七本槍市 七本槍中央公園
「ハナちゃん、美雪ちゃん、お疲れ様」
楽屋から出ると、リンジくんがいた。わざわざ出迎えてくれたんだ。それに後に羽原君と栄吉もいる。栄吉はなんだか下を向いてばつが悪そうだけれど、まぁばつは悪いだろうなぁ。
「ありがと、リンジくん」
「ありがとう」
声をかけてくれたリンジくんに私も美雪もすぐに返す。
「美雪さん、最っ高っしたっ!」
うん、あんたにとってはそうでしょうよ。でもリンジくんだって美雪が一緒にいるから私と美雪の名前を含めたのにお前は美雪だけかそうかそうかだが羽原正孝そういうところがダメなんだと言いそうになったけれどやめておこう。だってもうなんか、悦に入ってる目しているもの。
「あ、う、うん、ありがと。も、もう出歩いて大丈夫なの?」
「全然余裕っす!」
うーん!美雪はどっちなんだ!このままでは下手をすると、本当に好きな人ができるまで保険として取っておこうかしら、という全宇宙を揺るがすほどのクソビッチになり果てるが大丈夫なのだろうか。我が親友とはいえ流石にスペースクソビッチの称号は困る。ま、そんなつもりは美雪本人には全くないのも判っているのだけれど、どこかでまた余計なお世話をしないといけないかもしれない。そして余計なお世話といえば、だ。
「サンキューね栄吉!」
「う、うす……」
ちらりと私を見ると、また下を向いてしまう。別にもう何も言いやしないわよ。
「あ、顔腫れてるね……」
軽く折檻はあったということだろうか。それにしたってそのくらいで済んで良かった。隣には何人にも殴られた挙句オートバイで何百メートルも引きずられてやっと松葉杖をついて歩けるようになった男がいるのだから。
「昭次君に一発で勘弁してもらったんだって。ね」
「……一発で良かったわね」
確か、暴走族の今のリーダーだったか。やっぱりさすがに下位とは言え本職の人たちに追い回されて、囲まれて、殴られ蹴られ、腕までへし折られたとあっては、チームのルール以上の痛めつけ方だったのだろうし、それで手打ちとあいなったのかもしれない。まぁとにかく、ああいうバカをやらかしたことを反省して変わって行けるかはこれからだろうし、その前にまずは私たちの前に良くその面を出してきた、という栄吉の心意気は買ってあげたい。本当ならば私の顔なんて見たくもなかっただろうに。
「何だ何だ、怪我人ばかりではないか。夏休みだと浮かれているからそうなるのだぞ」
私たちと一緒に楽屋を出てきたフィオが言う。まぁ確かに暴走族なんて連中は一年中浮かれているから死ぬかもしれない危険行為を平気でやってへらへらしている訳だけれども。今はこの怪我人二人も足を洗ったということで。
「三人共元暴走族だから気を付けてね」
羽原君と栄吉は正直まだ不安が残るけれど、リンジくんは大丈夫だから。
「……なんだと?ボーソーゾク?」
ふ、と鼻を鳴らし、腕を組む。うぅ、失敗したかもしれない。フィオは良くも悪くも正しい人間のような気がする。元、とはいえ性根の曲がった暴走族の話などは伏せておいた方が良かったかもしれない。
「あ、でも今は」
私のフォローを遮ってフィオは真剣な面持ちで言う。
「みなまで言うな。判っている……。そうだろう、千葉県民のことだ!」
「う、うんそう」
房総半島出身なんだ、三人とも。知らんけど。
「だからなんだ!生まれ育った県などで差別などしないぞワタシは!見損なわないでくれ!」
「うん、そう……」
なんかごめん。呆気にとられているのはリンジ君だけだ。羽原君はキラキラした目で美雪を見ているし、栄吉は下を向いたままだし。と思ったら、きっかけから掻き回し、じゃがじゃーんどんどんどこどこばんばんぼーんと音が聞こえてきた。
「いえぇぇぇぇぇっ!Rouge Assail!行っくよぉぉぉぉぉ!」
「あ、始まっちゃった!ハナちゃん、行こう!」
そう体良く私の手を取るリンジくん。あ、い、いや、そんな、みんなの前で、そういうのは、ちょっとでも、はずかし。
「なんだなんだぁ、手など繋いで!妬けてしまうなぁ、美雪!」
「二人は付き合ってるんだよ。恋人同士!」
私とリンジくんのすぐ後ろから美雪の茶化すような声が届く。いやこれは完全に茶化している声だ。ちくしょう。そういえば羽原君はどうしたんだ。あ、私たちの早歩きについてこれていない!待ってやれよ美雪、隣に寄り添うのが栄吉で可哀相!
