キーンコーンカーンコーン……
授業の終わりを知らせる鐘が鳴る。この後のホームルームが終われば、下校の時間となる。
しかし、私のクラスの大半の生徒はまだ学校に残る気のようだ。無理もない。
私たちはもう三年生。今は九月なので、受験まではもう半年程度なのだから。
ホームルームが終わると、やはり大半の生徒は教科書を広げて自習するようだ。
そんな中、私は早々に教室を出て二年生のクラスに向かう。当然、目的は『彼女』だ。
階段を下りて、足早に二年生のクラスがある階に向かう。はやる気持ちを抑えきれない。
そして目的のクラスの前に立つ。まだホームルームが終わっていないようだったので、廊下で待っていた。
「……それでは、今日はこれまで」
「起立、礼、ありがとうございました」
教師の話と、日直の号令が教室の中から聞こえ、やがて生徒たちが教室から出ていく。教室から出てきた生徒の一部は私を見て眉をひそめるが、そんなことは関係ない。
私はある程度生徒たちが教室から出ていったのを確認すると、待ち望んでいた瞬間を迎える。
窓側の、一番後ろの席。そこに『彼女』は座っていた。
「……やあ、来たね黛くん」
『彼女』と出会って一年半が経った。はっきり言ってこの一年半は、それまでの私の人生とは比べ物にならないほど波乱に満ちた時間だったと思う。
何しろ、今まで体験していなかったあらゆることを体験したのだ。
『彼女』との楽しい会話、かけがえの無い時間。
『彼女』との一時の別れ、苦しかった時間。
『彼女』を狙う者との戦い、命を懸けた時間。
……そして、『戦い』の末に、私は『彼女』を救い出した。
私は『彼女』の目的を邪魔した。だけどそれでも、私が傍にいるのを『彼女』は許してくれている。
それが本当に嬉しい。『彼女』と過ごす平穏な、安全な日常が本当に嬉しい。
『彼女』と会えて本当に良かった。私の人生に意味が出来て良かった。だけど、不安は無いわけでは無い。
「あのさ……」
「どうしたのかね?」
私の問いに、『彼女』はいつもの微笑みを崩さずに接する。
しかしその顔には、痛々しい擦り傷を隠すための絆創膏が貼られていた。
「その傷ってさ……転んだんだよね?」
「そうだよ、私の不注意でね。君に傷を見せるのも心苦しいのでね、こうして隠させてもらっている」
嘘だ。『彼女』が転んだなんて嘘だ。
私は知っている。『彼女』に起こっていることを。
最初は夏休みに入る前のことだった。『彼女』が保健室に運ばれていったと聞いて、急いで駆け付けたのだ。
「先生!」
「黛さん、どうしたの?」
「えっと、ここに二年生の女の子が怪我をして運ばれたって聞いたんですけど……」
「ああ、お友達なの? 大丈夫よ、そこまでひどい怪我じゃなかったから」
「よ、よかった……」
保健室の先生から無事を聞かされ、私は安堵する。そして『彼女』がいるベッドのカーテンを開けた。
「は、入るよ」
「おや、黛くん。わざわざ来てくれたのか。ありがとう」
「うん、それはいいんだけどさ……」
確かに『彼女』は見た目に大きな怪我をしている様子はない。話では、体育でアクシデントが起こったとのことだったが……
「あの、どういうことなの?」
「おや、原因は聞いていないのかね?」
「うん、聞いているけど、私としては納得いってない」
「ほう、何故だね?」
納得はしていない。なぜなら『彼女』は体育を見学していたはずだからだ。
『彼女』はあまり体が強い方ではないため、体育を見学することはたまにあった。そして今日もそうだ。なのに、アクシデントが起こって怪我をした? そんなのは納得できない。
しかし私は、それを口に出来ないでいた。恐れていたのだ、深入りしすぎて『彼女』に嫌われることを。
「……まあいいさ、今回のことは私の不注意。もう遅いし、君も早く帰りたまえ」
「でも……」
「黛くん」
「……わかった」
半ば『彼女』に押される形で、その日は家に帰った。
しかしそれからだ、『彼女』がたびたび怪我をするようになったのは。
最初は単なるアクシデントであるという体裁のものが多かったが、最近では大っぴらに『彼女』に暴力を振るう生徒が出てくる始末だ。どう考えてもおかしい。
しかし『彼女』は私に対し、暴力を受けていることを頑なに隠していた。それが何よりも悲しい。
『彼女』が私にそれを隠すのは、私を気遣っているからではない。自身の目的のためだ。私がその目的を妨害することを懸念してのことだ。
私が未だ、『彼女』と敵対する存在だという事実を突きつけられているということだ。
だけどそれでも私は、『彼女』の傍にいたい。『彼女』と共に生きていたい。
その決意は、揺るがない。
翌日。
私はいつも通り、『彼女』を迎えに行こうとした。
だがそれを阻む者たちがいた。『彼女』のクラスメイトである女子たちだ。
「センパーイ。ちょっと用があるんですけどー。一緒に来てくれます?」
……どうやらまだ、私の望まない日常は続くようだ。だけど関係ない。
私はなんとしても、『彼女』との平穏な日常を取り戻す。
