「……潮の香りがする」
「……ね」
駐車場に車を停めると、もう観覧車はほぼほぼ目の前だった。と、思ったけれど観覧車の足元までを考えると結構距離はありそうだ。車を降りて外気にさらされると海が近いせいか潮の香りが耳元を流れ鼻孔をくすぐった。辺りは暗いけれど、車の数はまばらにある。確かこの公園は昼間はバーベキューなどもできて、水族館もあって、休日は家族連れで賑わう公園だ。
「観覧車の方って海とは逆?」
「逆ではないけど、観覧車の方に行っちゃうと海には出ないね。海出たい?」
わたしは方向感覚が優れている訳ではないので、正しくは判らないけれど、何となく海は観覧車を正面にすると左手側のような気がした。そして当初の目的は観覧車だったけれど、潮風にさらされたら海を見たくなってしまった。
「うん」
「じゃちょっと歩こっか。街灯はあるけどあんまり明るくないから気を付けてね」
そう言いながら、リンジくんは一歩踏み出せばいつでも私に手が届く距離を保って歩き出した。
思えばいつもそうして気を遣ってくれていたことに今更ながらに気付く。
「ありがと」
そう言って、私は大きく一歩踏み出して、少しだけリンジくんとの距離を詰めてみた。
「……っとぉ!」
と思ったら躓いてしまった。驚いたリンジくんの方が声を上げる。転ぶほどの躓き方ではなかったけれど、インターロックで舗装されたブロックが、塩害のせいなのかところどころ浮き出てしまって、それに足を取られてしまったみたいだ。
「え、ちょっ」
リンジくんは私の肩にトン、と手を当てて勢いを殺してくれた。と思ったらそのままロフストランドクラッチを持っていない右手をぎゅ、と握られてしまった。
「嫌かもしれないけど、海に出るまでは我慢して」
私の方を見向きもせず、リンジくんは言う。
「う、うん……」
え、いや待って、それじゃあ嫌かもしれないけど、を肯定したみたいに思われちゃうかもしれない。そういう意味じゃなく。
「や、ちがう!」
でっかい声が出た。
「え?」
流石にリンジくんも驚いたのか、私を振り向いた。
「べ、別にいやだとか、思ってないし……」
こっち見んな、と言いたくなったけれどそれじゃいけない。リンジくんのこれは親切できっと他意はない。私が躓いて怪我をしないように取り計らってくれているだけだ。それに、だって、他意はないにしたって、男の人と手をつないで歩くことなんて、子供の頃にお父さんとしただけで、今ではまるで経験がないことだもの。恥ずかしくなるのだって当たり前だし、照れ隠しで悪態の一つもつきたくなってしまう。
「そっか、それなら良かった」
細い糸目をもっと細くして、リンジくんは笑った。
「ふわぁー、暗い!引き込まれそうになるね」
遊歩道のすぐ脇がもう海になっている。勿論しっかり護岸されていて柵もあるけれど、水平線は漆黒の闇で見えない。どこまでも無限に続いているんじゃないかと思うくらいの黒色に、引きこまれそうなイメージが沸き立つ。
「だねぇ」
リンジくんは言って、私の手を放した。とはいってもやっぱりすぐに手を伸ばせる位置からは離れていないのだけれども。確かに先ほどのように躓いてしまったら柵を越えて落水してしまうかもしれないので、その気持ちは判る。ちなみに私は一応泳げる。足にあまり力はないけれど、身体が沈むほどではない。だけれど、波の流れのある海では泳いだことがない上に、水着でもなんでもないので、勿論海に落ちることは絶対に避けたい。
「気を付けて」
「うん」
遠くにほんの小さな光がいくつか見える。船舶だということくらいしか判らないけれど、こんな闇の中をあんなに頼りない明かりで進まなければいけないなんて、どれほどの恐怖感があるのだろう。
「リンジくんは泳げるの?」
「僕は金槌」
どことなく、答え辛そうにリンジくんが言う。
「え!そうなんだ!」
身体的というか、運動的な話で男性に、しかもリンジくんに勝る部分があろうとは!少し嬉しくなってしまう。
