七本槍市 七本槍南商店街 楽器店兼練習スタジオ EDITION
宿題を無事に終わらせて、日曜日。今日は美雪と二人で練習だ。アルバイトをしているから、とスタジオ代は格安にしてもらったので、最近はEDITIONで練習をするようになった。
美雪と私がメインボーカルとコーラスを交互に代わる新曲を創って、詰めながら練習をしていたのだけれど。
「んん?」
一回目のサビ、一サビと略すことが多いのだけれど、その一サビを歌い終えて、ふと美雪が演奏を止めた。私も違和感を感じたので美雪の演奏が止まるのと同時に演奏を止めた。
「……うん」
コーラスをした美雪自身が首をかしげるので、私は美雪を見て頷いた。
「あ、羽奈ちゃんも気付いたよね」
違和感。うん、違和感という感じはしたのだけれど、間違っている訳ではない気がする。美雪の一サビの一回し目のコーラスと二回し目のコーラスが違った音階になったのだけれど、意識せずに自然にそうなったのかもしれない。
「うん。何だろ、アウトした訳じゃないよね。もっかいそこだけやってみよ」
「うん」
そう、音程が外れたのならば、コードに乗らない、ディスコードだったのならばすぐに判るし、半音がぶつかるアヴォイドノートだったとしても、音の混ざりの気持ち悪さが出るのですぐに判る。もう一度、サビから入り、そこだけをやってみる。
「……合ってる?よね?」
うん、確かに外れてはいないし、間違ってもいない。そもそもコードと歌メロの関係で、合わせられるコーラスは一通りしかない訳ではない。通常は三度上の音、ドであればドを含めドが一、レが二、ミが三度、となる。また五度上のソでも何の違和感もない、良く使われる定番のコーラスだ。ちなみに、ピアノのコードで言えば、ドのコード、Cはド、ミ、ソの三音から構成されている。
「私なしで行ける?」
私が歌う主旋律、俗称では主メロ、本メロとも言うけれど、それがなければコードとのズレも判る。本メロには合っているコーラスでもコードからはアウトしている可能性だってあるのだ。
「うん。じゃあもっかい」
「あい、ワントゥースリッ」
「……」
耳を澄ませ、美雪の声とコードがアウトしていないかを確認する。
「あーあー、なるほど!」
演奏を止め、ぽんと手を打つ。これはこれで良かった。コードと美雪の声だけでやってみて初めて判った。
「うん?」
不思議顔の美雪に、解るように説明できるだろうか。ともかくやってみよう。
「問題の所のコードは?」
「B7?だよね?」
ぽん、とB7を鳴らし、美雪が答える。私が口でB7と言ってすぐにB7が弾けるようになるほど、美雪は練習を続けている。それはそれでもはや瞠目に値する。僅か一ヶ月足らずでここまでできるようになるのは、本当に暇さえあれば鍵盤に触れているということだ。ともかくそれは後でそれとなく誉め言葉として贈るとして、今は問題を解いて行こう。
「そ。でも歌メロはBのままでしょ」
「うん」
コードには様々な表現がある。通常Bと言えばBMと呼ばれるコードだけれど、少し暗い雰囲気を出すのにBmというコードがあるし、少しお洒落に聞こえるB7というコードも存在する。細かく言えばデミニッシュコードやsus4という小難しいコードもあったりと様々だ。歌メロに少し暗い雰囲気を足したいならBmにするし、お洒落な感じのメロディにしたいのならばB7、9を足したりと、作曲中に色々と考えながらコード展開を考える。
今回問題になった部分は美雪が言った通りB7というコードなのだけれど、そのB7に要因があった。
「B7のセブンスの音、つまり完全七度上の音ってAなのよ。コーラスは大体三度上で歌うのが普通なんだけど、その場合Bの三度上はDになるのね。で、B7とDってコードで弾くとどっちもAが入ってるのよ」