「な……なぁ、なんだとぉーっ!」
「え、ダメ?」
貞操がどうのとかそんなことを言い出しそうだ。私も別に彼氏ができれば何でも良いという訳ではないし、そのくらいは大目に見てほしいもの。多分みんなそうなのかもしれないけれど、決して不純異性交遊をしている訳ではない。
「馬鹿を言うな美雪!心の底から羨ましい!」
「正直か」
ソッチだかっか。まぁでも確かに色んな意味で、本当に色んな意味で、フィオはハードルが高そうな気がする……。見た目は凄い可愛いのに……。
「そうか、羽奈は総てを捧げても良いという御人に出会えたのだな!」
「そ、そういうこと言うな!」
顔までは見えないけどリンジくんだって耳が真っ赤よ。……多分私も。
「や、あれ本当に結成二年と少しのバンドなの……」
Rouge Assailの演奏は以前見た時よりも確実に巧くなっていて、本当にびっくりした。前に見た時も結成二年のバンドとは思えないほどだったけれど、質の高い練習をたくさんしてきたのだろうことは良く判った。
「無茶苦茶練習してたらしいからね、特に歩ちゃんは」
「そうなんだね」
確かに歩さんは何事も楽しんで向き合おう、という気概がとても強い人だけれど、それがバンドとなるとより一層強くなるんだろうな。ただ単に、ぎちぎちに息が詰まるほどの真剣な思いだけでは、あんなに楽しそうなライブをすることはできないように思う。
「詳しくは聞いたことないけど、相当悔しい思いとかしてきたみたいだよ」
「なるほど。負けず嫌いの歩さんならでは、っていう感じなんだね」
何事も楽しむ、とは言ってもいつでも楽しくにこにこしている訳ではないのだろうことも判る。それは私も私なりに真剣に打ち込んでいることだからこそ、判る。多分歩さんは見えない所で努力をするタイプだ。
「あとはもう、単純にみんな自分のバンド好きすぎるっていう感じ」
「それは、凄く判る」
一番だとか、負けないだとか、そんな気持ちも当然あるのだろうけれど、自分たちが一番楽しい、という気持ちがとても強いんだろうと思う。私たちが演奏を終えた後のあの楽屋の雰囲気でそれは良く伝わってきた。
「ん……。あ、綿あめ食べたい」
不意に鼻孔をくすぐる甘い香り。お砂糖が焦げたような香ばしくて甘い香りがする。ぱっと辺りを見回すと、すぐに綿あめを売っている屋台を発見。
「らっしぇい。……なんでぃ羽奈とリンジか」
屋台に近付くと、タオルを頭に巻いてくるくると割りばしに綿あめをまとわせている人と目が合う。
「は?え?た、貴さん?な、何してるんですか……」
何してるも何も、綿あめを作っている。そんなことなど見れば判る。百も承知だ。問題はそこではない。株式会社GRAMの代表取締役副社長、水沢貴之が、GRAM主催のイベントの真っただ中、何故綿あめを作っているのか、ということだ。
「何って店番だろーがよー」
「え、いや、めっちゃ作っちゃってますけど!」
越権行為も甚だしい。何故店番をしているのか、そこからしてまったくもって謎だけれど、その店番が商品を作っても良いものなのだろうか。
「綿菓子なんて袋に詰めるやつ作んならあんま難しくないぜ。どこだっけか忘れたけどファミレスにも子供向けのサービスであったりすんじゃん」
仮に、お店の方がお手洗いだとか、休憩だとかでお店を外してるのだとして、だからって、難しくないから作っても良いというものでもあるまい……。もう混乱してきた。
