七本槍市 七本槍商店街 楽器店兼リハーサルスタジオ EDITION
七本槍駅でリンジくんと落ち合ってすぐにEDITIONに来た。リンジくんはお店に入るなり、レジカウンターにいる同世代の男の子に声をかけた。
「こんちはー」
「お、リンジさん、ちわす」
同世代の男の子は軽く頭を下げて座っていた椅子から立ち上がった。で、でかい。諒さんと同じくらい背が高い。
「あ、省吾君、こんにちは。夕香さんか諒さんいる?」
このでかい男の子は省吾君というのか。それもリンジくんと顔見知りのようだ。
「夕香さんはいるっすよ。いま呼びます」
そう言うとレジカウンターの反対側にあるショーケースの上に乗っているマイクに向かった。
「えーっと、夕香社長、来客です。カウンターまでー。……ちょっと待っててください」
「うん」
しゃ、社長を呼び出すのに随分とぞんざい、というかフランクな呼び出しだ。大丈夫なのかと心配になってしまう。
「それにしても久しぶりっすね」
そう省吾君が言う。何だろうその割にあまり感情がこもっていないというか、投げやりというか、嫌な感じこそ全くしないのだけれど、感情の起伏が乏しい人なのかな。
「だねぇ。最近は向こうで色々買い揃えちゃって……」
「まぁそりゃそうっすよね。バンドの方はどうっすか?」
ここにきて消耗品を買うよりは、十三橋市の楽器店で買った方がはるかに手早い。諒さんへの恩義がっあたとしてもこの手軽さには勝てないと言ったところかな。それにリンジくんはファイヤーマスクもやっているのだ。それだけでも谷崎諒への恩義に応えることにはなっているはずだ。
「うん、八月のイベント出るよ。省吾君は?」
「俺らは都合悪くて出れねっす。出たかったんすけどね」
ほうほう、省吾君とやらもバンドをしているのか。出られないとは残念だ。見た目はイケメンと言えば、ギリギリ滑り込みセーフくらいか。い、いやまことに勝手ながらの私の個人的な判断だけれども。
「そっかぁ、残念。じゃあ歩ちゃんの応援だね」
「そうすね」
な、歩さん?
「あ、あの……」
いきなり知っている名が出てきたものだからついリンジくんの肩を叩いてしまった。
「あぁ、ごめんハナちゃん。彼は鷹中省吾君。歩ちゃんの彼氏だよ」
「え!あ、歩さんの!」
そう言えばこの間彼氏がいると言っていた。歩さんは一五〇センチもないくらい小柄だけれど、この彼氏、省吾君は一八〇センチはあろうかという長身だ。そう考えると物凄い身長差だ。
「イケメンでなくて申し訳ない」
省吾君はそう、やはりどうでも良さそうな感じで言って頭を下げた。なんということで頭を下げるのだ、この人は。それに多分私ごときの判断で大変申し訳ないけれど、どちらかと割り切ればカッコイイのではないだろうかと思う。
「い、いえ、そ、そんな!」
手をパタパタと振り、首を横にぶんぶんと振る。そもそも歩さんの彼氏を私なんかが評価してどうするのだ。
「リンジさんの彼女すか?可愛いっすねぇ」
い、いやちょっと待って、今の会話の流れからすれば仕方のないことかもしれないけれど短絡的過ぎやしませんか。あと可愛くないです、こちらこそすみません。
「でしょー。でも残念ながら彼女じゃないんだ。香椎羽奈ちゃん。十三橋市でシンセで弾き語りしてるんだ」
でしょー、だとう……。い、いや今そこは考えないでおこう。また変にパニックを起こしかねない。私はこれから人生初のアルバイトの話をするのだから、ここでパニくる訳にはいかないのだ。
「お、そ、それは失礼。あ、そういやその名前、歩から聞いたなぁ」
「ど、どうも……」
歩と呼び捨てにするということは歩さんと同い年か年上なのかな。だとすると私より年上だ。いけないいけない。
「歌もシンセもすげー巧いって」
「あ、い、いえ……」
歩さんにもそんなに高い評価を得ていたとは嬉しい。上か下か、巧いか下手かではないけれど、まだまだ私は歩さんには及ばない。でもそんな歩さんが口頭レベルで普通に話してくれていたという事実は、それがお世辞でも何でもないということの証のようで本当に嬉しい。
「よーっすぅ、リンジ!久しぶり!」
そんなことを考えてちょっとにやにやしそうだったところに声がかかった。声の方に視線を向けるとそこには超弩級とでも言えば良いのか、ともかく美女としか形容のしようがない美女が立っていた。明るい髪色のウェーブヘアが胸元まで伸びていて、すっきりとした顎のライン。切れ長の目にすらりとした鼻筋。欠点を探すのが難しいほどの、女優ですらこんなに綺麗な人はいないのではないかと思う程の、ともかく美女だ。ま、まさかこの人が。
「あ、夕香さん、こんにちは。お疲れ様です」
や、やはりそうか!こ、こんな美人が谷崎諒の奥さん!涼子先生もびっくりの美人だ!