「な、なんか嬉しそうに聞こえるけど……。ハナちゃんは?」
バレた。
「私はプールとか、波とか流れがないとこで、ゆっくりなら」
「いいなぁ。僕は身体が水に浮かないんだよ」
力を抜いて、自然体にしていれば人の身体は浮くようになっているらしいけれど、その限りでもないことはわたしも知っている。何しろ仄が金槌だから。中学生の時に流れるプールで、流れに乗って泳ごうとしたらやっぱり体が沈んで行って、やっぱ浮かない!と言っていたことを思い出した。
「体脂肪率が低いと沈んじゃうんだっけ」
「一概にそうとも言えないみたいだけど、まぁ僕は体脂肪率低いからね」
確かにリンジくんは服の上から見ても無駄な肉がついていないように見える。がりがりというのではなく、全体的に均整のとれた体つきで、私を腕一本で支えたり、ファイヤーマスクの事を考えると……。
「鍛えたりしてるの?」
「一応基礎的な筋トレだけは毎日少しだけどやってるよ」
なるほど……。勤勉なリンジくんらしい。
「たまには変身もしなきゃいけないんだしね」
「ま、まぁね……」
毎度毎度暴力沙汰が起こる訳ではないのだろうけれど、それでもトレーニングを怠って、この間の栄吉のようなしょうもない奴らに負けては立つ瀬がないと言ったところかな。でもそれにしたって、と思う。
「断れなかったの?」
「ファイヤーマスク?」
「そ」
わたしの疑問を言い当ててリンジくんは苦笑する。
「や、無理強いは勿論されてないよ。でも諒さんや貴たかさんが守りたくて頑張ってきたのって、もし何かが間違ってたら、僕自身が壊す可能性のあったものだ、って思ったら、賛同したっていうか……」
「……リンジくんらしいね」
聞けば、十三橋公園のストリートの催しも、元々は諒さんたちが七本槍市でやっていたことに賛同したからなのだ、と聞いた。諒さんや貴さんは、地元のアーティストたちの活性化をしたい、と色々と動いている。私たちにとってもとてもありがたい存在だ。同じく音楽をやるようになったリンジくんが諒さんと貴さんに賛同するのも得心がいく。
「ハナちゃんは、どうしてストリートでの弾き語り、始めたの?」
同じ音楽仲間としてなのか、それとも守るべき存在としてなのかは判らない。けれど、それも話していなかったな、と思い私は思ったことを口にする。
「それしかなかったから、かな」
「それしか、無かった?」
意外そうな面持ちでリンジくんは言う。
「うん。子供の頃のことはさっき話した通り。友達もいないし、習い事だって満足にできない。でもピアノは、私の足でもできる楽器だったからね。最初に与えられたのがギターだったら、ギターの弾き語りをしてたかもしれないけど、エレクトーンみたいに、脚も駆使しないと弾けないような楽器は無理だったし、最初に触ったのがピアノだったから」
「自分でもできる、っていう自信が生まれた、っていうこと?」
うん、まぁそれに近い感覚はあるけれど、それしかなかったから、という言い方は少し穿った言い方になってしまったかもしれない。
「そんなにご立派なものでもないけど。……やれることがあるならやろう、って」
「……なるほど?」
なるほどと言っている割には疑問詞だ。判るような判らないような、というところかな。
「扱いの難しい話だし、全ての人に理解してもらえるかは判らないこともあるからね」
「っていうのは?」
「……」
言おうと思って躊躇する。この話をしてしまったらいたずらにリンジくんを傷付けてしまうかもしれないと思ったからだ。
「ハナちゃん?」
「リンジくんにとって、ちょっと辛辣な話になるかもだけど、いい?」
一応確認はする。傷付けるというよりは、古傷に塩を塗りかねない感じだろうか。古傷は古傷としてきちんと割り切れているリンジくんならば大丈夫だとは思うけれど。
「勿論」
私が何を言おうとしているのかが判って……。いや違う。何を言われても受け入れるということかもしれない。でも、そんなリンジくんを責めるようなことは言わないから。
