七本槍市 七本槍南商店街 楽器店兼練習スタジオ EDITION
今日も今日とてアルバイト。夏休み前半はアルバイトと宿題で消えてしまったけれど、リンジくんとは付き合うことになったし、なにもバイトと宿題だけでもない感じは、どこから捻出した?香椎羽奈、と自分でも思わざるを得ない。
「それで、何にも連絡ないの?」
お弁当箱のフタを閉じ、水筒のジャスミン茶を一口飲んでから美雪が言う。つまり、れいにレイジ、と呼びかけたことについて、だ。
「うん……。や、連絡は普通にあったけどFPO2のことは全然触れてこなかった」
「ホントに気付いてないのかな……」
もはやそれはわたしの中で確信に近い。私とリンジくんにしか知り得なかった、莉徒さんに声をかけられた日のことも、もしかしたら、似たような経験をする人がいるものだなぁ、などと思っていそうなところが本気で恐ろしい。
「なんかもうここまでくると気付いてたら逆に茶番過ぎない?」
「うん、それは確かにそうだね」
それでもこの期に及んでわたしたちに正体を隠している、というのであればそれはもう無駄な気もする。しかし、だ。私と莉徒さんの初めての邂逅のことを、似たような経験をする人がいるものだなぁ、と思うほどの天然だとするならば、その天然という部分だけ抽出してみたらどうかしら。
ハナちゃん、まだれいが僕だと気付いていないなしめしめ……。
何がしめしめなのか意味が判らないし、正体を隠して何をしたいのかも正直言って判らない。だから、リンジくんがれいであることを隠していること自体が無意味なのだ。
「まぁ今日会うからちょっと突っついてみるけど、別にばらしちゃっていいよね」
「秘密にしてたのわたしたちじゃないしね」
「それもそうだわ」
そもそもリンジくんも秘密にしていなかったという可能性が大きい訳だけれども。
つ、と時計を見るともう十二時五十五分だ。ささやかなお昼休憩もおしまい。今日はイベントもないからわたしは書類整理と地獄のポップ作りに集中することになる。いまだに巧く絵が描けないけれど、ほんの僅かなごく一部でブキカワイイという評価があることを信じ、私は今日も頑張るのだ。
「よっし、休憩終わりだね。午後もがんばろ!」
「美雪、体調大丈夫?」
思えば、美雪は何だか元気な気がする。この可愛さに加えてこの元気さ。ますます羽原正孝が美雪に魅了されて行くわね!
「うん!結構体力ついてきたかも!」
力こぶを見せるようなポーズで美雪は笑う。尊い……。やはり羽原正孝なんぞに渡しても良いのだろうかという考えが一瞬、私の頭を過る。それはまぁともかくとして、だ。
「それは何より。でも本番出られなくなったら大変だから、私もだけど体調管理はしっかりしようね」
「うん!」
まずはそこ。美雪と二人でステージに立って、ライブをやり遂げること。それが今年の夏の目標かな。楓に言ったら噛み付かれそうだけれど。
「ちなみに羽原君のとこはいつ行くの?バイト終わってからだと面会時間過ぎてるよね」
「そうなんだよね……。今度の日曜日に行ってこようかな、って思ってるけど……」
「おぉ、良いじゃない。宿題ももう集まってやらなくても終わりそうだし」
「だね」
美雪にとっても前向きな案件なのかしら。まだ恋愛感情はないにしても、ああいういわゆる前科があったとしても、今の羽原君はいい奴っぽい。というか良い奴だ。美雪と個人的にどんなやり取りをしているか判らないけれど、それでも美雪がお見舞いに行こうと思えるくらいには前向きな訳か。となると、やるな、羽原君。
「一人で平気?」
「うん、まぁそこは、頑張ってみる」
おぉ、そこまで即答されるともはやお邪魔かもしれないわね。
「頑張らなくていいんじゃない?自然に、無理に話そうと思うとボロ出そうだし」
「だね」
私の実体験でもある。妙に意識し過ぎてしまうと何を話して良いか判らなくなってしまうし、それ故に余計なことを言ってしまうことだってあるし、喫茶店で親子丼を頼んでしまうくらいにはパニックに陥ることだってある。特に美雪なんてパニックになると吃音が酷くなる。あれはあれで私は美雪の可愛さだと思うけれど、美雪本人からしてみれば、醜態に近い気もする。仮に羽原君に好意を持っているのだとしたら、その醜態は晒したくないだろう。
「羽奈ちゃんはリンジくんと二人でも話題に困ることない?」
「ある時もあるし、普通に話せるときもある、かなぁ……」