「あ、か、香椎羽奈です!」
バキィ!
は、人の格の違いとはこういうものか、思わず斜め四十五度のお辞儀をしてしまっていた。
「お、あんたが羽奈ね!そんなお辞儀なんてしないでいいわよ、バイトしてくれるんでしょ?助かるわぁ」
そう言って夕香さんは胸元のウェーブヘアを背中に払った。おぅ、綾崎眠よりも様になっている!い、いや眠さんも凄く魅力的な女性だけれど、夕香さんには何と言うか貫禄というか、オーラがある。私には背後に燃え盛る炎のオーラが見えているかもしれない。
「え、あ、め、面接とかは……」
「ないわよそんなもん!で、いつからやれるの?」
とんでもないことをあっさりと言ってのける社長。私とは今日、今が初対面のはずなのに、信用されているということなのだろうか。
「夕香さん、その前に仕事の説明を……」
ちょいちょいと手を振ってリンジくんが苦笑する。そうだ本当に私にできる仕事があるのか、それが問題だ。だけれど、何だろう、夕香さんは私の持つロフストランドクラッチには目もくれなかった。つまり、そんなことなど些末なことなのかもしれない。
「あ、そうね!基本的には発注書関係の事務仕事。身内スタッフからの電話応対と行程調整」
「え……」
行程調整?そんなもの、アルバイトがして良い仕事なのだろうか。身内スタッフとの電話応対ならば、恐らく私にも慣れればすぐに出来そうな気はするけれど、楽器店の行程ってそもそもどういうことなのだろう。
「それ、いきなりは難しくないですか」
「え、やれるわよ。そんな難しいことじゃないってば」
私が全くの素人だということを当然判った上で夕香さんは言っているのだろうけれども、それでも、という気持ちは当然ある。
「そもそも楽器屋さんで行程調整ってどんなお仕事なんですか」
リンジくんに訊いてもらってばかりでは立つ瀬がない。私も思い切って訊いてみた。
「あ、楽器屋の仕事じゃないのよ。夏休みになるとさ、あちこちでフェスだのイベントだのあるでしょ」
「は、はい」
楽器屋の仕事じゃない?しかもフェス?確かに夏場は大きな会場で様々なアーティストが出演するライブイベントが多く開催されるそれはつまり……。
「諒……。旦那のレーベルのバンドがそのあちこちに出る訳よ。そうするとローディーが足りなくてこれもまぁバイトで賄ってるんだけど、それでも一チームで二現場三現場回らないといけないから、それの調整」
なん、と……。
自分たちでやれるバンドは恐らく、できることはやっているのだろう。だけれど、そもそもがプロのバンドだ。設営などは会場側や運営側が行うにしても、機材搬入などはやはりローディーがやらなければならない。アーティストがそれをすることによって、アーティストが怪我をして演奏ができなくなってしまっては元も子もない。つまりはそのローディーさんたちの調整ということか……。それは、確かにデスクワークではあるだろうし、脚のことはあまり気にしなくても良いのかもしれないけれど、脚のことは関係なく、そもそも私にできる仕事なのだろうか。
「調整って、どんな調整なんでしょう」
まさか現場とチームの振り分けを一からやるとなると、正直私では無理な気がする。身内のスタッフとの電話応対はその行程調整の電話なのかもしれない。
「基本一チームで回る現場は決めてあるけど、トラブルがあると次の現場に支障が出る場合があるでしょ。そういう時に、どの現場のチームが一番早く次の現場に行けそうか、とかの調整ね。今はGPSもあるしネットで地図も見れるし楽勝よ」
「なるほど……。でもトラブルがないと、待ってるだけじゃないですか?」
そもそも予定されている通りに事が運べば行程調整を私がする必要はないという訳だ。となると、トラブル待ちの間は何をすれば良いのか。
「まぁその間は、楽器店の方の書類打ち込みとかポップ作りとかしてもらいたいけど」
ポップ作り……。キーボードやギターやベースに貼ってある金額や、メッセージなどを手書きで作るアレか……。何か絵を描けば地獄絵図になると言われるこの香椎羽奈にポップを作れと……。
「打ち込みってなんです?」
ぐぬぬ、と唸り声をあげた私を見てかリンジくんが苦笑する。
「発注書。お客からの発注はバラバラだから、それをうちの書式に打ち直さなきゃなんないのよ。普段はやってくれる子もいるけど、うち、学校にも教材とか降ろしてるし、夏休みの間にそこらじゅう学校とか文化会館のピアノの調律も行かなきゃいけないんで総動員なのよね」