「例えば、ピアノが大好きで、ピアノに生涯をささげている人が、怪我とか病気とかで、二度とピアノを弾けなくなってしまったらどうだろうって、私は考えちゃうの」
「……」
わたしにはまだ判らない。失ってみなければ判らないものはあると思う。私は子供の頃から走ることができなかったから、初めから陸上競技には憧れもなかった。だけれど、陸上競技にそれこそ命を燃やしていた人が、わたしのような脚になってしまったら。
「ピアノほどの繊細な指使いができなくてもできる楽器は勿論あるけど、でもその人にとって、ピアノが、命にも代えがたいほどのものだったとしたら?」
私は歌うことだって好きだ。もしも演奏できないほどになってしまったとしても、パソコンのシーケンサーなどを使って音楽を創り歌うことは出来る。だから、もしも私がピアノを弾けなくなったとしても、命を捨てるほどではない、という想像は出来る。
「他の楽器なんて、やる意味はない、よね」
「そういう人だっていると思う、って思えない人が結構いるんだよね」
その人にとっての一番が失われてしまった時に、二番目がある、一番ではなくたって良いじゃない、と。確かにそれは間違いではないのかもしれないけれど、その人の命を失いたくないという気持ちは勿論尊いけれど。
「ハナちゃんもそうだったものが、あったっていうこと?」
気遣うようなリンジくんの声。
「ううん。私は別に何かの代わりにピアノを始めた訳ではないし、続けてる訳でもないけど、でもやりたくてもできなくなっちゃった人のことを考えると、やってやりがいを感じることなら、それは胸を張って、堂々と続けなくちゃ、って思ってた」
それこそ、私の脚がこうだから、という気持ちがなかったと言えば嘘になる。当時の病院には私の他にも足や腕を患っている人が多くいた。病院側は当然、走れなくても、歩くことができなくても、きっと幸せになれる日が来る、と説いていた。それは当然だと思うし、その気持ちを貶めるつもりは私にはない。
「今は違う?」
「今はね、パーソナリティの確立っていうか、香椎羽奈という人間がやれることとか、遺せることっていうのは、これが一番なんだろうなって。楽しいとか好き、は別としてね」
「別なの?」
いけない、そうじゃない。楽しくないけれどやっている訳ではない。
「考え方だけね。勿論シンセも歌も楽しくて好きでやってるけど、でもそれならゲームだってそうだし。でもゲームでは私は何も残せないし、私にとってはゲームはあくまでも遊びだし、暇つぶしの娯楽だからね」
それでもゲームを真剣にプレイしている人たちはいる。だからそうした人の邪魔にならないように遊んでいる。私にとっては、ゲームは香椎羽奈が香椎羽奈として何かを遺すためのものではないと思っているだけだ。
「そうだね。楽しくて好きだけなら努力する必要もない、かな」
あくまでも、私にとってのゲームという意味で、という限定はされるけれど。
「そうそれ。好きで楽しいけどゲームが巧くなりたいのとはちがうから。それに……」
「それに?」
「うん、なんていうか……。大げさかもしれないけど、どんなに僅かな人にでもいいから、指針になれれば、とは思ってる」
今の私が何をできているかまでは正直判らない。だから大それたことを言える立場でもない。でも、わたしの中で燻っている思いはある。
「例えば体に不自由を抱えている人でも、ってこと?」
「そ。私はまだ不自由というほどではないけれど、ハンデを抱えてる。でも、それでもできることはあるし、やれることはある、って、見てもらえればいいかな、って思う」
こんな人間もいるんだ、って。
それだけでも良い。今はまだ。
私は本当の一番を失くしてしまった人の気持ちを判ることができない。でも、本当の一番を失くしてしまった人がもう生きて行けないという気持ちは、判らない訳ではない。