「じゃ、じゃあいっこ下さい」
リンジくんとつないでいない方の手、ロフストランドクラッチを肘にかけ、ぴんと人差し指を立てる。
「あ、あれ!なに手ぇなんてつないじゃって、も、もしかして付き合ってたりすんの!」
漫画だったら目玉が飛び出てるであろう勢いで貴さんが言う。そう言えば貴さんや諒さんには言っていなかったわ。
「え、えぇまぁ、まだ付き合い始めたばっかりですけど」
「何ぃ!めでたいじゃないか!綿菓子くれぇおっちゃんが奢ってやるわ!」
おぉー!と両手を上げて万歳。い、いやそんなの喜んでくれるのは有難いですけれども。店番は店番であって勝手に売り物を人様に贈呈するのはどうなのでしょう。
「え、い、いや、店番……」
「え、おれが買えばいいだろ別に。羽奈、頭悪ぃな!」
「な!い、いただきます……」
い、いや確かにそれだけのことではあるけれど、そんな嬉しそうな笑顔で頭悪いとまで言わなくても……。
「リンジトップバッターだろ?ホテルとか行くなよ」
「まだ付き合い始めです!」
リンジくんが胸の前で腕を交差させてバッテン印を作る。世間のカップル様たちが付き合い始めてから何日後にそこに至るかなどは全く知らないけれど、すぐそこに直結するというのは男性ならではのマインドなのかしら。それにそれを言うならリンジくんだって男性だ。私だっていつかは、とは思っているけれど、まだそこまで考えが及ばない。……というよりは意識的に避けている感じはある。なのでここはリンジくんに乗っかってお茶を濁すことにする。
「セィクハラー!」
「お、こりゃすまん。他意はないつもりだったけど、ありありだったな。あと羽奈」
ぽり、と頭を掻いて袋に入った綿あめを私に差し出してくれる。そして手渡しながら私を呼ぶ声には、おちゃらけた感じがなかったように思えた。
「は、はい」
「最後だけでいいから客席、いてな」
ふ、と表情を緩めて、貴さんは言う。最後に何かあるのだろうか。
「え、それは勿論、そうするつもりですけど……」
何しろ最後はMedbだ。このイベントではたくさんのアーティストを楽しみにしていたし、今まで知らなかった素敵なアーティストを知ることもできた。歩さん達のRouge Assailもそうだけれど、Medbも凄く楽しみにしていたバンドだ。見ないという選択肢は絶対にない。
「ん、おっけ。じゃあ若者はお祭りを楽しみたまえ!リンジもトップバッター、宜しくな!」
「は、はい」
「ありがとうございます……」
ははーん。ちょっと読めてしまったぞ。ま、その時が来るまでは、貴さんの言う通り、普通に楽しませていただきましょ。
野外音楽堂から少し離れ、昼間ならば親子連れがボール遊びをしているような広場の間を縫う遊歩道まで来ていた。
「これだけ野音から離れると人もちょっと少なくなるね」
「そうだねぇ」
ベンチの前まで来ると、つないだ手をぱっと放してリンジくんが笑顔になった。今日も糸目が細い。
「ふー、ちょっと休憩。座ろっか」
「うん」
綿あめも食べたいし、少しだけ足も疲れてきたし。
「リンジくんのバンド、初めて見るから楽しみだなー」
綿あめの袋を開けて、少しだけむしって口に運ぶ。甘くておいしい。心地良く披露した身体に染みわたるみたいなイメージ。久しぶりに食べたけれどちょっとハマりそう。もう一度少し取って、今度はリンジくんの口元に運ぶ。綿あめをぱくっと食べてさらに目が細くなる。
