十三橋市 香椎家
「うーむ……」
何だかまだ顔が熱い気がする。涼子先生のお店、vultureでゴハンを食べた後、うちまで送ってくれてリンジくんは帰って行った。
この間と同じで結局何もなかったけれど、それはやっぱりそういうことなのか、と思いはした。でもまた手を取ってくれたこともあるし、もうなんだか良く判らない。はっきりしろ、と言いたい気持ちもあるけれど、私があんな態度を取ってばかりだからなのか、もう少し素直になれれば状況も変わってくるのかもしれないけれど、そこは正直、中々変えられそうもない。待っているばかりじゃだめなことだって判ってはいるけれど、なんだか雰囲気的にも告白するとか、そんな感じでもなかったし……。
「むーう!」
だめだ。こんな答えの出ないことばっかり考えていたって埒が明かない。ともかくシャワーを浴びて十三橋駅のコンビニで買った履歴書を書いてしまおう。
シャワーを浴びて戻ってくると、スマートフォンのLEDが光っていた。wireかな。
『羽奈ちゃん時間ある?』
wireのメッセージは美雪からだった。
「あ、る、よ」
と打って返信する。するとメッセージではなく、通話の呼び出し音が鳴った。すぐに出る。
「どしたの?美雪」
『あ、こ、こないだの……』
だろうね、態々電話で、ということは。
「お、ついに話してくれるのね!」
『あ、う、うん、もったいぶってた訳じゃないんだけど……』
「ま、私も無理に聞き出そうとは思えなかったしね」
美雪本人のことであって、私が根掘り葉掘り聞き出すことは出来ない。興味はあったけれど、それでも興味本位で色々と訊き出す線引きが私の中ではできなかったのもある。それに美雪ならばきっとこうして自分の口から話してくれると思ていた。
『う、うん』
「で、結局どうなったの?」
美雪が話してくれる気になってくれたというのならば、遠慮はいらない。
『えと、わたしも全然知らなかったに等しい人だし、その、いきなりお付き合いは出来ないから、友達付き合いからなら、って言った』
なるほど。
「無難」
『え、で、でも』
おっと、言い方を間違えちゃったかな。
「あぁごめんごめん非難したい訳じゃなくて、それが一番無難でいいかなって私も思う」
『だ、だよね……』
幾ら好意を向けてくれていたとしても、美雪本人がその人を好きになれるかどうかはまったくの別問題だ。そもそもどんな人なのかも判らない人と、恋人として付き合うことは不可能だ。そういう人もいるのかもしれないけれど、美雪には無理だ。
「美雪的にはどうなの?好きになれそうとか、そういう感触は?」
『今のところ全然判んない、かな』
それこそ、友達付き合いをして行く中で、美雪がその彼のことを好きになれそうならば問題はない。逆にその彼が美雪を見限る可能性だってあるかもしれないけれど、そういった付き合いの中でお互いに良い方へと気持ちが変わって行くのならば、それが一番良いことのように思える。
「そりゃそうよねぇ。メッセージとか電話とかは?」
『ま、まだ電話で一回話しただけ』
まだあれから一週間ほどだ。そのくらいが妥当なのかな。
「そっかぁ」
(いや……)
それは判らない。私はリンジくんとは電話ではあまり話したことがない。正直wireでも連絡事項ばかりで、お喋り感覚でのやり取りなんて一度もしたことなかった……。
『でも、良い人そうではあるかな』
今のところは好感触、と言ったところなのかな。でも友達として、と異性として、には結構な隔たりがあるのはきっと間違いではない気がする。そこでふと思い出した。もう一人の候補。
「なるほど……。羽原君からは何かメッセージ来た?」
ちなみに私には一度もメッセージは来ていない。まぁ羽原君が連絡先を交換したのは、私ではなく美雪の連絡先をゲットしたかったからなので、別に良いのだけれど。
『あ、うん。暇すぎて死にそうなのでいつでも遊びに来てくださいって』
「ほうほう。なんて返したの?」
やっぱり美雪にはしてたみたいね。よしよし。
『また羽奈ちゃんたちと行くね、って』
まぁでも流石にこの時点で美雪が一人で羽原君のお見舞いに行くというのは無理があるかな。今のところ美雪が羽原君をどう思っているかは判らない訳だし。でもちょっとだけ焚き付けてみようかな。
「巻き添え喰らわす気か」
『え、だ、だって!』
うむ、やはりまだこの程度か。顔を見ていないから何ともだけれど、これで少しでも赤面してたり、とかだったら望みはありそうな気がしないでもないのだけれど。
「私には来てないぞ、そんなメッセージ」
『え、そ、そうなの?』