だけれど、それが本当に私にとって大切な人だったとしたら。
一番を失くしてしまったら生きている意味はないよね、なんて言うことができるだろうか。その人に今後何一つ、幸せが来ないかもしれないと判っていても、その言葉を本当の意味で理解することができるだろうか。
だけれど、本当の一番を失くしてしまった人がどんなに大切な人であったとしても、それがなくてもいつかまた何かが一番になるよ、などと無責任なことも言えない。
「……それでさっきの、ピアノの話?」
「うんまぁ、そう、だね」
私の中で結論は出ていない。
「煮え切らない感じだね」
それをリンジくんは見透かしたように言う。
「自分の正義を押し付けることほど悪辣なものはない、って知ったから、かな」
「正孝君のこと?」
「も、あるね」
羽原君のあの大怪我を知った時、どうして良いか判らなくなった。私が余計なことを言わなければ、羽原君は馬鹿を続けていたかもしれないけれど、あんな大怪我を負うことはなかった。後遺症もなく完治するのは僥倖だったけれど、本当にただ僥倖だっただけだ。もしもあれで羽原君が一生車椅子の生活になっていたり、目が見えなくなってしまったりしたら、私は一生をかけて償わなければならない。でも、本当に、ただ単に運が良かっただけでそうはならなかった。本当に運が良かっただけだったのに、羽原君は私のせいではないと言った。
「……」
ナーバスな話だ。折角リンジくんと二人きりなのに。でも話しておかなくちゃいけないことかもしれない。私のことをきちんと知ってもらうためにも。
「例えば、さっきのピアノの話を例に挙げたら、ピアノだけが人生の全てじゃないよ、なんて無責任なこと、言える?逆に言われたとしたら、そうだね!って一片の曇りもなく、本心からそう言える?」
「僕だったら、言えない」
即答だ。それはリンジくんが色んなものを背負ってしまっているから余計にそう思うのだろう。もしも働けなくなってしまったら、きっとギターは弾けなくなる。高認も取れず、怪我を負わせてしまった人に返すお金も稼げなくなってしまう。それは永谷リンジという人間の、大げさに言ってしまえばアイデンティティにも関わってくる問題だ。
「うん、普通はそうなんだと思う。でも、ピアノだけが人生の全てじゃないよ、これからだって楽しいことも良いことも沢山あるよ、って言った人に対して、一番大切なものを失ったのにそんな訳ないじゃない!って返したら、どぉ?」
これは両極な話だ。でもどちらにも立場があって気持ちがあって、言い分がある。
「あぁ、なるほど。なんだよ折角励ましてやってるのに、か……」
すぐに私の言葉を理解してくれてリンジくんが神妙な表情になる。
「間違ったことじゃないって判ってる。正しいことだって判ってる。でも、喪ってしまった側の人の立場に、一歩も歩み寄ってない」
「当人は歩み寄ってるつもりでも」
そう、きっと歩み寄っている。つもりではなくて、しっかり歩み寄っている。
「うん。これはね、ある種の我儘だって、私も少しは思う。でも、そういう我こそ正義、間違ったこと一つも言ってない、って主張しちゃう連中にこそ、自分の言葉を相手がどう受け取るのか、受け取る側の心の問題も考えて欲しい、って思うのよ。人と人との関わりなんてものは、正しいことだけ言ってりゃ良いって訳じゃないって思うようになったからこそ」
子供の頃に、お見舞いに来てくれた子達にした、わたしの辛辣な態度を判ってくれ、と言うくらい、我儘な話なのかもしれない。
当時相手も私も子供だった。だから、誰にも判ってもらえるはずもなかった。彼らがどんな気持ちでお見舞いに来てくれたのかを、私が真剣に考えなかったのだから。
「それは、確かにそうかもしれないね。僕もさ、怪我させちゃった人の家に謝罪しに行ったとき、あんなにも頭ごなしに拒絶されるなんて想像もしてなかったんだ」
暗い海を見詰めてリンジくんは自嘲めいた表情で言った。
「そんなだったの?」