なるほど。諒さんの会社、GRAMのバンドのローディーにピアノの調律。夏休みともなれば、中学生バンド、高校生バンド、専門学生バンド、大学生バンドが平日でも練習に来る。何だったら私が涼子先生に師事していた時のように、個人レッスンでピアノやドラムを教える人も教わる人もスタジオを利用する。なるほど通常営業の時と比べれば確かに人手不足なことは働いていない私でも判るほどに明白だ。
「なるほど。勤務時間はどんな感じです?」
そうだ、学校が終わってからのアルバイトではないから一日働くようになる。
「とりあえず八時五時でお昼一時間と交代で十時三時に十五分休憩。まぁ店は九時までだけどスタジオは基本二十四時間営業してるから羽奈が都合の良い時間に合わせてもいいけど」
二十四時間……。そのうちの八時間。宿題をしなきゃいけないことを考えると、午前中に宿題をやって、午後から仕事をした方が良いか。そうすると午後一時から午後九時まで。大体就寝時間は零時から午前一時……。いやこれは無理がある。だとするならば朝八時から五時までの方がゆっくり時間が取れる。
「だって、羽奈ちゃんどうする?」
「え、えとやらせてください!あ、明日からでも!」
やるなら早い方が良い。できるかは判らないけれど、宿題だってもっと早くに起きればやれないこともないし、仕事が終わってからでも充分に時間はある。
「お、良いわね!じゃあ早速宜しくね!ちなみにアタイのことは社長とか呼ぶんじゃないわよ」
く、とサムズアップしてウィンクまでする。完璧な美女だ!
「夕香さん、な」
省吾君いや、省吾さんが言って頷く。やっぱりあまり感情は読み取れないような言い方だけれど、少しだけ嬉しそうな感じはする。やっぱりただ単に感情の起伏が少ないだけで、無感情という訳ではなさそうだ。でもそれもそうかもしれない。なんて言ったってあの素敵な歩さんの彼氏なんだから。
「そそ」
「宜しくお願いします!」
バキィ!
あぁ、またやってしまった。い、いやでもこれは一アルバイトが社長にお願いするのだから間違ってはいないはずだ。
「やめなさいってば。とにかく人手が足りないからもし友達とかでバイト探してる子がいたら誘ってみて」
ふぁさ、とまた髪を後ろに流し夕香さんは笑った。諒さんと言い貴さんと言い夕香さんと言い、フランクな付き合いをしたいのかな。先ほどの省吾さんの呼び出し方を考えても、通常の会社の上下関係では有り得ないことだけれど、このお店にとってはそれが当たり前なのだろう。私もあまりに堅苦しいのは苦手だからいくらか気持ちは楽だけれど、逆にフランクすぎるのも考え物だ。
「りょ、了解です!あの、履歴書とかは……」
今日はともかく話を聞いてみたいと思っていたので流石に履歴書までは用意していない。どんな仕事内容なのかを聞いてから、面接があって、という行程を全てすっ飛ばして明日から採用だなんて全く考えてもいなかった。
「要らないわよそんなもん、と言いたいところだけど、明日以降で構わないわ。どうせ体裁整えるためにしか保存してないしね」
ま、まぁ確かに履歴書というのはそんなに重要度があるのかどうか、私には判らないけれども雇用法などで問題があるのかもしれない。
「それ言っちゃダメなやつじゃ……」
苦笑してリンジくんが言う。
「別に信頼できないような子なら雇わないし、羽奈は涼子からも諒からも色々話聞いてるから信用できるでしょ」
い、いやむしろそれだけで信頼されるものなのだろうか。
「ま、そうですね」
「そうなの!」
リンジくんの苦笑に私が驚く。例えば今日初めて会う仄の友達がいたとして、仄の友達だからと言って……。
いや、仄の友達ならば少なくとも悪人ではないことは判る。つまりはまだそのレベルということかもしれない。
「それだけの信頼関係があの人たちの間にはあるんだよ」
「そういうものなのね……」
少しは理解できた。きっと私と仄以上に長い付き合いや信頼関係がある。そしてまだ私にはない人生経験がある。そう老成した目で見れば、私のことなどお見通しなのかもしれない。
「そ。まぁないと何かあった時に困るからね、詳しく書かなくても良いから持ってきといてね」
「は、はい」
後でコンビニエンスストアで履歴書を買って帰ろう。