「ふむ……。あ、ホントだ」
私がが言った通りに鍵盤を触り、B7とDを交互に弾く。美雪にもB7とDで同じ鍵盤を鳴らしている部分があることは判ったのだろう。つまりそれがA、音階で言うとラの音だ。B7はシ、レ#、ファ#、ラの四つの音、そしてDはレ、ファ#、ラの三つの音で構成されている。F#、つまりファの#、黒鍵盤の音も同じだけれど、歌メロと絡んでいるのはA、つまりラの音だ。
「だから、本メロがBでコーラスがAでも、コードとしてB7にAが入ってるからアウトはしてないのよ」
コードとして実際に鳴っている音と同じ音階だから。コーラスというよりもツインメロディとでも言えば良いのだろうか。ハモリというよりはどちらも独立したメロディとして成り立っていて、本メロもコーラスもぶつかっていないから、一瞬不思議に聞こえるけれど、コードからはアウトしていない。これ、中々良い表現ではないだろうか。偶然とはいえやはり美雪にはそうした耳の良さと、それに対応するセンスがあるように思える。
「今まではBのメロにDのコーラスを乗せてたってことだよね?でもBのコード構成ってDはないよね?」
ぽーんとBを鳴らす。美雪の言う通り、Bのコードはシ、レ#、ファ#の三つの音で構成されている。
「うん。でもBもB7の中にも長三度で、D#があるよ」
「あれ?じゃあ前のはわたしD#で歌ってたってこと?」
そう思うのも無理はないけれど、多分コーラスの入りの本メロがBだったから入りはDのはず。だけれど。
「まぁDもD#もあるよね。主メロがBでもずっとBの音階で歌う訳じゃないんだから」
それでは歌の意味がない。コードはあくまでも伴奏であって、その伴奏の中でアウトしない範囲で音階を変えるのが歌メロであり、歌そのものだ。
「あ、そっか。え、でも、ということは、Bのコード構成からアウトしない範囲の中で歌ってるってこと?」
「そうなるわね」
車の運転……。というよりはゲームに似ているかもしれない。例えば河川敷にある堤防の上の道のような、一車線で一方通行の道路であれば、車は車道をはみ出なければある程度好きなところを走っても良いといったような感じだ。
「なるわね、って」
眉をハの字にして美雪が苦笑する。
「や、私も音楽理論なんて全然判ってないからなんとなーく、なんだけどさ。あんまりにも外れてたら判るじゃない。美雪もさっきのAであれ?って思った訳でしょ」
「うん、まぁ」
本当はもう少し、コードのことについては勉強したい。したいとは思いつつも、つい演奏や練習ばかりに時間を割いてしまう。要するに、知らなければいけないけれどつい目を背けてしまう、まるで夏休みの宿題のようだ。
「そのくらいの感性でできるわよね。ようはおかしくなきゃいいんだもん」
半分は棚上げだけれど、おかしくなきゃ良い、というのは本当のことだ。この世の中にはもう存在しない音がない、と言われている。もしもそれが本当のことだとしたら、それはつまり数学と同じで、おかしなものもおかしくないものも、全て理論的に証明できるということになる。だとするならば、おかしいと理論的に感じないもの、理論に沿って正しいものを創れば良いだけであって、それはある程度きちんと基礎を守っていればそれほど難しいものではない。
「なるほど……。外れてないってことは、あとは好みの問題、とか?」
「だね」
作曲者の意図、歌い手の意図、様々だ。定石を嫌う者もいれば定石を好む者もいる。
「羽奈ちゃんどっちが好き?」
「私は後の方が好き。一瞬聴いてて、ん?あ、おう!みたいな感じ」
「なにそれっ」