「弾き語りの時とは全然雰囲気違うけどね。あまーっ」
もしゃもしゃと綿あめを食べながらリンジくんは言う。そこが気になるポイントでもある。弾き語りをしているリンジくんのスタイルはまったくロックバンドをやっているようなイメージを連想させない。静かでおしゃれなコードを使って、綺麗に歌い上げている。
「そうなんだね」
「うん。どっちも僕なんだけど、ホント分かれてる感じする。セパレート!みたいな」
「弾き語りのリンジくんと、ギタリストのリンジくんが?」
「うん。バンドはね、結構ゴリゴリのロックなんだ。僕は元々そういうのほんとに大好きだし、このバンド紹介してもらった時もすぐにメンバーとも打ち解けて、楽しくやれてる」
「なるほど」
もしかしたら暴走族にいた頃に持っていた攻撃性のようなものを、バンドの方で発散している、ということもあるのかもしれない。お昼に貴さんがメジャーデビューのバンドに言って聞かせた「破天荒だの無鉄砲だの好きにやるぜだの指図すんなだのは音楽の中だけでやれ」という言葉。もしかしたらリンジくんも聞かされたことがあるのかしら。
「で、僕もなんかこう、内から出てくるものを曲にしたい!と思ってやってみたんだけど、出てきたものがロックじゃなかったんだよね」
「ふむ」
確か有名な、歌手でありつつもドラマで主演までするアーティストも同じようなことを言っていた気がする。そういうこともあるんだろうなぁ。
「ハナちゃんは、好きなジャンルと自分が作ったものが同じように感じるけど」
「私は、そうだね」
私は弾き語りを前提としているので、バンドアレンジをメインには考えていない。ただ私の楽器はシンセサイザーだ。ドラムの音色も出すことはできるし、それを打ち込んで合わせて、バンドサウンドっぽくもできる。でも私はバンドサウンドで音楽をやりたい訳ではないので使っていない。ピアノやストリングスの伴奏で歌いたい、というスタイルは私の希望そのものだ。曲に関しても勿論没にする曲はあるけれど、出来上がったものが私自身が好きなジャンルとは違う、ということもない。
「僕は違うんだよね。ロックっぽいものも創れるのは創れるけど、うちのバンドでは見合わない感じの物ばっかりで」
「それで自分で歌っちゃえ、みたいなことになった、とか?」
今参加しているバンドのスタイルに合わない曲ができてしまって、それを生かしたいのであれば、生かす技術があるのならば、当然そういうことになる。
「ま、そうだね。片方では満たされない欲求を片方で満たしつつ、そっちでは満たされない欲求があるっていうなんだか凄いもどかしい感じもしないでもないんだけど」
確かに、自分が書いた曲がバンドのスタイルにもピタリとはまって、演奏できるのならばそれが一番なのかもしれない。多分リンジ君は歌いたい気持ちよりもギターを弾きたい気持の方が強いのだろう。だから歌う時は一人で、というやり方を選んだのかもしれない。
「バンドの方は作曲してないんだね」
「うん、バンドの方はギタボの人がほとんど創ってる。今日は一曲だけ僕の曲もあるけどね」
「そうなんだ、楽しみ!」
また小さくむしった綿あめを食べて、私はそう言った。うん、素直に言えた。綿あめパワーか!
「歌うのは僕じゃないけど」
苦笑するリンジくんの口元にもまた綿あめを運んで食べさせる。
……は!こ、これは声には出してはいなくとも、伝説の『あーん』ではないか!今気付いた!