特に付き合い始めてからはまだ全然時間も経っていないし、何をどう話したら、と考えない方が良いような気はしている。何だかリンジくんが私の彼氏だということも、私がリンジくんの彼女だということも、意識してしまうと気恥ずかしくなってしまう。
「そうだよね、まだ二日目だもんね、付き合い始めて」
「ま、まぁね。でも変に意識してた時もあるから、そういう時には何か話続かないなぁってのはあったけどね」
「やっぱりそうなんだね」
うん、実体験。私は自分では結構冷めている方だと思っていた。いや、リンジくんや美雪と出会う前は確実にそうだったはずだ。だけれど、きっと良い出会いを経験することによって、気持ちの有り方が変わって、今までにない気持ちが生まれてくることもある。私が男の人を相手にあんなに訳が解らなくなってしまうことがあるなんて想像もしていなかった。
「まぁでも美雪は無理に好きになろうとか考えない方が良いと思うけどね。私が言うのも何だけど無理して恋愛しようなんてちょっと違うと思うし」
「それは、そうだね」
苦笑して美雪は頷く。美雪にははっきりとは言っていなかったとは思うけれど、私には恋愛は無縁だと思っていたし、関わろうとは思わなかった。きっと美雪にもそれは伝わっていたのかもしれない。
「でもま、いいとこ見つける、くらいの感じでもいいかも」
きっと元々は良い奴だし。リンジくんが一目置いているというか、気にかけている存在だというのもまた、羽原君の株を上げている気がする。自分の彼氏だから、という訳ではない。リンジくんの個人的な事情を知ってしまってから、リンジくんの生真面目さや勤勉さが浮き彫りになった。何故暴走族などになったのかが全く判らないほど生真面目な性格は、後天的なものではない気がしている。だから、そんなリンジくんが気にかけている羽原君だって、きっと根は真面目だし、良い奴なのだと思うのだ。
「うん、それは勿論。じゃあ下、行ってくるね!」
「あらほらさっさー」
色々張り切ってるなぁ、美雪は。
私も色々張り切って行かなくちゃ!
十三橋市 十三橋駅
二日目。
付き合い始め、二日目。美雪にあんな偉そうなことを言っておきながら、正直もうこの時点で何を話せば良いのか判らないので、極力パニックに陥らないように、あまり考え込まないようにしなければ。
「や、お疲れ、ハナちゃん」
「うん、リンジくんもお疲れ様」
一昨日の今日だけれど、やっぱり顔を見ると気恥ずかしさがある。でも一緒にいられることが何だか嬉しい。今日は晩御飯を一緒に食べようと約束した。一旦帰ってシャワーを浴びてから駅に集合となった訳だけれど、リンジくんからほんのり良い香りがする。それだけで何だか心拍数が上がってしまう。
「ありがと。さってー何食べよっか」
リンジくんも忙しいだろうに、私に時間を合わせてくれた。学生同士のカップルなら学校が別だとしても授業が終わる時間も大体同じだし、そもそももっと早く終わるので夕方から遊びに行ったり、ということもできるのだろうけれど、社会人同士だと(私はアルバイトだけれど)平日に会うのは中々難しいのかもしれない。学生は学生で勿論忙しいけれど、やはり社会人は大変なのだなぁ、と実感する。
「何が良いかなー。リンジくんは?」
一応これもデートになるのだろうか。だとすると、困る。私は今までお洒落なお夕飯など頂いたことがない。
「うーん、ラーメン、カレー、牛丼、晶子さんのとこでオムライスも捨てがたい……」
おっと、そう来たか。それならば私も気が楽だ。そもそも普通のカップルはデートの時の夕食とかどうしてるのかしら。ちょっと調べた方が良さそうだわ。男の人と付き合うのに知らないことが多すぎる。ともかく今日は気遣いなのか天然なのかは判らないけれど、リンジくんの提案に乗っておくことにしよう。
「じゃあラーメン!ラーメンがいい」
「おぉ、付き合って初ゴハンがラーメンは中々だね!」
何だか妙に嬉しそうにリンジくんが言ってくれたのでちょっと安心する。そうか、別に他のカップルに準えることなんてないのか。私たちは私たちなりで。
「でしょ。まぁ私はさっぱり判らないしリンジくんもそうなんじゃないの?」
「何が?」
「や、なんかオシャンなディナーとか」
そもそも私は多分だけど、食に関しては随分安い女だと思う。言葉は悪いけれどいわゆる馬鹿舌だから、結構何でもおいしいと思ってしまうのだ。店屋物でも父や母が味が落ちた、などと言うことがあったけれど、私はそれに気付けたことがないし。