ぷくく、と可愛く笑う美雪を見て私も笑顔になる。良いな、こういう感覚。少し前までは誰かと一緒に音楽をやるなんて思ってもいなかったし、実際始めてみた今でも、こうして大好きな美雪と笑顔で音楽ができるなんて、なんて素敵なことなんだろう。
「他は綺麗に乗ってるし、この曲ってメインが入れ替わるところも意外性の一つとしてあるでしょ。ちょっとお?って思わせる展開がある方が曲としても印象付けしやすいかな、って」
そういったインパクトがある方が曲を覚えてもらいやすい。折角美雪と楽しみながら創れている曲だ。少しでも多くの人に聞いてもらいたいし、少しでも多くの人に覚えてもらいたい。
「確かに……。すごいなぁ、羽奈ちゃん」
顎に手を当てて唸るように美雪は言う。
「いやいややってく内に美雪にも判ってくるわよ。経験経験。……なぁんて偉そうなこと言ったけど、美雪が気にならなかったら、お?とは思ったけど、まいっか、ってスルーしてたと思う」
実際問題それも有りね、くらいにしか思わなかったんじゃないかな。
「それにあんまり音楽理論、音楽理論って考え過ぎると好きなメロディとか創れなくなっちゃいそうだし、今みたいにちょっと調べて検証して、くらいで良いと思う」
不慣れな人間ほど奇を衒う、ということもあるし、あまり難解なコードばかり使っていてもなんだか拗れて行く一方で上手に使えない可能性だってある。中には今回の美雪のようなコーラスラインをメロディに持ってきて、敢えて外れてないけど完全にはオンコードでもない、みたいなことを狙ったばかりの曲もあるけれど、何だか私は逆に退屈してしまう。
「だねー。もうちょっと慣れてきたら作曲もチャレンジしたい」
うん、友達になってくれた美雪が、私と同じ趣味を本気で好きになってくれたのが本当に嬉しい。
「いいね!美雪が自分で本メロ歌うのも、わたしが本メロ歌うのも両方作って欲しい」
「あはは、そうだね。頑張る!」
しかも凄く前向きだ。まだできないとかもう少ししたらとかではなく、前向きに検討、というか、できることならすぐにでもチャレンジしたい、といった感じだ。こ、これは私も負けていられない。気を抜いていたらすぐに追い越されてしまう。
「よし、もうちょっと練習して詰めよう!」
「うん!」
ちか、ちか、とスタジオの防音扉の上にしつらえられたストロボが明滅する。制限時間十分前だ。ここで演奏は止めて後片付けに入る。私たちは美雪がシンセをレンタルしていて、スタンドと譜面台はわたしが使っているのも美雪が使っているのもスタジオのものだ。譜面をバッグに入れて、シンセサイザーの電源を落とす。ケースを床に寝かせ、その中にシンセサイザーを入れ、ファスナーを閉じる。
「そういえばchatterのアカウント、作ろうかな、って思ってるんだけど」
片付けながら私は言う。歩さんに色々と教えてもらって覚悟を決めた。やはり私たちの音楽を知ってもらうには、SNSを利用するのが一番だ。この先に何か弊害があるかもしれないけれど、それは自分たちで一つずつ解決して行くしかない。それは恐らく私たちのような学生ミュージシャンやバンドでもみんなそうしてきているのだから。
「あ、そうなんだ。確か共有アカウントでできるんだっけ」
「そうみたいね。だから私と美雪で」
「うん、いいね」
ごばっと防音扉が開く。スタッフさんが演奏を終えていない人を終わらせたり、レンタルした機材を引き上げに来たり、片付け終わったスタジオ内に変化はないか、忘れ物、落とし物はないかを確認しに来るのだけれど。
「うぇーい!おつかれ!」
入ってきたのは武士歩さん。いや今は武士ってないけれども。
「歩さん、お疲れ様です。日曜日もバイト入れてるんですか?」
今週は確か月曜日からずっと入りっぱなしだ。休まないと労基法的にもまずいのでは?