「うん。顔を見るなりシャットアウト。見舞いにも来るなって言われたし、病院の外で会っても通報するぞ、って走って逃げられるくらい。でもそれは、僕がしでかしたことが絶対悪だから、もちろん仕方のないことだって思うんだけどでも、もう少しくらいは、謝罪くらいは聞いてもらえると思い込んでたんだよね」
相手の家族のことを考えたら甘いよね、とリンジくんは付け足した。
「でもそれは、確かにきついね」
リンジくんが相手の家族にどれだけの闇を落としたのか、それをリンジくんが判っていなかったからなのか、判っていても、それでも謝罪をしたかったのか。それは判らないけれど、リンジくんはリンジくんなりの誠意で謝罪に行った。そんなところだろう。
「うんでも、そういう人もいて、何も言う資格がない僕には、ただその現実を受け入れて、できることをやらないといけないんだ、って思い知らされたかな」
「学び、って言っちゃうとそれまでだけど……」
そう。命を絶つ前に、まだやれることはないかを見つけて欲しい気持ちはある。口では言えないけれど、それでも、何も失っていない人だって、懸命に頑張っているものはある。そう言った人たちを見て、何かを感じて欲しい。だから私は見られる側の立場に、少しでも立てるのであれば立とうと思うようになった。
「でも、本当にそうだと思う。僕自身まだまだ甘いけど、自分がどれだけ甘いのかって知らない人は多いよね」
「そうかも。自分の甘さをどれだけ自覚できるか、なのかな」
色んな人がいて、色んな線引きがあって、その線が許容線なのか、逆鱗なのかも判らなくて、もがいて生きている人が殆どなんじゃないかと思う。私と羽原君の間にあった線だって、本当はこの先絶望、の線だったのかもしれないのだ。
「自分に甘いのと、自分に優しいのは違うしね」
「うん。難しい話だけど」
私自身答えは見出せない。だけれど、ひとつだけ確かなものはある。好きだから続けるし、好きだからもっと上手くなりたい。それに背を向ける意味は何もない。
「そうだねぇ」
「だから、私は、押し付けたりしたくないし、判った風なことも言いたくないし、それこそきっかけは何であっても、見た人が自分で気付いてくれるのが一番だって思うから、立てるステージがあるなら立ちたい。自分の好きなことを精一杯やって、それを披露する場があるなら、そこに立ちたい」
願わくば、本当の一番を失くしてしまった人が、私の演奏する姿を見て、やってみたい、とか楽しそう、って感じてくれるように。
「なるほど……」
リンジくんが怪我を負わせてしまった人だって、何か一つ間違えていれば、本当の一番を失ってしまっていたかもしれない。だからその家族はリンジくんを拒絶したのかもしれない。想像の域は出ないけれど、何か理由があってのことなんだということだけは理解することは出来る。それを、謝罪も受け入れないなんて酷い、とは言ってはいけないのだろう。
「でもさ、そんなものがなくなって音楽はやっていいんだし、好きで楽しいだけでやれたら本当はそれが一番だって思う。変に使命感持ったままやってもどこかで気にしちゃいそうだし」
まずはそれが一番。もちろん何かを創って披露するのだから見て欲しい、聞いて欲しい気持ち、承認欲求はある。だけれど、自分の中の大好きに嘘をつきたくない。何かで読んだことがあるけれど、創ったものを褒められるのと、褒められるために創るのは違うと思うし。
「それは、そうだね」
「だから、そういう使命感めいたものはあるにせよ、私は、自分が一番楽しんでやれたら、見せる側、発信側の責任の少しくらいは果たせるんじゃないかな、って思ってる」
恩着せがましいことだってしたくない。希望を失った人すべてに私の歌で希望を与えます、なんてできっこないことが判っているからこそ、いつも仏頂面で一匹狼の香椎羽奈にだって、輝いて見えることがあるのだと、音楽をやっている香椎羽奈は何だか違うと、僅かな人にでも思ってもらえたらそれが今のところの、私が音楽をやる意味なのかもしれない。