「まったくだね。でもハナちゃんがそういうところ行ってみたいって言うなら調べてみるけど」
社会人と言ったってリンジくんだってまだ十代だ。そういうお店にだって行ったことはないだろうし、もしも行くとしてもお互いに初体験になるだろうからそれも当たり前か。
「うーん。一度くらいは、って思うけど、ドレスコードとかあったらメンドそうだし、まだいいや」
そういうのは大人になってからでも充分だ。聞けばウチの学校は卒業前に一流レストランでテーブルマナーを学ばせるために食事会を開くというし、それを経験してからでも遅くはない。
「じゃあそうだな、ハナちゃんが高校卒業したらお祝いで行こうか」
「お、じゃあ約束ね!」
卒業祝いなら、確かにちょっと高価なお祝いでもお願いしたいところだけれど、リンジくんも何かとお金が必要な身だし、様子を見て、ね。それに晶子さんのお店や涼子先生のお店でだって、美味しいものは食べられる訳だし。
「おっけおっけ。じゃあ今日は気になってて行ったことないお店で良い?」
この十三橋市とお隣の七本槍市はラーメン激戦区でもある。前は良く仄と二人で、十三橋市のお店は私が案内して、七本槍市のお店は仄が案内してくれて、あちこち食べに行ったこともあった。そう言えば最近行ってないな。美雪や楓との仲が深まって、仄と遊ぶ時間が減ってしまっている。夏休み中にまた仄とはデートしないと。それはともかく。
「うん、いいよ。何系?」
食べられない訳ではないけれど、油そばとか背油系のラーメンはちょっと苦手だ。豚骨ラーメンも脂が合わないと胃もたれしちゃうし。
「多分塩系がメインなんじゃないかな」
「塩!いいですねー」
塩と言えば代表格はあっさり系だ。こってり系もあるけれど、塩ラーメンならこってり系でも好き。
「塩ラーメン好き?」
「背脂とか油そば系じゃなければ何でも好き」
どちらかと言えばあっさり系の方が好みだ。でもこってり系も食べられない訳ではないので、別に付き合うのは構わない。あぁ、こういうところで色々違いがあったりして、気を遣わなくちゃいけないのね。い、いやこれは別に付き合ってるとかじゃなくてもそうか。
「こってり系は苦手なんだね」
「食べられないほどじゃないけどね」
「なるほど、覚えとくよ」
うーん。つまりこれは、わたしが仄以外の人間とはあまり懇意にしてこなかったせいもあるのだろう。美雪や楓にしたってまだまだ仲良くなったのは最近な訳だし。一緒に遊びに行ったりはしたものの、ご飯はファミリーレストランばかりだったから、こういった好き嫌いの部分などはそう言えばまだ知らないことの方が多いかもしれない。
お店の前について店名が書かれている看板を読み上げる。
「Whirlwind of Soltってすごい名前ね……」
「直訳でいいなら塩の旋風、だもんね」
とにかくウチの塩ラーメンを食って行け!みたいな感じがして好感が持てる。
「潔いわ」
「今日はすいてるのかな」
お店の外に人影はない。
「人気なの?」
「うん、割と並んでるからいつも諦めちゃってたんだけど」
「それはラッキー」
人気店に並ばずに入れるなんて、ついてるわ。
ラーメンはあっさりもこってりも両方あったので、いや何だったら醤油も味噌もあったので、お店の定番、というあっさり系の塩ラーメンを食べた。物凄く美味しかった。お店の人もベレー帽にベストなんてお洒落な出で立ちだったのだけれど、ラーメンもトッピングが綺麗で、見た目も楽しめるラーメンだった。これは確かに人気が出ておかしくない。
「あ゛~あづい~」
小さめのリュックからタオル取り出して汗を拭うリンジくんを見て思う。
「リンジくん汗っかきだ」
今まではあまり気温も高くなかったから気付かなかったけれど、これからの季節、ファイヤーマスクになるのも大変だ。尤もそう頻繁にファイヤーマスクが出動するほどの喧嘩騒ぎなど起きはしないのだけれど。
「うん。夏場はちょっと動いただけでもうものっすごい出る……」
「だからシャワー浴びてから、だったんだね」
「そ。あんまり仕事終わりとか人に近付きたくない」
汗臭いのとか気にしてるのかな。汗って前日に食べたり飲んだりしたものとかが臭いに出たりもするし、あ、そうか、彼女だからっていうのもあるのかな。だとしたらそんなちょっとした気遣いが嬉しいかもしれない。
「そうなんだね」
「ハナちゃんは余裕だねぇ」
「暑いけどね。リンジくんほどは汗は出ないかな」