「うん、まぁ時々だけどね!」
それにしても元気だ。まぁ彼氏である省吾さんもここで働いている訳だし、アルバイトも苦ではないのかもしれないけれど。
「……手伝いますね」
「ノォ!」
レンタルしていたキーボードを美雪が持ち上げると歩さんが制止の声を上げた。
「ん?」
「美雪と羽奈は今日はお客!」
い、いや理屈は判りますが、私たちもここで働かせてもらっているし、何より先輩が片付けているのだからお手伝いくらいするのが普通ではないのだろうか。部活動などに所属したことがない私は今一つ先輩後輩の上下関係が判らない。
「え、い、いや、顔見知りのよしみで手伝うくらい……」
「顔見知りぃ!友達じゃなかった!」
くわ、と私を振り返り大袈裟に声を上げる。面白い人だなぁ。
「い、いや先輩ですし、学年も仕事でも……」
とは言うものの、歩さんの人柄に甘えさせてもらって、時々生意気な口を聞きますが。
「それがどうしたぁ!」
わぁ、となんだか顔文字みたいな顔をして喚く歩さん。括弧、大なり、四角、小なり、セミコロン、括弧閉じ。
「や、割と大事なことだと思いますが……」
「うむ!だが顔見知りなんてなんかちょっと遠い関係がして寂しかろう!」
そこか。いやそうでしょうけれど、友達と言うにはちょっと図々しい気がしてしまったのです。
「気持ち武士ってきた……」
美雪、それは口に出すな。
「まぁ確かに顔見知りは少し他人行儀ですね」
そう言いながら私はマイクをスタンドから外し、ケースに入れるとマイクケーブルをミキサーから外し、巻き始めた。
「だから手を出すな!」
「や、そもそもマイクケーブルの片づけはこっちの仕事です」
マイクもケーブルも、籠に入った状態で渡されるのだけれど、渡される時にはマイクケーブルは八の字巻きされて、マイクは布ケースに入っている状態だ。使った人間が元の状態に戻して返すのが普通だし常識でもある。時々滅茶苦茶な撒き方をして返す人もいるらしいけれども。
「む、そうであった」
シンセサイザーをスタンドから持ち上げる歩さんを見ると不安になる。多分一五〇センチないくらいの身長なので、シンセサイザーがやたらと大きく見えてしまう。バランスを崩して転んだりしないだろうか。と思う間もなくさっとシンセを抱えて部屋を出て行って、またすぐに戻って来る、この辺は流石に慣れているということか。
「ていうか、店員さんはちゃんと元通りになっているか、忘れ物がないかをチェックですよ」
「逆にマイクとかスタンドとかに手ぇ出さないでもらっていいですか」
口々に美雪と私が言う。もちろんこちらは諧謔のつもりだけれど。
「……」
むっすぅと擬音が出そうなくらい不機嫌顔になって歩さんが私を見る。面白いし可愛い。
「そういえば眠さんはここでバイトしてないんですか?」
なので全く関係ないことをわざと言ってみる。
「おぉ、落ち込んでるパイセン無視!」
「え、落ち込んでたんですか?」
歩さんはEDITIONの中では遊撃手的な働きをしていて、スタジオスタッフが足りなければそちらに、手が足りている時は私と一緒にポップ作りをしたり、フロアを担当して若年層のお客さんの相手にしていたりと八面六臂の活躍をしている。武士だし子供みたいな体形だけれど、人としては面倒見が良いしとても優しいし、実はかなり有能なのだ。
「綾崎は涼子さんのお店でバイト中ですぅー」
「あ、いじけた……」
美雪も歩さんとスタジオの仕事をこなしている内に打ち解けて、非常に気に入っているらしい。
「え、vultureでバイトしてるんですか?会ったことないですけど!」
みふゆさんが時々アルバイトとして入っているけれど、眠さんには会ったことがない。
「だって羽奈たちってvultureよりTRANQUIL行く方が多いんでしょ?」
「まぁ住んでるのがあっちですから」
やはり電車で一駅の道のりとは言え、電車で一駅の涼子先生のお店よりも、歩いて行けてしまう晶子さんのお店に行ってしまうことが多くなるのは仕方がないことだ。
「そりゃそうよね!それに確か眠は夏休みの間は朝から五時半までしかいないんじゃなかったかな」
「なるほど。わたしたちと終わる時間一緒なんですね。じゃあいない訳だ」
夏休みの学生アルバイトの時間帯など大体同じようなものなのかもしれない。
「そゆこと。でも夏休み終わったら夕方から閉店までやってるよ」
「そうなんですね。じゃあそのうち会えますね」
夏休みだけじゃなくて普通にアルバイトしてたんだ。それでも会ったことはなかったな。もしかしたら顔見知りになる前に会っていて私が気付いていないだけかもしれないけれど。いやその線の方があり得そうだな。眠さんとは一度ゆっくりお話してみたいし、夏休みが終わったら晩御飯でも食べに行ってみよう。