「じゃあ羽奈、宜しくな」
「あ、は、はい!」
省吾さんがにこりと笑顔になる。やっぱり笑顔の割に口調は淡々としている。つまりこういう人なのだろう。無感情でも感情の起伏が少ない訳でもなく、のんびり呑気。反射で動くのではなく、色んな事柄が省吾さんに浸透するのに時間がかかるのかもしれない。そう考えるとなんだか面白い人なのかも知れない、と思える。
「ま、明日からしばらくは引率的なの一人つけるから心配ご無用!」
「わ、判りました!」
引率……。い、いや大丈夫、以前よりはいくらか人見知りだって改善されているはず。それに人見知りが酷かった時だっていきなり人に噛み付いたりはしていない。
「じゃあ宜しくね、羽奈!」
「こちらこそよろしくお願いします!」
ん、と頷いて人差し指と中指をぴょこ、と立てると夕香さんは仕事に戻って行った。ど、どこまでも美人でカッコイイ人だ。
「僕涼子さんのお店で晩御飯食べて帰るけど、羽奈ちゃんはどうする?」
「あ、じゃ、じゃあ私も行く……」
時間も時間だったから晩御飯はいらないと……。うんまぁ正直に言うとこうなるだろうと思っていたから晩御飯はいらないと言って出てきた。
「よしゃ。じゃ行こう。省吾君また!歩ちゃんに宜しくね」
「うっすー、また」
省吾さんはひらひらと手を振って笑顔になった。やっぱり何だか変な人だ。
「あの、リンジくん」
EDITIONを出て歩き始めると私は声をかけた。
「んー?」
「色々取り計らってくれてありがと」
うん、言えた。良かった。いくら諒さんからの働き掛けがあったとしても、色々と取り計らってくれたのはリンジくんだ。
「いやいや、僕は諒さんに言われただけだから」
「で、でもさっきも色々夕香さんに訊いてくれたし」
気を抜けば私はただ黙って聞いているだけになってしまうところだった。そうなればまた夕香さんの私に対する印象も変わっていたかもしれない。
「まぁ夕香さんはパワーのある人だからね。僕の方が話し慣れてるからさ」
「だとしても」
私が普通にアルバイトができないことを理解していて、それでも色々と気遣ってくれた。普段からリンジくんの気遣いは癪に障るとは思ってはいるけれど、でも、それでも嬉しいし、有難いことには変わりない。
「あ、そうだなぁ、じゃあ涼子さんのお店で一品奢ってもらおうかな」
リンジくんにしては珍しい要求だ。でも私にとっては少し嬉しい。
「……一品と言わず全額どうぞ」
なのでこれまでのお礼も兼ねてそう言ってみる。
「やー、流石にそれはやり過ぎだね」
パタパタと手を振ってリンジくんは笑った。
「そんなことないと思うけど、まぁじゃあ初バイト代が入ったらまた何か奢ってあげる」
気の早い話だけれど、まだ七月だ。七月分のバイト代が入ったとしても微々たるものだろうけれど、それでも食事一回分ならそれほど高くつく訳ではないし。
「お、いいねそれ。ハナちゃんの初任給で何か奢ってもらえるなんて光栄だよ」
「お、大袈裟ね」
私も記念すべき初給料でリンジくんと食事できるならそれは嬉しいことだけれど。やっぱりそれを素直に口にすることは出来そうもないな。
「そんなことないよー。ちゃんと正社員になった時とはまた別だけどさ、ハナちゃんの人生初のお給料で何か奢ってもらえるなんてやっぱり光栄なことだな、僕にとっては」
「そ、そぉ……」
リンジくんがそう思ってくれるんだったら、やっぱり私も嬉しい。か、と顔が熱くなってくる。
「今日はなぁに食べようかなぁ」
夜空を見てリンジくんが言う。もしかして、リンジくんも少し照れてるのかな。
「リンジくんって結構食べるよね」
「いやいやあんなの普通だと思うよ」
前に一緒に食事した時はピラフとパスタを食べていた。私からしてみれば二品はかなりの量だ。
「ま、まぁそうか……。お父さんも外食だとあのくらい食べてたし」
「流石に女の子と比べられちゃうとね」
確かにパスタだけだと男の人は少し物足りないのかもしれない。普段からあの量を食べていたらさすがに太りそうな気もするけれど。
「あ、そう言えばリンジくんて実家暮らしなの?」
そんなことも知らなかった自分に気付く。リンジくんへの気持ちはもう私自身も誤魔化しきれない。リンジくんが重たい、他人には吹聴できない過去を背負っていることは知った。働きながら高専を目指していることも知った。正義の味方をしていることも、音楽をやっていることも、ギターも歌声もその性格の通り、優しい旋律を奏でることも知っている。でも普段からどんな生活をしているのか、家族構成はどんななのかも、何も知らなかった。