「センパーイ、着きましたよ」
後輩の女子たちに連れて行かれたのは、二年生の教室と同じ階にある空き教室だった。女子の一人が教室の扉に鍵をかける。
「で? 用はなんなの? 私は忙しいんだけど」
これは本心だ。私としては一刻も早く、『彼女』との時間を過ごしたい。こんな全く興味の持てない人たちと関わるのは時間の無駄でしかないのだ。
「愛しの『彼女』に会いに行きたいからですかー?」
女子の一人が発した言葉に、他の女子もギャハハハと笑う。……ああなるほど、そういうことか。
「そうよ、あなたたちと話す時間より、『彼女』と過ごす時間の方が私にとっては何百倍も大事。だから早いところ終わらせて欲しいのだけど」
どうやら、この女子たちは私が『彼女』と親密にしていることを『異常』だと判断し、苛めのターゲットにしたいらしい。
全く、本当にいじめっ子というものはどうして似たような思考しかしないのだろう。群れを作り、自分たちの中の『普通』を『正義』と位置付け、それに反するものを『悪者』にすることで、自らの行いを正当化する。とにかく徹底的に自分たちを『正義』にして相手を『悪者』にすることに長けている。ある意味では尊敬に値する。傍から見たら、目を覆いたくなるほど醜いけれど。
「なにそれ? 自分がレズだって認めるんですかー? ああ気持ち悪い」
「本当だよね。あの『カカシ女』と好んで付き合うなんて、先輩も変態なんですかー?」
……なにこれ。
とりあえず、『カカシ女』というのは『彼女』のことを指すらしい。どんなに暴力を受けても無抵抗だからつけられたとか。
だとしても、別に私が変態であろうがなんだろうがこの女子たちには関係ない。なのに彼女たちは私にわざわざ因縁をつけてきた。嫌いなはずなのに。
その理由は一つ。自らの『正義』を強引に証明したいからだろう。
だからこうして、大勢の仲間で徒党を組んで私を潰しに来ている。私が潰れれば私が『悪者』、この女子たちが『正義』になるのだろう。
くだらない。その行動そのものが、自分たちの『正義』に疑問を持っているということに他ならないのに。
本当に自分たちを『正義』だと思っているのなら、こんなことをしなくても公の場で私を糾弾すればいい。それが出来ないのはこの女子たちの中にも後ろめたさがあるからだろう。
そこまで考えて、『彼女』のことを思い出す。
『彼女』は違う、こんな奴らとは根本的に違う。『彼女』は別に自分が間違っているかとか、外れているかなんてどうでもいいと考えている。ただ自らの目的に進み、ただ自らの信念に沿って歩いている。そして何よりも、その信念は揺るぎない。そんな『彼女』だからこそ、私は惹かれたのだ。
そして何より、『彼女』は私を大切な友人だと言ってくれた。そしてその信念に沿って、私を救おうとしてくれた。だから私は『彼女』を守りたい。そして『彼女』と一緒に過ごしたい。
「センパイ。黙ってないで何とか言ったらどうですか?」
「それとも、図星だから何も言えないんですかー?」
しまった。つい、自分の置かれている状況を忘れていた。
「ごめんなさい。あなたたちのことが眼中に無かったから忘れてたわ」
そしてつい、本音が出てしまった。うん、これは仕方がない。
しかし、女子たちは私の態度がお気に召さなかったようだ。
「うーわ、こいつ開き直ったよ」
「アタシたちだって穏便に済まそうとしたのにさー。ホント失礼だよねー」
穏便も何も、私はまだあなたたちも目的すら聞かされてないんですが? そう思っていると、女子の一人がロッカーからモップを持ってきた。見た所、水がきちんと絞られていなかったために、ぐしょぐしょに濡れている。
「センパイはきっと、あの『カカシ女』に関わっているからバイキンが移ったんですよ」
「そうですよ。だから綺麗にしてあげようと思いましてー。アハハ」
そういうと、モップの濡れた毛の部分が私の顔に押し付けられた。床の汚れをふんだんに吸ったモップは、かなりの悪臭がした。
「ほらほら、もっとこすって汚れを落としてあげますから」
「あれー、なんかもっと汚れてない? ああ、元々が汚れているからか。アッハハハ!」
……さて、どうしようか。
これをやられているのが私一人だったら、この場でこの女子たちに反撃すればいい話なんだけど。ただ、おそらくこいつらは『彼女』にも同様の行いをしている。そう考えると、深い怒りが湧いてくる。
以前の私なら、こいつらに少し反撃するだけで終わりだっただろう。だけど今の私は『彼女』と出会っている。そして、『彼女』を巡る戦いを経験してきている。
だから知っているのだ。こいつらより遥かに恐ろしい存在がいたことを。それに比べれば、こいつらなんて屁でもないことを。
うん、決めた。こいつらにはもっと深く反省してもらおう。私ではなく、『彼女』に手を出したことを。
そう考えている私の前で、勝ち誇った笑いを上げる女子たちを見ると、もはや憐みさえ覚えた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!