「だね。よっし、片付いたわね!お疲れ!」
スタジオ内をあちこち見まわして歩さんが元気に言う。
「お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
私と美雪が口を揃える。時間にして十六時。美雪に時間があればそれこそvultureで少し駄弁りたいけれど。
「へっへぇー」
実に良い、満面の笑顔で歩さんが言う。
「……な、何です?」
あまりにも満面すぎて意味が判らない。
「や、なんかさ、年が近いアーティストが頑張ってるのってなんか嬉しい!」
「……確かにそれはありますね」
少し前の私ならあまりどうとも思っていなかったかもしれない。仄がバンドをしていることは勿論嬉しいけれど、仄はその前から親友だったし、歩さんが言っていることとは少し性質が異なる。
「でっしょぉ。もう我ライブ楽しみでしょうがないわ!」
私もそれには同意だ。歩さん達も仄たちも、リンジくんのバンドも、莉徒さんたちのバンドも、滅茶苦茶楽しみだし、私と美雪のユニット、FanaMyuの初のライブでもあるし。本当に楽しみ。
「あ、歩さんって、緊張とかしないんですか?」
あまりにも堂々としているのでそう思ったのだろうか。美雪が多少不安な面持ちでそう言った。
「する!がっちがち!」
「い、意外……」
美雪が言う。歩さんたちのバンド、Rouge Assailは何度かライブを見たことがある。誰一人として緊張していたようには思えないステージングだけれど、歩さんは時々かなりナーバスになる、と仄からも聞いたことがあった。プロのバンドの人でも、どんなステージでも極度に緊張してしまう人はいる。場数で慣れる人もいれば、何度ステージに立っても慣れない人だってもちろんいる。だけれど、こうして普段から話している感じだと、歩さんがそんなにがちがちに緊張するタイプだとはちょっと考えにくい。でも仄からの情報だ。考えにくいだけで嘘ではない。
「うぬら、我を何だと心得ておる!」
「武士」
「武士」
「ぎりぃ!」
勿論冗談ですけれども、歩さんの懐の深さには脱帽だ。もしかしたら美雪が初心者であることを見越しての言葉なのかもしれない。だとしたら本当にありがたい言葉だ。
「あ、そういえば!」
「ん?」
ぽんと手を叩き、美雪が思い出したように言う。
「そろそろわたしも自分の楽器欲しいな、って思って」
あ、そうだ。本番まであと二週間だ。多分夕香さんに言えばここの楽器を貸し出しもしてくれるだろうけれど、これだけ熱意をもってやれているのだから、もう美雪は自分の楽器を持った方が良い。それにきっと美雪だって人生初ライブはちゃんと自分の楽器でやりたいだろうし。
「じゃあ買って帰ればいいじゃん」
スタジオを一歩出て歩さんが言う。私と美雪もそれに倣いスタジオを出る。
「そんな、晩ご飯じゃないんですから……」
それこそギタリストやベーシストの消耗品とかじゃあるまいし。
「や、でも今日は香憐さんも夕香さんもいるし、チャンスだよ。現金なら後でも大丈夫だし、バイトしてるんだから社割してもらえるし」
「なんと」
香憐さんは社員で、キーボード、シンセサイザーを専門にしている店員さんだ。自身でも弾き語りをしていたらしいのだけれど、ここ数年ははめっきりやる回数が減ってしまったという。莉徒さんと同じ課長らしいのだけれど、莉徒さんよりも少し年上で、少しふわっとした天然ガール、みたいな人だ。キーボードフロアにいることが多いので私はあまり話したことがない。
「じゃあ見てく!」
くい、と小さく拳を作って美雪が嬉しそうに言う。新しい楽器を買う時はワクワクするんだよね。判るわ……。
「それが良さそうね。あれ……?」
え?もしかして、とんでもないことに気付いてしまったかもしれない。
「ん?」
くいと美雪が小首をかしげる。可愛いかよ。
「美雪じゃあ今まで何で練習してたのよ」
「ずっと鍵ハだけど……?」
始めたばかりの頃は、確かにそう聞いていた。鍵盤ハーモニカでもちゃんと運指とコード練習にはなる。鍵盤楽器、という一点では同じだし、ピアノやキーボードを弾ける人間は大体鍵盤ハーモニカを弾けるはずだ。でもその逆はどうだろうか。確かに考えてみたら、必要に迫られなかったこともあり、借りていたシンセサイザーも電源を入れたらデフォルトで鳴るピアノの音でしか演奏をしていない。機器の扱い方を覚えなくても鳴る音源しか使っていなかったのだ。
「嘘だろ……」
歩さんがやっぱり顔文字みたいなびっくりした顔で振り返った。えぇ、私もまったく同じこと思いました。
「?」
や、だから可愛いかよ。
第五二話:コードとメロディ 終り
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