えない。
「く、紅林……」
「だめだよお兄ちゃん。『紅蘭』って呼んで」
「……紅蘭」
「うん、よくできました。じゃあ中に入ろっか?」
紅蘭に手を引かれて、俺はビルの中に吸い込まれていった。
【6月7日 午後1時12分】
「こんにちは」
「あ、紅蘭ちゃん、こんにちは!」
『スタジオ唐沢』の教室に入ると、俺とそう変わらないくらいの年齢の男子が明るく挨拶を返してきた。
「波瑠樹さん、こんにちは。唐沢先生は?」
「今はちょっと出かけてるよ。自由に使っていいらしいから、劇の練習してた」
「ふーん。ああそうだ、波瑠樹さん。竜樹さんに会ったよ」
「……!」
竜樹さんの名前を聞いたことで、波瑠樹と呼ばれた男の顔色が変わった。
「……兄さんは、なんて言ってたの?」
「やっぱり波瑠樹さんのことは好きになれないって」
「そう……だよね……」
さっきまでの明るさが消え去り、自嘲するように呟いている。
どうやらコイツが竜樹さんの弟のようだ。兄弟仲は良くないとは聞いていたが、思ったより深刻らしい。
「あ、お兄ちゃん、紹介するね。この人は弓長波瑠樹さん。M高校の二年生で、『スタジオ唐沢』の生徒だよ」
「……柳端幸四郎だ」
俺の名前を聞いた直後、波瑠樹はなぜか顔の前で両手を叩き、再び明るい表情に戻った。
「あなたが柳端さんなんですね! 萱愛先輩から話は聞いてます。大切な友達だって」
「萱愛から?」
「はい! 実は僕、萱愛先輩にはお世話になっているんですよ!」
確かに萱愛なら、こういう素直な後輩のことは気に入りそうだ。
「じゃあ、お互いのこともわかったし本題に入ろうか、お兄ちゃん」
紅蘭は俺の前に椅子を置いて座るように促して、自分も別の椅子に座った。
「さてと。まずはわたしと竜樹さん、それに波瑠樹さんとの関係から説明するね。わたしがこの『スタジオ唐沢』に通い始めたのはちょうど一年前くらいなんだけど、去年の秋に波瑠樹さんもここに入ったんだ」
「萱愛先輩に紹介されたんですよ。僕が自分の意志を出すのが苦手だって言ったら、『自己表現の手段を教えてくれるかもしれない』って言ってくださったんです」
ああ、そういえば萱愛が前に『演劇教室を開いている知り合いがいる』とか言ってたような気がする。それがここの教室長ということか。
「ただ、去年の年末くらいに、兄さんにここに通っていると知られてしまったんです」
「それの何が問題なんだ?」
「兄さんは……僕のことが嫌いみたいでして……僕がM高校に受かったのが気に入らないって……そう言ってました」
絞り出すように声を出す波瑠樹の話を聞いて、思い当たる節はあった。
『いやさ、もう新人の指導ってあんまりしたくないんだよ。特に年下の女とか』
『く、ふざけんなよ……! 年下の女がいい気になりやがって……!』
以前から思っていたことだが、竜樹さんは自分より年下の人間に反抗されたり文句を言われるのを極度に嫌うタイプだ。さっきの綾小路や生花に対しての逆上も、アイツらが竜樹さんより年下であるという部分が大きい。そしてその逆上が、自身の弟にも例外なく向かうのだとしたら。
竜樹さんが波瑠樹と仲が悪い理由も想像がついてしまう。
「だけど仕方ないんです、僕は兄さんが求める弟になれませんでした。だから嫌われて当然だと思います」
「……ん?」
「僕がもっと兄さんの『オーダー』に応えられていれば……兄さんの理想の弟になっていれば……怒らせずに済んだのに……」
なんだコイツ。てっきり竜樹さんを恨んでいるとかだと思ったが、そうでもないのか?
「それでね、波瑠樹さんが『スタジオ唐沢』に通っているって知った竜樹さんが、ここに来たことがあってね。その時に私とも出会ったんだ」
「お前と竜樹さんがさっき揉めてたのも、波瑠樹のことに関連するのか?」
「ううん、それとは別」
そう言って、紅蘭は俯いて呟く。
「あの人、わたしに迫って来たの」
「は?」
『迫ってきた』という言葉の意味を考えても、ひとつしか思い当たらない。まさか竜樹さんが、数個下の女子高校生と関係を持とうとしていたということか?
「あの人ね、自分より弱い人間が好きなんだよ。わたしも頼れる誰かがいてほしいってずっと思ってたから、最初はオーケーしようかなってなったんだけど、あの人が弱い人間を求めるのは、自分の予想を超えない相手を支配したいって意味なんだよ」
「じゃあ、竜樹さんは……」
「うん、わたしを束縛しようとした。だからさっきも殴られそうになったの」
信じられない話ではあるが、今となっては真実味を帯びてきている。俺の中ではもう、弓長竜樹という男はそれほどまでの悪逆さを持つ人間でもおかしくないのだ。
「ねえお兄ちゃん……わたし一人じゃあの人には勝てない。でも、波瑠樹さんだって竜樹さんと仲直りしたい。だからさ……」
紅蘭は顔を上げて、涙を溜めた目を見せてくる。
「わたしたちをたすけて、お兄ちゃん」
……なるほどな。
これが紅蘭が身を置いている現実。確かにこれは紅蘭一人ではどうにもならないことだ。
「……わかったよ。紅蘭」
コイツは俺に助けを求めている。そしてコイツを助けられるのは、現状では俺だけだ。
だったら、それに応えてやる。
「竜樹さんのことは、俺がなんとかしてやる」
「……ありがとう!」
俺の返事を聞いた紅蘭は目に涙を溜めながら、見る者に「かわいらしい」と思わせる笑顔を浮かべていた。
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