つまり、私には来ていないのに私がお見舞いに行ってはおかしいではないか、と。そういう意味も込めて。
「まぁ半分は私のせいでもあるしねーあの怪我……」
『そ、そんなことないと思うけど……』
私はまだ、羽原君の怪我のことを完全に払拭できている訳ではない。羽原君が私のせいではないと言ってくれても、私の言葉がきっかけになったという事実だってあるのだから。でも今その話を美雪にしても意味はない。なので引き続き焚き付けてみる。
「美雪の好きな漫画とか貸してあげたら?」
まずはそうしたサブカルチャーの趣味的な話題で盛り上がるのは手じゃないのかな。私とリンジ君は音楽という共通の話題があったし。
『趣味違い過ぎると思うけど……』
「羽原君の趣味?知ってるの?」
確かに美雪と羽原君が同じ趣味であるとは考えにくいけれど、でも興味は持ちそうな気がする。自分が好きな女の子が、どういうものを好きなのか、くらいの興味は当たり前にあるだろうし。
『知らないけど、不良が喧嘩するやつとか好きそう』
「……確かに」
何せ元暴走族だ。そういうのは本当に好きそう。
『でしょ』
「なんだっけ、LayNaが主題歌歌ってるあのアニメになったやつは?」
『あれはラノベだから、それこそ読まなそう』
そうだ。私もアニメは見ようと思っていたのにすっかり忘れていた。もともとはライトノベルなのか。私はあまり活字を読む習慣がないのでアニメで観られるならアニメの方が良いな。
「でも死ぬほど暇なら読むんじゃない?今度私らの趣味全開の漫画とか小説持って全部読め、って言ってみようか」
『目、回しそうなイメージ』
私が好きなものはともかく、美雪の好きなものなら目を通すくらいのことは当然するだろうし、美雪のことを考えながらそういう漫画や小説を読めば相当に時間は潰れるだろうし。良いことずくめじゃないか。
「だね。ま、どっちにしろお見舞いはまた行ってあげよ」
『そうだね』
そうしたらまた私はリンジ君と抜け出してしまえば良いのだ。一石二鳥、というにはちょっと計算高い気もするのでその思いは打ち消しておこう。
「その手紙の方の彼、名前は何て言うの?」
『藤木直哉くん』
「知らんな……」
去年も今年も同じクラスにいた覚えがない。ちょっと可愛らしくも端整な顔つきをしていたように思うので、見た目は及第点……。いやいや私如きが外見の評価だなんて良くないなこういうのは。本質は美雪が好きになれるかどうかだもの。いけないいけない。
『同じ中学だったんだけど、わたしも同じクラスにはなったことないし、ちゃんと話したことなかった』
美雪と同じ中学ということは、美雪が当時苦しい立場にいたことを知っている人間なのかもしれない。そう思うと少し、一筋縄ではいかないところもありそうな予感はする。あまり悪い方に考えたくはないけれど。
「……そっか。ま、良い人そうならともかく時間作ってみたら?一緒にいる時間が短いとどんな人かも良く判らないままだろうしね」
ともかく相手を知ること。それが大事だよね。付き合う前と後、結婚する前と後で人が変わる、なんていう人もいるらしいけれど、そこはそれ、この人、と心に定めた自分の責任だってある。男だけじゃない。女だけじゃない。そしてそんな総てを知ることはできない訳で、予想だって難しい。だけれど、知る努力は必要だって思う。
『う、うん……』
「なんか問題とか?」
何だか美雪の返事が煮え切らない。不安要素でもあるのだろうか。
『あ、つ、付き合うのは断っておいて、その、わたしから何か誘ったりって、なんか変じゃないかな、とか……』
それは確かに美雪の言う通りかもしれない。
「あー、なるほどね。でも美雪に付き合う気がないなら放って置けば良いと思うけど、とりあえずどんな人か知りたいなら……。それでデートっていうのもちょっとアレかぁ」
『でしょ』
となると、取れる行動は一つ、かな。
「ま、近い内に練習がてら公園でやろっか。それ呼んだらいいじゃない」
『あ、なるほど』
それが一番の安全策だ。もしかしたらもう見に来てくれたことはあるかもしれない。前から美雪のことが好きなのだとしたら、私と一緒に演奏を始めていることも当然知っているだろうし、そうでなければ練習後に張ったりしないだろうし。ただ一つ、弊害というには大袈裟だけれど、懸念材料があるとするならば。
「楓たちが喧しそうだから先に説明はしとかないと、だけどねぇ……」
『うう……。ま、まぁでも仕方ないよね!』
ほほう、そこまで腹はくくっているのね。ピンチよ羽原正孝。どうやら美雪の意識は藤木君とやらに向いているきがしなくもなくもなくもない(?)!