「でも楽しみだよ。今は素直に好きって言えるけど、知り合ったばかりの頃は癪だけどなんかいいのよねぇ、って思ってた」
「そりゃどうも。ま、でもどっちも僕だし、どっちも楽しいからね。あまー!」
「弾き語りの方はロックじゃないのに?」
それならば何よりだけれど、自分が創ったものがあまりロックに傾倒していない曲でもフラストレーションは溜まらないのだろうか。
「うん。別にロックじゃなきゃ認めない、なんて思ってないし、弾き語り始めたおかげでハナちゃんとも出会えたんだし」
「う、そ、そこにつなげるか……」
そうでなければ私の演奏にも興味は示さなかっただろうし、実際にリンジくんだってロックではないけれど、素敵な曲ができた、って思っているはずだ。それにしてもここにきて口説き文句とは……。ま、ま、まさかライブ前はないにしたって、ライブが終わったらホテルに連れ込む気か!い、いやいくらなんでもそれはないか。あるか?わ、判らん!
「こうして付き合えるまでにもなった訳だし。自分の欲求に素直になるのも悪くないね」
あぁ、視線が真剣だ。良かった、変なことを口走らなくて。
「楽しむのはいけないんじゃないか、なんて思ってたことだってあったくせに」
冗談めかして言う。本当にリンジくんが勤勉で生真面目な、融通の利かない人だったら、そもそも音楽もやっていなかったはず。恐らく諒さんや貴さんの影響もあってのことだろうけれど、それだって融通の利かない頑固一徹の朴念仁だったとしたら、やっぱり勤勉に治療費を稼ぐためだけに、労働のみをしていたようにも思える。
「ま、まぁそれを言われちゃうとね……。実際はハナちゃんに大分助けられた訳だし」
「そっか……」
多分、実際には私ではない。出会ったばかりの時に、リンジくんは怪我をさせてしまった人に対し申し訳ないという気持ちから、自分が生きて行く上での楽しみなどを見出してはいけないのではないか、と思い悩んではいた。だけれどその時にはもう音楽はやっていた訳だし、その、何だ、わ、私にも好意を持ってくれていたらしいし……。私は、多分ほんの少しだけ、リンジくんの荷物を軽くしてあげただけなのではないだろうか。私だけではない。あの時に付き合ってくれた仄や美雪たちも含めて。
「うん。ハナちゃんのお陰で僕は前よりも視線を上げられたように思うんだ。罪悪感に苛まれるだけじゃなくて、ちゃんと人間として生きて、働いて、きっちりやることをやって、それで駄目ならまた別の方法を考えようって、素直に思えるようになったと思う」
「それなら良かった」
素直じゃない私を見ていてこのままではいけない、と思ったのか。そういう風にも取れるけれど、それは黙っておこう。そんなこと、きっとリンジくんは望んでない。
「これはね、受け手側の気持ちなのかもしれないけれど、ハナちゃんの言葉にはそれだけの力があるんだと思う。それは今ここで話すようなことじゃない、ハナちゃん自身のつらい経験もあってのことだって思うし、それこそ色んな人と出会って変わってきたハナちゃんの気持ちもあってだと思うんだ」
やっぱり。わたしが好きになった永谷リンジという人はこういう人だ。多分、素直じゃなかったけれど、でも、少しずつ心を開いて行った私に、自分の姿を重ねたのかもしれない。
「そう、かもしれないね。でもそれは皆だって同じだよ。私はリンジくんのことを知らず頼りにしていたこともあるし、仄は勿論だけど美雪や楓にも色んなことを教えてもらった気がする」
「……」
ふむ、と頷いてリンジくんが笑顔を向けてくれる。以前の私だったら「なによ」くらい言っていたかもしれない。
「それはどちらが先、とかいうことじゃなくて、お互いが良い影響を与え合ってるんだって思えるようになってきた。羽原君だって、あのバカ栄吉だって少しは変われたんだ、って思う」
正直今日、栄吉が来てくれたことには驚いた。栄吉が怪我をして倒れていたあの時に話したことが、栄吉なりに響いて聞こえたのかもしれない。
