「くっ!」
即座に足を止めて、無理やり身体を数歩下がらせる。急激な動きに脚が悲鳴を上げるかもしれないが、それを気にするのは後だ。
とにかく現状、空木晴天が武器を手にしてしまっている。そうなったら私たちの不利は変わっていない。
「黛センパイ!」
「……」
センパイに呼びかけても返事はない。意識はあるけど、まだいつものような強さを感じられない。センパイがこの局面をなんとかひっくり返してくれるかもしれないなんて期待は持てない。もちろん柏ちゃんにも頼れない。私がなんとかしないと。
「樫添くん、ルリを頼む」
「柏ちゃん!?」
私の考えに背くかのように、柏ちゃんは立ち上がって晴天に向かい合っていた。
「待って。柏ちゃんはセンパイと一緒にここを出てよ。私が時間を稼ぐから……」
「確かに『獲物』である私は戦うことに向いていない。ましてや『狩る側の存在』に勝てるはずもない。君やルリが立ち向かった方がいいだろう」
「だったら!」
「だが、この男に対しては私が決着をつけねばなるまい」
「あ……」
そうだ。そもそもこの戦いの発端は、柏ちゃんを『希望』に縋らせたいという企みから始まっている。朝飛が黛センパイを狙うのも、沢渡が私たちを襲ったのも。
全ては、空木晴天の目的に付随するものでしかない。
「あーあーあー、柏さん。君と話すのは後回しにしたいんだよね。まずは朝飛さんを解放してもらわないと」
「残念だが、君の事情など知ったことではないよ。それに興味もない。どうせつまらないものだろうからね」
「相変わらず手厳しいなあ。でもさ、君にボクがどうこうできると思っているのかい?」
「思っているとも」
そう言って、柏ちゃんはためらいなく晴天に近づいていった。
「君の目的が私を『希望』に縋らせることなら、私を殺すことなどできるはずもない。だから君はつまらない。私にこうもあっさりと動きを止められてしまうのだからね」
柏ちゃんに腕を掴まれても、晴天が抵抗する様子はない。確かにコイツの目的からしたら、柏ちゃんを傷つけることは絶対にできない行為だ。だから柏ちゃんは空木晴天に対抗できる。
「あーあーあー、これは困ったなあ。朝飛さーん。まだそっちは時間かかりそうですかー?」
笑いながら振り返る晴天の視線の先では、まだ夕飛さんが朝飛を押さえていた。
「……ちょっと待ってて。お姉ちゃんを黙らせるから」
「この状況でよくもそんなことを言えるわね」
しかし夕飛さんの表情に余裕はない。さっきも言ってたけど、『思考の切り離し』とやらで自然と身体を動かしていられるのは長くないんだろう。その証拠に、夕飛さんの動きが鈍ってきている。
「お姉ちゃん、無理しちゃダメだよ」
「ぐっ!?」
朝飛は強引に後ろに身体を倒し、夕飛さんを壁に叩きつけた。そのことで腕を離してしまい、夕飛さんは床に倒れこむ。
「はい、これでいい?」
「お見事ですよ。じゃ、これ返すんで、さっさと済ませちゃいましょうか」
「うん、ありがとう」
晴天は持っていた包丁を朝飛に渡す。これはまずい。
「柏ちゃん! こっちに戻ってきて!」
朝飛が再び武器を手にした以上、また危険な状態に戻ってしまった。まずは柏ちゃんの身を守らないとならない。
「樫添くん、君はルリを守っていてくれ。さて、空木医師。聞きたいのだが、弟君はどうしたのだね?」
「どんてんくんなら、“ちょっと話したら”わかってくれたよ。今は玄関の前でじっとしててもらってる」
「アンタ……! 曇天くんに何をしたの!?」
「夕飛さん、言ったじゃないですか。ボクはどんてんくんと“ちょっと話した”だけですよ。あーあーあー、確かですね。こう言ったかな?」
晴天はわざとらしく首を傾げた後に、爽やかな笑顔を浮かべた。
「朝飛さんがボクに味方した以上、『あの契約書』は無効になるかもって」
……その『契約書』とやらが何なのかは全くわからないけど、その言葉が曇天さんを封じ込める効果があることはわかった。
「君のやり方は理解しているよ、空木医師。おおかた、弟君にも『自分を見逃せばその契約書の効力を維持するように掛け合う』などと、根拠のない『希望』を持たせたのだろう?」
「すーるどいね、柏さん。それだけわかってるなら、ボクの『希望』はお気に召さないのかな?」
「私が君の言葉に耳を傾けることはないよ。だが、君には私の言葉に耳を傾けてもらおう。現在、我々はルリの身柄を確保した。そこにいる『狩る側の存在』、棗朝飛がルリを殺すことも難しいだろう。ならば既に君の計画は頓挫している。違うかね?」
「うーん……」
そうだ。既に私たちは黛センパイを助け出す寸前まで来ている。仮にここで朝飛が黛センパイを殺せたとしても、それは晴天の目的を完遂したことにはならない。なぜなら柏ちゃんがセンパイの死を目撃しているのであれば、そこに『希望』など存在しないからだ。
「まあ、仮に私と棗朝飛をこの場所に二人きりにしてくれるのであれば、私としては歓迎なのだが……それを私の支配者が許すはずもない。そして君の目的にも反する。つまりもう、この場はお開きだ」
その時、柏ちゃんは背中に手を回し、私にだけ見えるように指を黛センパイに向けた。
柏ちゃんは晴天たちに退くように要求している。向こうがこれを呑むかはわからない。だから私にこう指示している。
今のうちに、黛センパイの目を覚まさせろ、と。
これは時間稼ぎだ。その意図を汲んだ私は、センパイに囁く。
「センパイ、あの姿を見て下さい」
「え……?」
「柏ちゃんは今、晴天に立ち向かっています。自分のことを『獲物』だと言っているあの子が、戦うことではなく、蹂躙されることを願っているあの子が、らしくないことをしているんです」
そう、柏ちゃんは空木晴天と対峙している。『狩る側の存在』である棗朝飛を目の前にして、自分の願いを満たしてくれる殺意を身に受けて、それでも晴天と戦うことを選んでいる。
なんのために?
「黛センパイと、私のために」
その事実を知ったセンパイの目が見開かれた。全く、やっと気づいたか。
「センパイはさっき言いましたね? 『エミは私を守らなくていい』って。確かにそうなんでしょう。柏ちゃんの願いからすれば、センパイを守る必要なんてない。なのに彼女は私たちを守っている」
「あ、あ……」
「アンタ、何してるの? 柏恵美の支配者? そう思うなら、なんでここでうずくまってるの?」
「私、は……」
「アンタが知ってる柏恵美は、単なる邪魔者を体張ってまで守る女だった?」
そんなわけがない。
だから、彼女のあの行動には意味がある。
黛瑠璃子をそこまでして守りたいという意味がある。
それがわかったんなら……
「さっさと立ち上がりなさいよ! 黛瑠璃子!」
柏恵美の支配者は、復活できる。
ゆらりと立ち上がった黛センパイの目に、もう迷いはなかった。
「……まだ頭がクラクラするわ」
黛センパイの姿を見て、夕飛さんも朝飛も、晴天も驚いている。だけど一人だけ、歓喜の表情を浮かべる女がいた。
「起きたか、ルリ」
「……いいえ。まだ本調子じゃないわ。でもね……」
そしてセンパイは柏ちゃんと入れ替わるように晴天たちの前に立つ。
「私のエミを狙うアンタたちには、手出しはさせない」
この時、黛センパイを助け出すという目的は達成された。
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