「そうな!まぁ私はいつでも美雪の味方だから!」
『うん、ありがと!』
そう、できるならば羽原君の味方もしてあげたい気持ちはあるけれど、私は美雪が幸せになってくれるのならば、正直その藤木君とやらでも羽原君でも構わない。あとは美雪に一発ジャブを入れて軌道修正しよう。
「よし、じゃあわたしは履歴書書いて寝る!」
『履歴書?』
お、やっぱり食いついてきた。美雪は朝、家族のお弁当をお母さんと作っているらしいから忙しいかもしれない、とは思っていたのだけれど、弟くんと美雪自身が夏休みに入れば、お弁当が必要なのはお父さんだけだ。というのは私の勝手な勘でしかないけれど。
「EDITIONでバイトすることにした。美雪もする?」
『え、EDITIONで諒さんの奥さんがやってるっていう楽器屋さんだよね』
美雪はしっかり話を聞いていたんだなぁ。こういうところが私と違う、優等生だ。
「うん。今日直接その奥さん、夕香さんっていうんだけど、会って話してきたら、友達で空いてる子がいたら誘ってみてって言われたから」
『え、や、やりたい!』
良し。願ったり叶ったりだ。
「お、いいね!じゃあ明日私夕香さん会えたらに話してみるから、履歴書準備しときなよ」
『うん、そうする!』
うん、やっぱり美雪は元来こういう前向きな明るい子なんだ。楓も良く知っている中学生時代の仄暗い出来事でそうした部分が姿を潜めて行ってしまったのかもしれない。
「宿題も練習もしなきゃだから忙しくなるよー」
『だね。でも羽奈ちゃんと一緒なら大丈夫だよ』
随分と照れ臭いことを言ってくれるじゃないか。でも私も美雪と一緒なら頑張れると思う。
「それでこそ我が相棒!」
夏休みの宿題も。アルバイトもライブイベントも、美雪と一緒なら前向きに頑張れそうだ。
『へへ。じゃあわたしもそろそろ寝るね』
「うん。おやすみ」
『おやすみー』
うーん、まだ恋愛より友達、という感じは否めないかな。私もかもしれないけれど……。とはいえ、やれることを一つずつやっていくしかないんだけれど。
七本槍市 楽器店兼練習スタジオ EDITION
「おはようございます!」
まずは挨拶。これ基本。ガラスの自動ドアをくぐり、私は出来る限り煩くならない程度に大きな声を出した。
「お、来たわね羽奈!おはようさん!」
自動ドアの向こうに立っていたのは柚机莉徒、その人だった。
「え、あ、ゆ、柚机さん!おはようございます!」
え、な、あ、そうか、柚机さんもアルバイト……。い、いや柚机さんは夕衣さんと同い年だ。あれ、ちょっと待ってそもそも夕衣さんってもうすぐ幼稚園に入る娘さんがいるけど何歳なの?柚机さんも夕衣さんもまだ二十代に見えるけれど……。
「早速事務所、行くわよー」
「え、あ、はい!……あの、なんで柚机さんが?」
入り口から右手側に進んで最奥のドアが開く。自動ドアだ。そして左手にはお手洗いが。その奥にはもう一つ扉が出て来る。その扉もスライドドアのようだった。そこをくぐると事務所が現れた。
「莉徒、ね!羽奈!」
やっぱり柚机さんもか。でもまぁ本人が言うのだから躊躇する意味はない。
「あ、はい!あの、莉徒さんがどうしてここに?」
「どうしてって、引率」
事務所に入り、私を振り返ると莉徒さんは腕を組んだ。事務所は正面奥と左手側は窓があり、かなり広く、明るかった。デスクは六つ向かい合わせた島が二島ある。単純計算で十二人分のデスクだ。左手の奥まったところに少し大きめのデスクが一つ。これは恐らく夕香さんのデスクかもしれない。綺麗に片付いているけれど、中央にある四つのデスクには様々な資料やファイルが乱雑に置れているし、紙切れや厚紙、鋏やセロハンテープなども置いてある。
「え!柚机さんがですか!」
ということはやはりアルバイトという訳ではなさそうだ。
「そうよ。昨日夕香さんから聞いてるんじゃなかったの?まぁこう見えて一応新人教育もやってるし」
新人教育!