「や、会社の寮だけど独り暮らしだよ」
「そ、そうなんだ……」
もしかして過去のせいで実家から出ているのかな。家族ともうまくはいっていないのかな。いつも食事はどうしてるのかな。外食ばかりなのかな。知りたいことが山ほど出て来てしまう。
「まぁ家賃格安だし助かってるけど、食事は偏りがちだねー」
会社の寮だと、光熱費だけ払えば良いという会社もあるらしいので、貯金をしているだろうリンジくんにとっては確かにありがたいのかもしれない。それにしても食生活が偏れば、当然体調不良を起こす要因にもなるだろうし、そうなってしまうと仕事も、音楽もできなくなってしまう。
「肉ばっかりとか?」
「ま、まぁそうだね。一応サプリメントでビタミンとかは摂ってるけど」
「そか……」
勤勉な性格のリンジくんのことだ。サプリメントもしっかり摂っているのならそんなに大袈裟に考えなくても大丈夫なのかな。大量に摂取しなければいけない野菜よりも、サプリメントの方が効率が良い、なんていう話も聞くし。どこまで本当なのかは判らないけれど。
「あぁ!」
「な、なにっ」
ぱん、と手を叩いて急に声を高くするものだからちょっと驚いてしまった。
「良いこと思いついてしまった!」
「何よ……」
きっとろくな思い付きじゃない……。そんな気が、激しくする!
「初任給じゃなくてもいいからさ、今度お弁当作って欲しいな!前みたいに!」
「は、はぁ?」
やっぱり!そもそも私の料理の腕はまだまだだ。以前皆にお弁当を作った時だって、お母さんと美雪がいたからできたと言っても過言ではない。いや過言ではなく事実だ。私一人ではせいぜい味のぼやけた卵焼きしか作れなかった。
私の声があまりにも反発的に響いたのだろうか。びくりと肩をすくめる。い、いや、その、そういうこと、期待してくれているのは嬉しいのだけれど、スキルが完全に追い付いていない……。ともかく私主導でお母さんに手伝ってもらえばなんとかな……待って、お母さんに突っ込まれたらどうするの。好きな人にお弁当作ってあげるの、なんて一匹狼の香椎羽奈が、母親に言う訳?い、いやそれならいっそのこと、美雪に手伝ってもらう方が良いか。ほう、羽奈ちゃん、ほう……。にやにやする榑井美雪!や、待って、そしたら私だって美雪には突っ込める。良し、ここは一丁榑井美雪に手を貸してもらうということで……。
「あ、や、やならいいんだけど……」
しゅんとした様子で下を向く。多分わざとだ。ほんっとに憎たらしい。
「い、嫌なんて言ってないし!」
ぶん、とロフストランドクラッチをリンジ君の大腿部に当ててやろうと振ったら、見事に避けられた。
「なんでよけるのよ!」
ぶん、すか。
「な、なんでぶつんですか……」
リンジくんの言うことはもっともだ。だけれど多分私にもリンジ君を叩く正当な理由がある。でも私の攻撃は一回も当たらない。さすがはファイヤーマスクと言ったところか。素人の攻撃などかすりもしない。
「……あっ!」
調子に乗ってロフストランドクラッチを振り回していたらバランスを崩してしまった。つきん、と足の付け根に軽い痛みが走る。あ、これ踏ん張れないやつだ。ぐらりと体が傾いて、左足が前に出るけど多分踏ん張りがきかない。コケるかもしれない。
「っとぉ」
と思ったらリンジ君が私の手を取って、ぐいと引っ張り上げながら支えてくれた。そして私の体制が整っても、その手は離れなかった。
「え、ちょ」
思わずリンジくんの顔を見たけれど、畜生この糸目の笑い顔め、どんな表情なのか全く判らない!
「嫌なら放すよ」
そう言って笑い顔が更に笑顔になる。リンジくんの手は少しひんやりしていて気持ちが良かった。だからという訳ではないけれど、別に嫌だなんて一言も言っていないし。
でも、声にはならなかった。
「……」
なので、その手をあらん限りの力を込めて握り返してやる。ギリィ!
「い、痛いんだけど……」
ふん。どうせ私のフルパワーなんてそんなに長くは続かないわよ。
第三九話:アルバイト 終り
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