「ひーっ、ひぃーっ……ど、どうやら、既に決着はついていたようです、ね……」
小さく息を切らす声が聞こえたと思うと、俺の後ろで閂先輩がフラフラと歩いてきていた。いつも通りの長い前髪が汗で顔に貼り付いてしまっているのを見ると、黛さんと一緒にここまで走ってきたのかもしれない。それでもその顔には笑顔が浮かんでいる。
いつもの相手に不気味さを感じさせる笑顔じゃない。俺の無事を確認したことによる、安堵の笑顔だ。
「……閂先輩」
しかし俺は迷っていた。その笑顔に応えていいのだろうか。結局のところ、俺は閂先輩を最優先すると言いながら、弓長くんを応援したいという自分の欲望に従ってしまった。先輩は最初から弓長くんの危険性を見抜き、俺に忠告もしていたにも関わらず、先輩の意図を察することができなかった。そして今回の混乱を引き起こしてしまった。
だから閂先輩はメイジさんと手を組んだんだ。俺を助けるには、俺から見えないところで動くしかなかったから。
「か、萱愛氏……ひひっ、弓長氏も助けたようですね……」
「……その方がいいと思ったからです」
「そうでしょう。あなたはそう考えるお方です……」
「……」
弓長くんを地面に座らせ、まだ息を切らしている先輩に向かい合う。
「話はメイジさんから聞きました」
「ひひひ、そうですか……でしたら私があの男に黛先輩の情報を伝えていたことも聞いたのですね?」
「はい」
「……そうですか」
先輩が息を整えるのを待ってから、俺は地面に両手を付いて頭を下げた。
「申し訳ありませんでした! 閂先輩!」
「……」
「俺は……! 先輩のことを……いや、自分のことをまだわかっていませんでした。俺は、先輩を含めた周りの人たちを助けたいのは、純粋な善意だと……自分をごまかしていました。でも違った。本当は、唐木戸を助けられなかった償いをしたいだけだったんです」
もし、俺が本当に閂先輩を優先していたのなら。先輩の忠告を聞き入れて、弓長くんを疑っていたはずだ。そうすればもっと早く彼の本質に気づくことができた。唐沢先生に利用されることもなかった。
それに……閂先輩を危険な目に遭わせることもなかった。先輩もある程度は勝算があった上でメイジさんと手を組んだのだろうけど、一歩間違えれば先輩の身が危なかったかもしれない。
「……なぜ、あなたが謝るのですか?」
しかし顔を上げた俺の目に映ったのは、苦しそうに顔をしかめた閂先輩の顔だった。
「なぜって、俺は閂先輩の気持ちをなにも……」
「私はあなたに黙って、独断でメイジさんに接触したのですよ……? ひひ、そうです。そうしないとあなたが悲しむだろうとは思いました。私のやり方では、萱愛氏は助けられても、弓長氏は助けられません」
「それは……」
「ひひ、ひひ、そうですよ。私は弓長氏……いえ、唐沢先生に潜む悪意も全て察知していました……にも関わらず、それをあなたに伝えなかった……」
「それは! 閂先輩が俺のことを案じて……!」
「結局は! 私はあなたのことを信じ切れていなかったのですよ!」
「……!!」
「ひひ、ひひ、とんだ哀れな女ではありませんか……『閂香奈芽を選ぶ』と、言葉だけではなく行動で示してくださった男性の善意を……今になってまだ信じ切れていないのですよ……私はあなたの身を案じていたのではありません……ただ恐れていたのです……」
「あ……」
「萱愛氏が、私から離れてしまうのではないかと」
初めて見た。いや、たぶん見せまいとしていたんだ。閂先輩は今のこの顔を見せるわけにはいかないと耐えていたんだ。
なぜなら見せてしまえば、それに付け込まれてしまうから。自分が弱く、攻撃しても構わない存在と見なされてしまうから。
だから閂先輩は、今に至るまでずっと誰にも泣き顔を見せるわけにはいかなかった。それは俺に対しても例外じゃない。
この人もまた、捨てられることを恐れていたんだ。それこそ、弱さを隠すことに耐えられないほどに。
「先輩……ありがとうございます」
なら俺は、彼女を安心させないとならない。俺には閂先輩が必要なのだと、伝えなければならない。
「……俺一人では、唐沢先生の悪意には気づきませんでした。先輩が懸念した通り、口で説明されても信じられなかったかもしれません。俺にはまだ、世の中に存在する悪意を受け入れられないんだと思います」
「私を……許してくださるのですか?」
「違います。お礼を言っているんです。先輩がいたからこそ、俺は唐沢先生に利用されなかった。弓長くんのことも助けられた」
「ですが、それは……」
「他人の悪意を理解している閂香奈芽さんが俺の隣にいてくれたことが、今の結果に繋がったんです」
香奈芽さんの前髪はまだ顔を隠している。だから俺はそれを手で掬った。
そこには、両目から涙を流して必死に戦い抜いた女性の顔があった。
「香奈芽さん、俺はまだ未熟です。いや、たぶん一生をかけても他人のことなんて理解できないんだと思います。ですがあなたが、他人の善意を信じられないと言うのなら。俺がいつでも示してみせます」
「え? あ……」
「萱愛小霧には、閂香奈芽さんに感謝し、その幸福を願う心があると」
香奈芽さんは今までの人生で、あまりにも人間の悪意を直視しすぎた。自分の叔父に殴られたこと。御神酒先生や綾小路さんの事件のこと。そして他人を利用して生きるしかなかった自分自身の悪意を。
だったら、俺がそれを吹き飛ばすほどの善意を示せばいい。俺が、彼女に味方していると理解させればいい。
既に俺は、この人を選んでいるんだから。
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