「すごいなー、ハナちゃんは」
「全然すごくないよ。今何となく、皆と関わりを持って、そうすべきなのかなって思えてきただけだもん。昔から、始めた当初からそういう考えは持ってなかったし」
それこそ、本来ならば誰かが聞いてくれなければ成り立たない趣味なのに、誰とも関係を持とうとはしなかった。最初にピアノを好きになったのだって私でも楽しめることがあるんだ、程度にしか考えていなかったし、自分に対する希望しか持っていなかった。
でも、自分の内に向けた希望だったとしても、その希望が大切なことだった、と今では思える。
「なるほどね。僕はただ好きでやってるだけだけど、でも、ハナちゃんがそうしたみたいに、正孝君とかも何か感じてくれると嬉しいな、とかは思うよね」
正直なところ、羽原君の怪我も、羽原君自身の決断なのは判っているから、私がすべての責任を取るだなんてことは言えない。だけれどその決断を促したのが私の言葉だ。だからもしも、羽原君がきちんと怪我を治して、私やリンジくんの演奏を見てくれて、何かを感じてくれるのなら、それはとても喜ばしいことだ。
「でしょ。別に羽原君に音楽やれなんて言う気はないけどでも、美雪みたいな子もいるんだもん」
「大きいにせよ小さいにせよ、良きにせよ悪しきにせよ、影響力っていうのは誰でも持ってるものだしね」
それは本当にそう思う。羽原君の怪我のことも、美雪が音楽を好きになってくれたことも、私の影響なんだ。だから、きちんと私なりに羽原君のことも、美雪のことも考えて考えて、考え抜いて、関わり続けたい。
「うん。本当はみんな楽しいが一番なんだし。良い影響を誰かに、ほんのちっぽけな物でも誰かに与えられたら、って本当に最近だけど、そう思うようになってきた」
発信する側の責任。
そんなものを学ぶ機会が多かったのかもしれない。もちろん好きだから、の一言では済まされないことだってある。でもやっぱり、自分の中の大好きを信じて良かったって思えるようになりたい。
「うん、やっぱりすごいよ、ハナちゃんは」
僕なんてまだまだだなぁ、なんて言うところが本当にそう思っているのかいないのか、リンジくんの憎たらしいところだ。いや本当は判ってるんだけど。
「すごくないってば。じゃあ何ができてるかって言ったら、自分では何もできてない訳だし」
私はただ好きで公園で演奏を披露しているだけ。楽しみな八月のイベントのために、折角音楽を好きになってくれた大好きな美雪と一緒に大好きな音楽をしているだけ。
でも結局、今私が長々と語ったことはこういうことなんだと思う。
「ま、自己評価と周りの評価が違うのは僕自身痛感してきてるからね」
「憎たらしい」
確かにリンジくんに至っては、過去の話を知らなければ普通に親切で優しい人だ。周りの誰もがそう言うだろうし、私だって多少胡散臭いと思ったことはあったけれど、親切で優しいことは判っていた。でも、私はリンジくんの過去を知っても、リンジくんの印象が悪くなったりはしなかったし、むしろ今という現実で見るならば良い印象の方がやっぱり大きい。
「褒めたのに……」
口をとがらせて子供みたいにリンジくんは言った。
「自分が得心いってないことで褒められても頭の上にハテナマークが浮かぶのも判るでしょ」
「ま、まぁね」
それだってリンジくんは色々実体験済みなんでしょうし。というよりは誰にでもある経験だとも思うし。
「!」
ごどぅぐるるる。
私の中の獣が咆哮を上げる。そう言えば美雪とのスタジオ前に軽く封印を施しただけで、それ以降何の処置もしていなかったわ。おのれ腹の虫!何もリンジくんの前でそんな咆哮をあげずとも!
「……ゴハン、行こっか」
苦笑してリンジくんは言うと、再び私の手を取った。
「う、うん……」
急に顔に熱を感じて私はリンジくんに頷いた。
第三〇話:香椎羽奈の真ん中 終り
読み終わったら、ポイントを付けましょう!