「え?ま、まさかここで働いてるんですか」
「うん。一応形式上は課長ってことになってるわ」
「ええ!か、課長!」
なるほど……。私の演奏に初めて姿を現した時も、もしかしたら仕事が終わってからすぐに駆け付けて、ということだったのかな。だとすると、あの時リンジくんに譲ってもらって一曲、莉徒さんに聞いてもらえてのは計り知れないほど大きな作用があったのかもしれない。
「私もさんざん学生の時分はここでお世話になってたからね。そのまま夕香さんに誘われて社員になっちゃった」
「な、なるほど……」
そういうこともあるのか……。厭らしい考えかもしれないけれど、ここで私が一生懸命頑張れば働き口が見つかるかもしれない。多分、就職となるとわたしは不利だろうから、ここは一丁頑張って夕香さんにアピールしよう。
「夕衣も産休まではここで働いてたし」
「え、そうなんですね」
なるほど。となると私にもチャンスが巡ってくるかもしれない。自分のためにも一生懸命やろう。
「ま、咲彩が幼稚園入ればまた復帰するしね」
夕衣さんの娘さんのこと、かな……。
「おぉ……。あ、で、ではよろしくお願いいたします!」
育児休暇とか、そういうことなのだろうか。ともかく、学生時代からとなればそれなりに長い付き合いがあって、その間に夕香さんとの信頼関係を作っていったということだ。そもそも夕衣さんも莉徒さんも七本槍市に住んでいるから、ということもあるのかもしれない。私は今回のような繋がりができなければずっと十三橋市でしか演奏をしなかっただろうし、やっぱり良い機会に恵まれた。それを生かすも殺すも私次第ということだ。
「あはは、よろしく。あと多少は判ってると思うけど、ここって全然縦社会じゃないから、あんまりガッチガチにしてると肩凝るの自分だけよ」
「あ、はい……」
そのフランクさ加減にはまだまだついて行けそうもない。何故なら私はまだ子供で、夕香さんをはじめとするフランクな大人に対してフランクな対応という技術が身に付いていない。ただため口で話せば良い訳ではないことは判るし、生意気な態度を取って良い訳ではない。
「フランクと失礼無礼をはき違えてんのはダメだけど、羽奈なら大丈夫でしょ」
「留意しておきます」
うん、やっぱりそうだ。フランクな対応というのはそれなりの信頼関係が必要だと思う。それを構築するまでの関係性も大事だ。
「まじめか」
ぽんと私の肩に手を置いて莉徒さんは笑う。うわ、莉徒さんもめっちゃ可愛いな。夕衣さんと組んでバンドをしているという話だけれど、莉徒さんと月衣さん、二人が揃ってバンドのフロントマンをするとなると物凄い人気なのではないだろうか。
「も、もう少し、柔軟に対応はしたいと思ってはいるんですが……」
「まぁそう思ってれば大丈夫よ。さってーんじゃやるか!」
「はい!」
ぐい、と腕まくりをした莉徒さんに私も続く。ともかくまずは仕事を覚えることだ。私はリュックから手帳とペンを取り出した。
「あれ?何からやんだっけ……?」
くい、と小首をかしげて人差し指を顎に付けると、莉徒さんは私の目を見た。信頼関係ができていたのならば言いたい。
(しらんがな……)
第四〇話:柚机課長 終り
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