「栄吉君ね」
「どうしたの?」
くすり、と笑ってリンジくんはまた糸目をさらに細くする。
「僕と正孝君のとこにきて、土下座して謝って来てさ。そのあとハナの姐御にもきちんと謝りたいっす、って」
「そうなんだ」
あの野郎、姐御はやめろって言ったの覚えていないのかしら。
「それもさ、今のハナちゃんだったからなんだろうね」
あぁ、うん。それは判る気がする。
「そうかも。前にね、羽原君と栄吉が学校に来た時に啖呵切ったんだけどさ、間違ったことは言ってるつもりはなかったけど、感情に任せてた感じはあったし、正直あれを言われてムカつくのも仕方ない、っていう気持ちもあったし」
正しいから、間違っていないから、相手を苛烈に責めても良い訳ではない。あの時の私はそれが判っていなかったように思う。正しい言葉であっても伝え方ひとつで、相手に与える印象はまるで違う。だけれど栄吉が怪我をした時に話したような言い方を、もしも学校に来た時に出来たとしても、あの時に栄吉がそれを受けれたかは正直判らない。だから、時間というものが誰にでも必要なんだって、思う。
「そういうの、みんな影響し合って、少しずつ成長していって、っていうことなんだろうね」
「うん、そう思う」
リンジくんを最初は胡散臭いと思っていたことも、リンジくんが私を想ってくれていたから払拭できた。リンジくんが私に何の感情も抱いていなかったとしたら、今この時間も存在しなかった。私が涼子先生にピアノを習っていなければ、リンジ君と私は出合うことがなかったのかもしれない。あ、なんかイメージが湧いてきた。新曲創れそうかも。
「やっぱり僕は、ハナちゃんを好きになって良かったなぁ」
「ふふ、顔真っ赤」
こういう可愛いところもあるのね。
「い、言わないでよ。けっこう好きって伝えるの勇気いるんだから」
「う、うん、ごめん」
それは、判る……。私だって多分、付き合い始めてからまだそんなに時間は経っていないのに、私から好きって言ったこと、ないかもしれない。こ、これは、改めないといけないぞ。でも、今日、少し色々と素直になれた気がするから……。
(無理ぽ)
「だめ、許さない」
ぐぐぐーっとリンジくんの顔が近づいてきた。え、まさか、それ、こんなところで。
「え?あ……」
ふわり、と私の唇にリンジくんの唇が振れた。
あー!ちょちょちょちょー!いきなりそんなことするものだから一気に心拍数が上がってちょっと眩暈起こしそうよ私。あぁ、すごい、別の生き物みたいに心臓が激しく動いてる。コレ振動でブラずれない?
(や、お、お、落ち着けカシイハナ!彼氏彼女なんだ、こ、コイビト同士なんだ!そんな、き、キスくらいで狼狽えてやるのか?そんなことをしたらこの男は喜ぶだけだぞ!)
「よし、勇気もらった!本番頑張れる!」
ばっ、と立ち上がって両の拳を夜空に突き上げる。地球のみんなに元気でも分けてもらうのか。
(い、いやだから落ち着きなさい香椎羽奈!)
「うぅー!」
リンジくんの顔がまともに見られない。体中の血液が顔に集中してしまったかのように顔が熱い。
でも、凄く、凄く嬉しい。
「ちゃんと本番できたらご褒美にもっかいね」
地球のみんなに元気を分けてもらえたのか、リンジくんはくるりと振り返って、満面の笑みでそう言ってきた。ちょ、調子に乗ってぇ!
「え!や、あ、あの……。う、うん」
オラ頷いちまったぞぉ!
「やったぁ!頑張るぞ!」
「うぅー!」
とてもとても恥ずかしいけれど、でも、やっぱりリンジくんと一緒にいると幸せな気分になれる。きっと私がリンジくんと一緒にいて幸せを感じることができれば、リンジくんも幸せを感じることができるんだ、って今だけは、信じられる。
リンジくんのその笑顔が、信じていいよ、って言ってる。
第六一話:素直であること 終り
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