もう夏本番だ。外は蒸し暑いし、どこかの中に入れば逆に冷房が効きすぎていて肌寒いなんてことが多い。私はそれほど寒がりでもないから平気だけれど、でもやっぱり温度差には体力を奪われる感じはする。
「うらやましい」
とは言っても体質は仕方がない。そもそも汗っかきだからといってリンジくんを嫌いになる理由になんてならないし。
「流石にこの時間だと晶子さんのお店って訳にもいかないね。ま、明日もあるし今日はこのまま帰ろっか」
ラーメン屋さんだと長居してお喋り、という訳にも行かなかったのでまだFPO2の話はしていない。ゆっくり話せる時間が取れなかった時のために、わたしはもう一つ作戦を用意しているのだ。
「そうだね。ライブ終わるまではなんだかんだとバタバタしそうだけど」
折角リンジくんと付き合えたのだし、初めての一緒の夏休みなのだから、どこかへ出かけたりもしたいけれど。
「うん、でもま、時間見つけてお出かけとかもしよ」
EDITIONにもお盆休みはあるし。その時に二人でどこかに出かければ良いんだ。またドライブとか行ってみたいな。
「うん、そうだね!」
そのままラーメン屋さんを後に、私の家へと向かう。両親にはまだ言っていないけれど、こういうのって早めに言っておいた方が良いのかしら。私がこんなだから、お父さんも心配はしているのだけれど、普通の心配と逆だったりする。つまり「キサマなんぞにうちの大切な娘はやらん!」ではなく「是非ともうちの娘を宜しくお願いします」の方だ。でも付き合い始めたばかりでなんだか変にやきもきさせるのも悪いし、色々勘繰られても鬱陶しい。しばらくは黙っておこう……。
そして私の家に向かうとなれば、第二作戦、第一段階の開始だ。
「あ、スマホ電池切れちゃった……」
そう言いつつ何とはなしにスマートフォンを取り出してわざと電源を切る。
「え、何かいじってたっけ」
ラーメンを待つ間も歩いている時間もわたしはスマートフォンをいじっていない。ゲームもしていないし、本当にほぼwireをするだけの機械だ。あ、いやFPO2と連動したゲームアプリがあるのでそれだけは定期的に立ち上げているけれど、ゲーム自体はしていない。
「実は昨日充電器外れちゃってたみたいで……」
「ちゃんと充電されてなかったんだね。ま、後は帰るだけだし、いんじゃない?」
そ、私は良いんだ。私は。でも私のスマートフォンの電源が入らないことをしっかり覚えておくのだぞ、我が彼氏、永谷リンジ。
「だね。宿題もそろそろ片付きそう」
「お、すごいね、頑張った!」
あとは集まる必要もないくらいには片付いた。これで日曜は私もゆっくりできるし、リンジくんともちゃんとゆっくり会えるようになる。宿題が終わってしまえば、後は楽しいことしかない。
「ま、三人寄れば文殊の知恵ってね!」
「一人の好士より三人の愚者、とも言うね!」
「なにそれ」
聞いたことのない言葉だけれど、同じような意味かな。
「同じだよ。頭が良い人が一人で頑張るより、愚者が三人で頑張った方が良い結果が出せる、みたいな」
「お、おぉ……」
つまり私たちは愚者か。いや私は今回のテスト、赤点はなかったぞ。というか赤点なんて取ったことないけれども。
「張り合った……!」
「そっか、高認取るんだもんね」
つまり、やっぱりリンジくんはしっかり勉強しているってことだ。高認を取ったら大学受験、するのかな。
「とはいってもまだ優に一年あるけどね」
「あ、試験とか?」
そうか、私は高認という存在を知っているだけで、それを取得するためには何が必要なのかなど全く知らなかった。当然高校卒業と同等の認可を得るのだから、試験はあって当たり前だ。そういうことを欠片も考えなかった自分にちょっと腹が立つ。
「うん。今年はまだ準備段階で来年取る予定。大学行くとなったらハナちゃんと同級生になれるかもね」
「おぉ、大学受験するの?」
私は一応受験するつもりだけれど、リンジくんもそうするのかな。
「や、しないけど。今の会社でもっと働きたいし、社長に恩返しもしたいし」
「なるほど」
受験はお金もかかるし、リンジくんは自身が怪我をさせてしまった人への治療費だって稼がなくちゃならない。だから高校を中退して働いている、ということを一瞬忘れかけていた。いけないいけない。私はリンジくんの彼女になったんだ。差し出がましいことはしたくないけれど、無頓着でいてはいけない。最低限の気遣いは、忘れちゃいけない。じゃないといつかリンジくんを無神経に傷付けしまうことだってあるかもしれない。それは、私が嫌だ。今まで私のために色々してくれたリンジくんに、そんな傷付け方をしてしまったら、彼女失格だ。
「そもそも今の会社で働いてたら高認も必要ないっちゃないんだけど、ちょっとだけ給料上がるらしいし」
「そうなんだね」
それはがめつい話ではなく、リンジくん自身の将来設計の話として喜ばしいことだ。下らない社会的な目線でも中卒よりも高卒の方が良い訳だし、その資格、みたいなもので社内の評価点が加算されるのならそれは良いことだと思う。
「でもま、社長がやってこなかったことやって、取れなかったもん取り返せ、って」
「え、あの、コショさん、だよね」
あの気さくそうなおじさん。でん、と妊婦さんのように出っぱったお腹が特徴だ。高校を辞めてできなくなった勉強とか、高校を卒業できなかったこと、か。良いこと言う人なんだなぁ。
「そうだよ。ああ見えて凄い人なんだから」
「ほぇー」
諒さんや貴さんだけではなく、会社にも恵まれたんだ、リンジくんは。私もリンジくんの中でそうした掛け替えのない出会いの一人になりたい。
「僕も後から聞いた話だけど、貴さんもバイトしてたことあるらしいよ」
「そうなんだ!じゃあ社長さんと貴さんって知り合いなんだね」
それは何という偶然……。リンジくんが知らなかったということは、貴さんがリンジくんにあの会社を勧めた訳ではないのだろう。貴さんのことだから何か裏工作とかはしていたかもしれないけれど。
「そうみたいだね。貴さんって昔はテレビ業界のアシスタントディレクターやってて、そこを辞めてThe Guardian's Blueでデビューする前まではウチで働いてたんだって」
「おぉー。なんか意外だね」
「だね。僕も貴さんは最初っから音楽業界にいた人だとばかり思ってたから」
うん、私もそう思ってた。だから仕事に対しての姿勢がきっちりしてるのかな。年功序列だとか社内の地位だとかじゃなくて、仕事をする上で、どこを大切にするべきか、みたいなことを凄くしっかり守っている気がした。
「普通に社会人してたこともあったんだね」
「みたいだねー」
経験は力、っていうことなのかな。その前のアシスタントディレクターだってイメージでしか判らないけれど、相当大変な仕事っぽい気はするし。やっぱり凄い人なんだなぁ。
そんな話をしていると、家についてしまった。なんだか変な意識もせずに自然に話せていたことが今になって凄く嬉しく感じてしまう。
「じゃあ今度は?」
家の門扉の前でくるりと振り返る。ロフストランドクラッチを握る手が少しだけ汗ばんでいたけれど、リンジくんの額の方が汗だくだ。よし、第二作戦、第二段階発動の時。今日は色んなことも話せたし、色んなことに気付かせてもらえたけれど、それはそれ。
「日曜日にする?」
さて、次の日曜にはどうなってることやら。というか、今日、どうなることやら、だ。日曜に会う約束だけして、内容はまたwireで話し合えば良い。分かれるのは勿論名残惜しいし、もっと一緒にいたいけれど、今は作戦も遂行したい。作戦を遂行して、色々とはっきりしたら我儘を言わせてもらおう。もうちょっと一緒にいたい、とか……。
い、いや、キャラじゃないし、言えないか、私じゃ。
「うん、おっけ。それじゃまた日曜にね!」
ぴ、とスマートフォンを操作してスケジュールだけ入れたようだった。ふふ、よし、第二段階遂行。
「うん、じゃあね、ナガタニレイジ」
ワルタさんの真似をして、びょこ、と人差し指と中指を立て、敬礼のようにおでこに付けると、私は即座に踵を返して家の中に入りドアを閉める。昨日、fanaがれいにした挨拶とまったく同じ。ゲームの中では文字だけだけれど、そもそも私はリンジくんをレイジくんとは呼ばない。もしもリンジくんがれいなら、絶対伝わるはずだ。
「……は?」
そう、声が聞こえたけれど、聞こえない振り。ドアスコープから外を見てみると、リンジくんがスマートフォンを操作するのが見えた。多分だけれどwireを立ち上げて『ハナちゃん今の何?ていうかハナちゃんってfanaなの!』とでも打っているのだろう。
だが残念だな、ナガタニレイジ。私のスマホは今、電池がなくなって電源が入らないということになっているのだ。
「よし、第二作戦、第二段階成功……」
あとはリンジくんが家に帰って、FPO2にログインするのを待っていてやろうじゃないか……。
第四九話:まだひっぱるアレのネタ 終り
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